かくれキリシタンの祈り「オラショ」
http://office.nanzan-u.ac.jp/library/publi/item/katholikos32.pdf 【かくれキリシタンの祈り「オラショ」】 より
はじめに
2016年10月12日、カトリック文庫講座「かくれキリシタンの祈り、オラショ」が南山大学図書館カトリック文庫協議会主催で開催された。長崎県外海(そとめ)地方(長崎市下黒崎町)の現帳方(祭礼を司る帳の最高責任者)である村上
茂則氏と本学外国語学部准教授でもあるムンシ神父(MUNSI, Roger Vanzila)(2017年4月より国際教養学部に所属)を講師に迎え、かくれキリシタンや帳方の役割、キリシタンが禁教下でどのようにして信仰を守り現在に至るかなどについて、ご講演いただいた。また、村上グループ伝来の「天地始まりのこと」「椿の十字」「バスチャン暦」「聖母マリアの像」「オラショ本」などの貴重な品々を紹介していただき、かくれキリシタンが禁教下にひそかに伝承してきた祈りのことば「オラショ」も実際にその場で唱えていただいた。
ムンシ神父は、1999年に来日して南山大学で日本語を学び、その後長崎市に移り住んだ。文化人類学や歴史民俗資料学の研究者でもあるムンシ神父は、そこでかくれキリシタンの存在を知り、調査を進める中で、当時の帳方であった故村上茂氏(村上茂則氏の御尊父)と知り合いになった。村上茂氏は、帳方として、日繰り(バスチャン暦)を所持し、一年の祝日や行事の日を繰り出し、キリシタンの祈りの道具とともに祈りや教義を伝承してきた。その生き方、勇気、模範的信仰と指導に心を動かされたムンシ神父は、村上茂氏の生涯を一冊の本『村上茂の伝記:カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者』にまとめたのである。なお、この本から要点を抽出して平易に書き改められ、『村上茂の生涯』とタイトルを変えて文庫版としても出版されている。
カトリック大学である本学では、先駆者であった田北耕也氏をはじめとして数々の研究者がかくれキリシタンの研究を行ってきた。また、本学図書館カトリック文庫には古い洗礼台帳である平戸の御水帳やキリシタン禁制の高札などのキリシタン関係資料を所蔵しており、『カトリコス』やカトリック文庫講座、図書館の企画展などを通じて紹介してきた。本号
では、このカトリック文庫講座でのご縁に感謝し、かくれキリシタンの祈りである「オラショ」について考察していきたい。
オラショとは
1)かくれキリシタンとオラショ
1873(明治6)年のキリシタン禁制の高札撤去以降も、潜伏状態のままの信仰形態を守り続ける人々が、長崎外海地方、五島列島、長崎近郊、生月、平戸地方に見られる。いわゆる、かくれキリシタンと呼ばれている人々である。「かくれキリシタン」という呼称については数々の見解がある。自らは秘匿を原則とするものであったから、自分たちを外部に知らせる名称をもたないし、内部での自らの呼称は地域により時代により異なっている。「かくれキリシタン」の呼称も外部の研究者が便宜的につけた名称であり、「隠れキリシタン」や「はなれキリシタン」「古キリシタン」「旧キリシタン」など
の名称が用いられる場合もある。宮崎健太郎氏は、キリシタンの禁教令が出されていた江戸時代の信徒を「潜伏キリシタン」、1873年禁教令が撤廃された後も潜伏時代の信仰形態を維持している人々を「カクレキリシタン」と総称することを提案している(『カクレキリシタンの実像』p.40)。
「オラショ」とは、かくれキリシタン信仰の行事で唱えられる祈りのこと。世界大百科事典では次のように定義している。「祈りを意味するラテン語に由来するキリシタン用語。隠れキリシタンが伝承したキリシタン時代からの祈り文と教義や掟を言うが、口から耳に伝えたので訛伝が多い。隠れキリシタンは長崎県の外海(そとめ)・五島系と生月(いきつき)・
平戸系に分かれ、オラショにも異同がある。前者は黙誦し後者は斉誦して歌オラショを伝えた。今日役職者以外はほとんどオラショを知らず、オラショの忘却にともない隠れキリシタンの土俗化が進んでいる。[片岡千鶴子]」
日本にキリスト教が初めてもたらされたキリシタン時代の当初より、原語のオラショ(oratio)という言葉が用いられ、現在のかくれキリシタンの人々もオラショという言葉を日常的に用いているが、地域、グループによっては、ウラッショ、オラッシャ、ごしょう、御経文などと呼ばれる。
片岡弥吉氏は、キリシタンたちが信仰を失わなかったのは、このオラショを唱え、掟を守ることによって神様や、サンタ・マリアと結ばれつづけていたことによるのではないかと述べている(『長崎のキリシタン』p.88)。片岡千鶴子氏も、潜伏時代250年という長い弾圧の年月を一人の司祭もなしに信仰を守り続けることができたことの一つに、厳しい弾圧に潜伏したキリシタンたちがオラショを忘れなかったことをあげている。キリシタン時代の信者たちは、オラショの意義と重要性をよく教えられており、オラショをどんなに大切にし、よく祈っていたかは、当時の宣教師たちがヨーロッパに送った手紙の中にも示されているという。祈りは神と人が結ぶ絆であり、どの宗教でも信仰生活の力として大切にされており、祈
