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粋なカエサル

「ベル・エポックのパリ」7 戦争への道(1)

2021.01.02 01:20

 フランスの海外植民地は19世紀前半まではイギリス、スペインに比べて小さい。アンシャン・レジームから引き継いだ西インド諸島や若干の貿易拠点のほか、1830年から征服の始まったアルジェリアがあるが、一貫した植民地戦略はなかった。第二帝政になると、国威をかけた海外進出が中東やアジアではじまるが、まだ海外植民地への世論は積極的ではなく、政治家、官僚、ジャーナリストからなる植民地推進のロビーが宣伝活動を積極的に展開するのは、第三共和政下の1880年代からである。チュニジアとマダガスカルを保護領とし、1895年にはフランス領西アフリカ、1910年にはフランス領赤道アフリカを設置し、これによって西アフリカの大部分がフランス領となった。いっぽう東南アジアでは、ベトナムをめぐる中国(清)との清仏戦争の後、1885年の天津条約でベトナムの保護権を獲得し、すでに保護領としていたカンボジアと合わせて、1887年にフランス領インドシナ連邦を設置した。さらに1890年代にはラオスと中国から租借した広州湾をこれに編入している。こうした拡大の結果、以前からの植民地と合わせて、19世紀末におけるフランスの海外での支配地域の面積は約950万平方キロメートル、人口は約5000万人に達した。

 フランスにおける「帝国主義」出現の重要な要因として、国内の社会的矛盾を国外への膨張主義によってそらす社会帝国主義があげられる。フランス政府は植民地獲得によって、普仏戦争の敗北によって傷つけられた自尊心をいやしたり、外貨保有や移民によって小ブルジョワに社会的上昇の機会を約束するなどをはかった。さらに、植民地化を無知・野蛮な現地人を「文明化」する崇高な使命だという独善的な文化的要因は、海外宣教師の伝統が長く、またフランス革命の人類解放の理念を継承するフランスでは強いとされている。この時期に開催された万国博覧会や植民地博覧会は、そうした考え方に基づくフランス人の「帝国意識」が表明される場でもあった。

 しかしこの時期の植民地拡大は、当時の国際情勢とも密接に結びついていた。普仏戦争の後、ドイツの宰相ビスマルクの外交戦略によってドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟(1873年)とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882年)が結ばれ、この「ビスマルク体制」によってフランスは国際的孤立を余儀なくされることになった。こうした情勢下に置いて、王党派や急進派が対独報復のための軍備の充実と国内投資を主張したのに対して、政権の座にあった穏健共和派、特にその指導者フェリーはひとまずドイツとの摩擦を避け、海外での植民地獲得によって国家の威信を回復する方針を選択した。フランスの対独復讐を避けようとするビスマルクもまた、こうした政策を歓迎した。さらに1890年代にドイツが植民地進出に乗り出すと、植民地拡大と対独復讐が次第に矛盾しないものとなり、植民地政策の勢いがよりいっそう増すことになった。

 フランスがこうした国際的孤立から脱却するのは、ビスマルクが失脚した1890年以降のことである。フランスはまず、公債を引き受ける関係にあったロシアとの接近を試み、1894年に露仏同盟が成立。さらに領土問題をめぐってオーストリアと対立していたイタリアとも接近し、植民地問題などで合意した後、1902年に秘密協定を結ぶ。また長らく植民地進出のライヴァルであったイギリスに対しては、1898年にフランスのアフリカ大陸横断政策(北のアルジェリア周辺をおさえたうえで、西海岸のダカールから東のジプチへ)とイギリスの縦断政策(エジプトから南アフリカへ)がエジプトの奥地スーダンでぶつかる「ファショダ事件(イギリス軍指揮:キッチナー将軍、フランス軍指揮:マルシャン大佐)」が起こるが、フランス外相デルカッセはイギリスに譲歩(フランスは当時「ドレフュス事件」で国内の統一が取れていない状況でもあった)して武力衝突を回避した。その後もこのデルカッセ外交の下でフランスは「栄光ある孤立」政策をとってきたイギリスに接近する道を選び、1904年には英仏協商の締結にこぎつける。エジプトに対するイギリスの支配権を容認する代わりに、モロッコにおけるフランスの優先権の承認をとりつけた。さらに3年後には英露協商の締結によって三国協商体制が成立し、フランスはいまや国際的孤立の立場から一点、ドイツ包囲網の形成に成功した。

ビスマルク 1895年頃

ロシア皇帝、ドイツ皇帝、オーストリア皇帝を操るビスマルクを描いた英国誌『パンチ』の挿絵

英国誌『パンチ』のビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世 

  1902年 ビスマルクを失脚させ、「世界政策」と呼ばれる帝国主義的膨張政策を展開

「露仏同盟」(『ル・プチ・ジュルナル』)

アレクサンドル3世橋 

 セーヌ川に架かる橋の中で最も美しい橋と言われるが、1894年のフランスとロシアとの軍事同盟「露仏同盟」締結を記念して1896年に着工され1900年のパリ万国博覧会の際に落成式が催された

アフリカにおける列強各国の植民地の分布(1914年)

カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設するセシル・ローズの風刺画

アフリカを横断するマルシャン大佐の部隊

デルカッセ 

 1898年から1905年までの長期にわたってフランスの外相を務め、「デルカッセ体制」と呼ばれる対ドイツ包囲網の形成に尽力した

1904年英仏協商の風刺画 左からドイツ、イギリス、フランス

フランス植民地主義を表す図版  

  共和国を象徴するマリアンヌの盾には「進歩・文明・交易」と書かれている