Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

こんぶトマト文庫のふみくら

“触覚”の恢復 手の倫理/伊藤亜紗

2021.01.03 04:46

 人に触れること/触れられることは、あまり好きではない。何かの拍子に自分の手が誰かに触れたり、逆に誰かの手が自分に触れたり、肩と肩が触れたりすると、たとえ相手がよく見知った人であってもとっさに身をすくめてしまう。直接的に触れ合う距離に至るその少し前の時点で、実はすでに身構えてしまっているのだけど。

 誰かと手を繋いで歩くことも、少し億劫だ。まだ幼かった姪っ子のお守りをしたとき、ショッピングセンターで迷子にならないようにとおっかなびっくり手を差し伸べたことを覚えている。無邪気な姪っ子は、なんのてらいもなく僕の手を握った。僕はそれを柔く握り返した。


 「触覚」が遠い時代になった。

 自分と世界との間には、いつも器用貧乏な平たい板が挟まっている。あの板がいることで与れる恩恵もある。でもそれ以上に、あの板は本人が自覚する間もなく日々様々なものを簒奪している。時間とか、思考とか、そして「触覚」とか。

 ただでさえ板の掌の上で踊らされていた世界は、去年の大きな変化によってさらに激しく変遷した。その結果、「触覚」は一種のタブーを帯びるものとなってしまった。

 「触覚」が遠くなった今、改めて思う。人に触れること/触れられることはとても尊いものだ。親密な人と、職場の人間と、道行く人との距離が必要を伴って遠くなり、日常から「触覚」が欠損した。この日常に、かえって気が楽になった人もいると思う。僕もそう思うところがある。でも、全くのタブーとなるとそれはとても苦しいなと思った。触れることそのものに罪悪感のようなものを抱いてしまうのは、過度に自分を自分の皮膚の内側に束縛しなければならないような気持ちになる。それはとても苦しい。


 姉の家族は少し遠いところに住んでいて、次に会うのがいつになるかはわからない。きっとその頃には姪っ子はすくすくと育っていて、もう手を引かずとも大丈夫な年ごろになっているだろう。あの子の手を握ることは多分もうない。