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三浦の咄(はなし)いろいろ

2021.01.03 06:40

https://www.townnews.co.jp/0502/2020/09/25/543991.html 【連載 第67回「三浦古尋録その【6】」 三浦の咄(はなし)いろいろ】 より

 前回に引き続き『三浦古尋録』のうちに「三浦名五木(めいごぼく)」の表記があります。その「名五木」を尋ねてみようと思います。

 その「五木」とは「森戸千貫松・二町谷(ふたまちや)桃・向ヶ崎椿・城ヶ島棍柏(びゃくしん)・三崎山桜」の五つをあげています。

 初めに「森戸の千貫松」について、述べてみます。

 この松の木は葉山町の森戸海岸にある「森戸神社」の境内にあります。

 この神社は治承四(1180)年九月八日に頼朝公が豆州(伊豆)三嶋明神を此処(ここ)へ勧請したと伝えられています。『三浦郡神社由緒記』(昭和十年発行)によりますと、この社(やしろ)は三浦氏代々の祈願社で、葉山郷の総鎮守であったとされ、源頼朝が伊豆の蛭ヶ児島に流されていた時、三島明神に源家再興を祈願して志を得たことにより、この葉山の景勝地に三島神社の分霊を奉祀して、永く謝恩の誠を誓い、ここに勧請して「森戸神社」と名づけて祀ったと言われています。境内に「千貫松」以外にも頼朝公が腰を掛けて憩(いこ)うたと言われる「腰掛松」もあります。

 さて、「千貫」とは何を意味するのでしょう。江戸期の貨幣制度で、一貫は銭千文(もん)としており、明治期では十銭を一貫としています。「千貫」とは、それなりの価値があるのでしょう。

 『新編相模風土記稿』(天保十二年/1841年完成)には、「社の西海浜に突出たる岸上に在り、周囲二尺(約60cm)余り、松樹の形いと美にして其(そ)の価(あたい)千貫を似て募(つの)るべし故に名づく」とあります。

 次に、三浦市の「二町谷桃」について。現在の白石町は江戸期の後半期の頃は「二町谷(ふたまちや)村」と呼ばれていました。この地に「見桃寺」があります。大正初め頃には、北原白秋も居住していた所で、現在も白秋自筆の歌碑、「さびしさに秋成がふみ読みさして庭に出でたり白菊のはな」が寺の境内にあります。

 『古尋録』では、「向井家三崎知行(ちぎょう)ノ時ノ菩提寺ナルヨシ申ス、此ノ寺ノ桃五木ノ一也(なり)(中略)」と記されており、さらに「此処(ここ)ハ昔シ桃林有(あり)テ頼朝公御遊覧ノ地ト云」とも書かれています。

 『新編相模風土記稿』にも、「寺地往古(おうこ)(過ぎ去った昔)は桃林ありて鎌倉将軍しばしば遊覧あり」と記されています。その故(ゆえ)に「桃の御所(ごしょ)」と命名されたのです。

 「三浦の三御所」と称される処(ところ)に、「五木」のうち、「桃・椿・桜」の三木が登場します。

        

https://www.townnews.co.jp/0502/2020/10/23/547825.html 【連載 第69回「三浦の五木その【2】」三浦の咄(はなし)いろいろ】 より

五木のうち「椿」について『三崎誌』の木石の項目「椿」の欄に「向崎にあって鎌倉右大将(頼朝公)、華(はな)を観賞された処(ところ)は「今ノ大椿寺ハ、ソノ跡ナリ」と記されています。

 また、『三浦古尋録』の「向ヶ崎村」の項目のうちに、「昔シ頼朝公椿ヲ植サセ給ヒ御山荘ヲ建給フ故ニ「椿ノ御所云(うんぬん)。三崎ニ桜ノ御所、二町谷ニ桃ノ御所、皆御遊覧ノ地ナリ此ノ椿三浦五木ノ一也」と記されています。

 また、『新編相模風土記稿』の「向ヶ崎村」の項に「三崎分村の一なり」として「三崎町北条入江の対岸出崎なるがゆえ、村名起ると云(いう)」とあって、さらに、この地に大椿寺がある。とも記されています。『三崎誌』には「往古鎌倉将軍の別亭椿の御所今その旧地大椿といふ本尊観音三浦三十三所第三番の札所なり」と書かれています。また『北条五代記』に「向ヶ崎の大椿寺は由来ある古跡、(中略)故、三崎よりは船にて渡海し棹のひまもなし、二世の願望成就し、再礼の袖連(つらな)り、暁の鐘の声には泊船眠を覚す」とありますように霊験あらたかな処であったようです。開基は妙悟尼で、この方のことを「頼朝公の室(妻女)」との説もありますが、そうではなく、鎌倉の待女で、のち剃髪して此の地に住んだ女性であると記し、さらに、「寺伝に此地(このち)は妙悟尼住(じゅう)せし所にして園中椿樹多くありしゆへ、世俗椿ノ御所と称す、後(のち)一寺となし大椿寺の号を授けしと云ふ。今も境内椿樹両三株あり」とあります。

