「ベル・エポックのパリ」6 第三共和政の危機と変容(3)「ライシテ(非宗教性)」
第三共和政はフランス革命原理の一定の制度的定着をもたらしたが、なかでも最も困難な課題は「新しい人間をつくる」こと、すなわち共和主義的世界観をもった公民を育成することであった。国民統合の最後の仕上げは、青少年の教育からキリスト教的世界観に基づく生活習慣を排除することだったと言い換えてもよい。このこだわりは、フランスのカトリック教会が絶対王政の支柱であっただけでなく、フランス革命以後19世紀においても、その主流はつねに王党派に加担してきたという政治の過去にも負っている。1881~82年にかけて、初等教育に「無償・義務・世俗化」原則を導入した「フェリー法」(1881年法=初等教育の無償化、1882年法=初等教育の義務制および公教育の非宗教性)の成立も、70年代にたびたびささやかれた王党派のクーデタの背後に教会の影がちらついていたことと無縁ではなかった。共和政の安定のためには、全国の地方農村で根強く残る司祭の道徳的影響力をそぎ落とし、共和派の村長や師範学校出の教師がとってかわる必要があった。
「フェリー法」は正規の教員免許状をもたない聖職者を公立校の教壇から駆逐した。宗教教育が禁止されたのはもちろん、教室の壁からキリスト像が撤去され、マリアンヌ像に取り替えられたところもあった。教師たちはまず、国語(フランス語)を普及し「単一にして不可分な共和国」のための前提条件を満たすこと、ついで聖史にかわる国史(フランス史)や地理の授業をとおして祖国の観念を養い、共和主義的公民の教化をはかること、そして理科や算数の学習によって「迷信」を払拭し、科学的世界観に導くことが求められた。また教科の学習だけでなく、給食や遠足などの学校行事を通じて、公衆衛生、集団的規律などの生活規範を体得させ、生徒たちを旧来の宗教行事にしるしづけられた習俗から脱却させることが期待された。
こうした政策は、信仰心の篤い地域(例えばブルターニュ)では様々な軋轢をもたらしたが、1890年代に入るとこの共和政と教会との対立抗争はようやく小康をえる。ローマ教皇レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」によって、教会の近代社会への適応がめざされ、共和政への「ラリマン(加担)」という政策がとられたからである。しかし、それも束の間のこと。「ドレフュス事件」が、仮眠していた「二つのフランス」を呼び覚ますことになった。この事件において、カトリック教会は、王党派と結んで国家転覆をはかったとみなされていた。
したがって、ドレフュス事件以後の急進共和派内閣がもっとも精力的に取り組んだのは、反教権主義政策だった。1901年に成立した「結社法」ではあらゆる結社の設立の自由が認められたが、修道会にはこれが適用されず、1902年の選挙で首相となったコンブは多くの無認可修道会を解散させ、またそれらが運営する多くの学校も閉鎖した(1902年カトリック系私立学校2500校が閉鎖、1903年新たに1万校を閉鎖。ただし5800校は形態を変えて再開)。1904年には「修道会教育禁止法」によって修道会による教育への関与が一切禁止され、同年フランスとヴァチカンとの外交関係も断絶した。またこうした政策の結果、多くの修道士・修道女がフランスから亡命することとなった。
急進派の反教権主義政策の仕上げとなったのが、1905年の「政教分離法」である。この法律によって19世紀初め以来の「政教協約」(コンコルダート)は破棄され、国家および地方公共団体の宗教予算は廃止された。これによってフランス革命期に始まり1世紀以上に及んだ、共和派とカトリックとの文化統合をめぐるヘゲモニー争いは一応の決着がつけられ、以後、「ライシテ(非宗教性)」という国家原理が定着することになる。共和派にとってカトリック教会のヒエラルヒーは、国家内国家以外のなにものでもなかった。個々の信仰を私的な領域に追いやり、公的な立場から宗教団体の介在を排除すること、これが彼らのめざした最小限の獲得目標だった。「議会制とライシテの共和国」それはフランス的国民国家のかたちであり、フランス革命からじつに100年以上の年月を経てようやくたどり着いた国民統合の到達点であった。
(風刺画) 司祭にかみつくジュール・フェリー (1878年)
レオン・ボナ「ジュール・フェリー」1888 1800年代の「宗教戦争」の旗手
第三共和政の下で首相を2度務めた(1880年ーー1881年、1883年 – 1885年)
パリの小学校での十字架の撤去 戸口で万歳する男性、神に祈る修道女も描かれている2
ローマ教皇レオ13世 1898年頃 フランス革命以来、共和制フランスをはじめて認めた教皇
エミール・コンブ 1900年代の「宗教戦争」の旗手
「政教分離法」を上程したのは1904年11月のコンブ内閣だが、成立させたのは1905年12月9日、後任のモーリス・ルーヴィエ内閣
ヴォルテールに触発されて政教を分離するコンブ
モーリス・ルーヴィエ
(風刺画) 「政教分離」
中央はモーリス・ルーヴィエ政権の文部大臣ジャン=バティスト・ビアンヴニュ=マルタン (1905年)
(風刺画)「政教分離」
1801年に教皇とナポレオン1世によって署名されたコンコルダートは1905年に破られた
「La séparation」=「la séparation des Églises et de l'État」 (教会と国家の分離)