10月2日(金) 「歌舞伎座三部、通称石切梶原、「梶原平三誉石切」
歌舞伎座の10月歌舞伎、第三部、梶原平三誉石切を見る。梶原平三景時を片岡仁左衛門が演じた。青貝師六郎太夫を歌六、梢を孝太郎、大庭三郎を弥十郎。
梶原平三誉石切は、梶原景時を演じる役者の、芸を見る芝居である。この芝居は、いつもは悪役の梶原平三景時が、実はこんないい人だった思わせるパロディが背景にあるので、役者にとっては、工夫の仕様があるし、気持ちよく演じられる役だと思う。
悪者が実は善人だったと、歌舞伎お得意の、芝居の最後になって分かるのではなく、最初から悪役の期待に反して? 颯爽とした裁き役で登場するから役者には気持ちがいい役だろう。武勇、知性、情愛を兼ね備えた無類な武将として描いていくので、見せ場も多く、役者には美味しい、気持ちのいい役だと思う。
普段は悪役の梶原景時だが、この芝居では、花道の出から善人と見せなければならない芝居である。観客目線で言えば、出で格好良く、立派な武士で、善人と分からないといけないので、それらしく見せる役者の芸も大きいが、と共に役者のニンも、また重要な役だと思う。
仁左衛門の梶原平三誉石切は、ニンにぴったりの、はまり役だと思って期待して観に行ったが、その通りの芝居となった。今回は、幕が開き、浅黄幕が落ちると、そこは鎌倉の鶴岡八幡宮で、梶原平三景時役の仁左衛門が舞台の中心に立っている設定だった。通常は花道から景時は出るのだが、コロナウイルス禍の工夫であろう、最初から正面に立っている。花道を歩みながら、颯爽とした武将ぶりを見せる事は出来ない。浅黄幕が落ちると、舞台正面に立っているので、いきなり清廉で、情の深い武者のイメージを観客に与えなければならない。難しいと思ったが、浅黄幕が落ちた瞬間、私は錦絵から抜け出てきたような仁左衛門を見た。ほほ骨がしっかりとして、目鼻が整い、鋭い眼光があった。さすが仁左衛門には、佇まいの美しさが強調され、颯爽とした裁き役と分かるところが素晴らしかった。仁左衛門のニンにあった役ではあるが、出の一瞬だけで、梶原平三景時の、品の良さ、奥ゆかしさ、内に秘めた激情までも、じわじわと伝わってきて、仁左衛門の芸の力を感じさせた。
刀の目利きを大庭影親から頼まれた景時は、まずは自分の目で目利きをし、名刀と評価した後には、実際に切れ味を試すシーンが二回あるが、この二回の試し切りが、この芝居のクライマックスになっている。最初のクライマックスでは、二つ胴と言って、二人の人間を寝かせて積み上げ、一気に二人を切り、刀の切れ味を見せる試し切りの場面があるが、実際には、上に乗った罪人だけを切って、下にいる六郎太夫はわざと切らないのである。単に切れ味を試すためにぶった切るのではなく、上に乗った罪人は切るが、下の六郎太夫は切らないよう、調整して切るというのが、見せ場である。名刀なら簡単に二つ胴が出来てしまうところを、景時の、刀を使う武人の腕をもって、力加減、手加減、手心を加えて、あえて一人しか切らないという難しい場面である。それだけに役者には、切る前の真剣さが必要である。まず切る前に、刀をよく眺めて、刀の性能をじっくりと見極めて、刀の切れ味と、自分の刀使いとしての力量を加減しなければならない極めて難しい状況下である。ここで仁左衛門はたっぷり時間を取って、刀を見て、呼吸を整え、大きく息を吸い、「えい」、っと気合を入れて、スパッと切り落とすのではなく、切った途中で、力を止めた。すると切った瞬間に、一つ胴で留められたという自信が感じられたのであろう、一人しか切っていないと、目で確認する事はせず、さっさと舞台の中央に戻った。心配して、横眼で確かめもしないのである。このあたりの武人として腕の見せ方、矜持の見せ方が、仁左衛門は、実にうまいと思った。