 五の目の木は城ヶ島の「棍柏(びゃくしん)」の古木です。

 『城ヶ嶋村沿革畧誌』(明治二十年七月加藤泰次郎編)に、「白杉の古木」として次のように記されています。

 「安房崎洲(す)ノ御前祠(ごぜんほこら)前ニ在(あり)、往昔(そのむかし)源右府(頼朝公のこと)、和田義盛、佐原十郎、三浦平六兵衛(義村)等ヲ従ヘ本嶋ニ遊宴シ、此所(ここ)ニ張ル一枝ヲ地ニ挿(さ)ス。此(この)枝繁茂シテ後世ニ至リ古木トナルト云フ、而(しか)ルニ貞享三(1686)年四月大風ノ後、古木ノ空(うろ)ヨリ発火シ焼失ス。其(その)残片尚(なお)存シ常光寺ノ堂内ニ保存。」と記されています。

 『新編相模風土記稿』には、「城ヶ島海南神社」の項に「古は棍柏(びゃくしん)の神木があったが貞享三年四月、天災に罹(かか)り枯槁(ここう)し、村民が、その木を伐て海南神社に納めたとあります。さらに註として「此(この)木は源頼朝遊覧の時、楊枝を挿置(さしおか)れしに枝葉を生じ、遂(つい)に老木となりしと云ふ。」と記されており、『古尋録』にも同様なことが書かれています。

 さらに、「城ヶ島は頼朝公御遊覧の地であるから『遊ヶ崎』と云う。」とも記されています。

 五木はいずれも源頼朝公に関係あるものばかりです


https://www.townnews.co.jp/0502/2020/11/20/551890.html  【連載 第71回「新編相模風土記稿」 三浦の咄(はなし)いろいろ】 より

 江戸時代の天保十二(1811)年に完成したと言われる『新編相模国風土記稿』のうち、「三崎町」を「美佐木末智(みさきまち)」と記述しています。さらに、「近隣城村及び向ヶ崎・二町谷・東岡・中之町・岡原・宮川の七村は昔此(この)地の属里(ぞくり)なりしが後年各村となりしと云ふ。」とあって、ここに記されている七村を加えれば、現在の「三崎町」と同じ地域となりましょう。

 三崎町は江戸時代から漁港として栄え、町の様子を「人家櫛比(じんかじっぴ)」と述べています。人家がくしの歯のようにぎっしりならんでいるさまを、このように述べているのです。他の書物にも「三崎津」や「三崎浦」などと記されていたようです。

 さらに、海岸の眺望について東は「房陽(房総)の諸山、西方は小網代や諸磯の海浜から鎌倉、江ノ島が見え、遠くは富峰(富士山)や雨降(大山)箱根の諸岳や真名鶴崎や伊豆の伊東浦が望見できる景色に勝れた地であるとも記されています。

 また、「鎌府」(鎌倉幕府)が盛んな頃は「遊覧」の地として、山荘(御所と呼ばれた)を設けられたのでした。

 『玉葉集』(八代集の一つ。京極為兼撰、正和元年/1312年撰進)に、源実朝が此の地に遊覧されたときの詠歌が記載されています。

 「みさきと云ふ所へまかり侍(はべ)りける道に磯辺の松年(とし)ふりたる(年を経(へ)た)を見て詠(よ)みはべりけるとして、「磯の松幾ひさしにか成(なり)ぬらんいたく木高き風の音かな」(海の水ぎわにある松の木は、どれほどの長い年月を経たのであろうか、高い木の枝先きに風の音が聞こえることだなァ)という意であろうか?

 本文では「按ずるに(調べてみると)、右府(三代将軍実朝公)が当所に遊覧されたのは承元四(1210)年・建暦二(1212)年の二回のことで、この時に詩吟されたのであろう。と記されています。

 また、源親行(ちかゆき)(鎌倉初期の歌学者)が『関東紀行』に、三崎のことを掲載しています。

 「三浦の三崎など云ふ浦々を行って見ば、海上の眺望哀(あわれ)を催(もよお)して、来(こ)しかた(通り過ぎてきた)浦々も沖の釣り舟を眺めながら「玉よする三浦が崎の波まより出たる月の影のさやけさ」と詠(よ)んでいます。

 また、『回国雑記』(聖護院門跡准后道興編・室町期の長享元年/1487年)成立。北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記で、当時の交通路などが記されていると言う。

 それに、「船にのりて三崎といへる所にあがりて、「哀(あわれ)とも誰か三崎の浦伝ひ汐なれ衣(ころも)旅にやつれて」と詠じています。

 さらには、応永十(1403)年八月に唐(から)船が三崎港に着岸し、「永楽銭」数百貫が持ち込まれた。との話も載っています。         【完】