Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

鈴木呉雪 江戸中期 長井の俳人

2021.01.03 08:00

http://kurofune67.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-7c0e.html 【鈴木呉雪 江戸中期 長井の俳人】 より

相模湾に面した荒崎は 自然が創造した美しい岩場が続く海岸として知られています。

その荒崎への入り口となる荒崎のバス停近くに観音堂があります。

新編相模風土記稿によるとこの観音堂は長慶院といい、建久3年(1192)二僧良馨が開山、

開基は鈴木家長でその子孫は村民にありと記されています。呉雪はその鈴木家の人でした。

伝えによると鈴木家長は源義経の家臣鈴木三郎重家の長子で、建久年間に荒崎地区に移住し、この寺のほか長井村の総鎮守となる熊野権現をこの地に勧請したともいわれています。

荒井の観音堂と通称されるこの観音堂は三浦三十三観音霊場の三十一番の札所となっています。実は三浦三十三観音霊場の開札は江戸時代中期のころ鈴木家の徳右衛門なる者が開設した者ともいわれています。

さて、この観音堂を訪れると見るべきものがいくつかあります。

その1つは堂の天井に描かれた墨絵の龍です。これを描いたのは江戸中期の文人画家谷文晁との伝えがあるようですがその真意は判りません。

また、堂の裏手の鈴木家の墓地に建つ石像の地蔵菩薩も立派なものであることは素人目でもわかります。

さらに境内に立つ芭蕉の句碑もその1つです。

「海士の屋は 小海老にまじる いとどかな」との句がある碑の浦には呉雪を出頭に8人の名が連ねられています。

呉雪は宝暦12年(1762)に長井村の旧家、資産家であった鈴木家23代目として生まれました。本名は鈴木丈吉といい、村役人として村政にたずさわったほか、地方文人として特に俳譜分野で活躍した人でした。

呉雪は風流旗本ともいわれた江戸の翠園積翠に師事したようです。

鈴木家には二見ヶ浦で積翠が呉雪のために書いた芭蕉の句入りの記念文台が残されています。呉雪は師である積翠と伊勢参りをしたこともあったのでしょうか。

なお積翠は芭蕉門太白堂桃隣の系流の俳人であったため、呉雪も芭蕉崇拝者であったようです。

芭蕉死後150年目の寛政5年(1793)に建てた前記の句碑がそれを物語っています。

実はもう一基の芭蕉の句碑が鈴木家の庭にあります。「草色々 おのおの花の 手がらかな」の句碑です。

さて、神奈川県郷土資料編集委員会の調べによると、呉雪は27歳の天明8年(1788)に

大和の郡山藩主柳沢吉里の子甲斐守信鴻が編集した俳譜百子規という誌に入選し、

「郭公啼くや東の薄明り」が入れられており、42歳の享和3年(1803)には芭蕉変化集を編集したといわれています。

また56歳の文化14年(1817)には蟹殿洞々という句集に「かりがねの 乾ける木地に 仏かな」の呉雪の句が納められているようです。

なお、呉雪の蔵書の中には「呉雪自選句四季袋」をはじめ、「延宝20歌仙」「芭蕉句選年考」「芭蕉変化集」「芭蕉翁発句集」など呉雪自筆の書籍が数多くあり、呉雪の俳譜についての研鑽は並々ならぬものであったことがうかがえます。

呉雪の生まれた家は横須賀市長井町荒井の観音堂に近い所にあり、相模湾の美しい風景に接していました。次のような呉雪の句が自選句の中にあります。

   江の島は 波の中なり 今朝の秋 (辻井 善弥)