この瞬間、舞台の下手では、娘梢が悲しみ、六郎太夫が生きていると笑わせるシーンがあるが、この間、仁左衛門は、終始、刀の状態を確認して、名刀をひたすら見続けている。二つ胴で、あえて一人しか切らないのは、自分の腕に自信があって行った事で、結果は当たり前の事ではあるが、それより、自分が名刀と見込んだ刀が、その通りの結論を出してくれた喜びの方が、大きいのだ。自分の目利きとしての力量、名刀に出会い、目利きが出来た。名刀との出会いと、その刀の性能を100%発揮できた、自分の武人の誇りを強く感じさせた仁左衛門の演技だったと思う。
石切梶原は、度々演じられるので、何度も見てきたが、最後のクライマックス、石でできた手水を斬るシーンが楽しい。二回目の刀の切れ味を試す場面なので、ここは最初の試し切りとは違い、すでに刀の切れ味が分かっているので、完全に役者が、切り方のかっこよさの芸を見せるところだ。
観客に背中を見せて切る型と、手水鉢の向こう側に行き、観客には顔を見せて、「えい」と切る型の二つがあるが、仁左衛門は、後者を演じた。日常的な感覚では、石の手水を刀で切るなど不可能なのだが、そこは芝居、仁左衛門が、神経を集中させ、名刀を上段に振り被り、気合をかけて切ると、あら不思議、手水は真っ二つ、割れた手水を跨いで、決まると、本当に切ったかのような錯覚と快感が得られるから不思議だ。切れるはずがない事を、切ったように思わせる歌舞伎の、一種のマジックなのだが、役者が、のびのびと芸を振りまいて切るから、本当に切れると観客は思うのである。
以前、現藤十郎が、この手水を向こう側から切る型を見た事があったが、観客に背中を見せて、手手水を斬るよりも、正面に回って客席に顔を見せて斬る方が、斬る瞬間、刹那の役者の表情が見られるから、後者の方が楽しいし、石切梶原には合っていると思っていたが、仁左衛門の石切梶原を観て、その考えを強くした。
刀を見つめる時に、切っ先から付け根にゆっくりと目を動かし、刀の位置を少し変えて、じっくりと刀を目利きするが、この時に、刀に「八幡」と言う文字が確認できた。江戸時代の狭い舞台空間で、「八幡」と言う文字を、観客が確認すれば、これは源氏の守り神と分かる訳で、持ち主は源氏方である。刀の目利きのシーンが、観客には、八幡を発見できる時間ともなっていて、大きな字で八幡と刻んであるのは、演出の工夫だと面白く思った。
全体的に見て、仁左衛門の梶原平三景時は、六郎太夫父子への情を余り見せず、同僚の大庭三郎景親から刀の目利きを依頼されたので、あくまで刀の目利き役を終始大事にして演ずる事で、武士の力量を見せておき、クライマックスで六郎太夫へ、源氏に心を寄せていると打ち明けるシーンで、感情を爆発させる演じ方が、見終わった後、梶原平三景時の大きさを感じさせ良かったと思う。いつもは悪役を回される景時が、実はこんなに素晴らしい武将だったと、観客に印象付ける事に成功していると思う。
梶原平三景時が、芝居にあっては常に悪役であったという事は、江戸時代ほど理解されていない現代にあっては、悪人が実は善人だったという歌舞伎お得意のパロディ感は薄くなっている。梶原平三景時が、かつては平家方の武将であっても、源氏に寝がえり、義経を讒言して頼朝に殺させた寧人であったとしても、刀の目利きの素晴らしさ、武人としての腕の確かさ、武将の矜持、六郎太夫父子への愛情を加味して、強烈に素晴らしい武人であるという造形が仁左衛門の景時には、なされていて、頼朝が鎌倉に幕府を作った後は、優秀な官僚として鎌倉幕府を支えた武将であった事を考えると、正当な理解の下での梶原平三景時であると思った。結局、梶原平三景時は、頼朝が死んだ後、鎌倉幕府の有力御家人達の反発をかって失脚し、最後は滅ぼされるのだが、景時という素晴らしい武将の、遠い将来の悲劇性までを、仁左衛門の芸に感じたのは、私だけだろうか。