りが実行されている度合いが、その宗教の宗教性の厚薄をはかるバロメーターになるといわれる(『キリシタンの潜伏と信仰伝承』p.54)。宮崎氏もまた、「カクレキリシタン信仰が今日まで継承されてきた原動力の一つとして、オラショというカクレキリシタン独自の祈りの言葉がキリシタン時代より伝承されてきたことが信仰継承の大きな力となってきたことは間違いない」と述べている。(『カクレキリシタンの実像』pp.89-90)。
2)時代によるオラショの変容
オラショが日本に伝来して以来、すでに450年の年月を経ている。また、キリシタン禁教令撤廃後のかくれキリシタンの歴史もすでに140年の年月を経ている。この間、地域差もかなりあるが、オラショは変化し続けた。宮崎氏は、大きな変容の流れを次のように分析している(『カクレキリシタンの実像』pp.95-98)。
・第1段階 キリシタン時代
キリスト教が日本に伝来した当初は、ヨーロッパの宣教師たちがヨーロッパのキリスト教世界で用いられていたものを日本人に与えたもので、原語のラテン語そのままのものもあれば、日本語に翻訳されたオラショもあった。その時代のオラショは文句も種類も日本全国ほぼ共通で、ある程度原形が保たれていた。
・第2段階 潜伏時代
潜伏時代に入って宣教師がいなくなり、各地の潜伏キリシタンたちは相互連絡も不可能な状態となった。オラショの言葉の意味もわからず暗唱し、口伝えしていくうちに一部が脱落したり、なまったりした。この伝承過程で文言はかなり転訛し、意味は理解できなくなり呪文化していった。
・第3段階 明治のキリシタン禁教令の高札撤廃以降
明治のキリシタン禁教令の高札撤廃後、潜伏時代の信仰形態を続けてカトリック教会に帰属しなかったかくれキリシタンには、カトリック関係者と接触を持った組織と、まったく接触をもたずに独自にその信仰を続けていった組織がある。
前者の組織においては、潜伏時代に転訛したオラショの言葉の修正がカトリック関係者の指導・助言によってなされた。
次に、昭和初期にかくれキリシタン調査研究の開拓をした田北氏(自身もカトリックであった)によって一定の啓蒙活動が行われ、変容したオラショを第1段階に近い原形に戻す力が加わった。戦後カトリック教会側から、かくれキリシタンを教会へ引き戻す運動が各地で展開され、この運動の中でオラショを原形に戻す動きも加速した。カトリック関係者たちが、変容し呪文化したオラショをある程度まで原形に復元するため手を入れた。中には完全に現行のカトリックの祈りの文言に戻されたものもあるが、かくれキリシタンたちに大きな違和感を与えないように、450年前の古い時代のラテン語やポルトガル語の言葉を適宜残し、意味も若干理解できる程度に修正をとどめたものが多いという。キリシタン時代に伝承されたオラショと潜伏時代に変容したオラショとの折衷形である。宮崎氏は、これは「カクレキリシタン終末期における新たな展開」であると述べている。
3)伝承のオラショと創作のオラショ
今に伝えられているオラショの中には、本来のキリスト教にはありえないようなオラショが数多く見出される。キリシタンの時代から伝承されたオラショ(カトリック教会公定の祈り文)のほかに、潜伏の中で、自分たちがつくったオラショがあ
る。片岡弥吉氏は、意味のわからないまま棒誦してきたオラショに対して、具体的な願いをこめたこのオラショは、かくれキリシタンたちの生活と密着していたと述べている(『かくれキリシタン: 歴史と民俗』pp.139-140)。
宮崎氏は、つくられたオラショが存在する理由を次のように推測している。オラショの変容第2段階である潜伏時代に入ってからは、ほとんどの地域で伝承のオラショはかなり変容し呪文化したため、その意味を理解することはさらに困難になった。指導者である宣教師が日本には一人もいなくなった以上、自分たちの手でどうしても必要な願い事を神に伝え、叶えてもらうためにオラショを作る必要に迫られたのではないか。それゆえ、日常生活における自分たちの願いを込めた理解可能な創作のオラショが自作された。宮崎氏はこれを「創作のオラショ」と名付け、キリスト教伝来当初、宣教師が日本人信徒に与えたものを「伝承のオラショ」と呼んで区別している。創作のオラショの例として、生月島で新しくつくられた船に魂を入れる儀式の際に唱える言葉や外海・黒崎のオラショで恐ろしげな道を通るときに唱えるものなどがある(『カクレキリシタンの実像』pp.77-79)。
4)地域によるオラショの特色
長崎県のかくれキリシタン信仰には、生月・平戸系のかくれキリシタン信仰と、外海・浦上系のかくれキリシタン信仰の二つの大きな系統がある。それぞれ地域特有の礼拝方式、組織、行事、慣習などを保っている。オラショも地域によって差異がある。
もともとかくれキリシタンはその語のように秘匿性を建前としているため、オラショを唱える場合、ほとんどすべての地域のかくれキリシタンたちは低い声でつぶやくか、あるいは黙唱するかのいずれかである。ところが、生月島のかくれキリシタンだけははっきりと声に出して唱える。
その理由として皆川達夫氏は、生月島では弾圧の嵐はさして強くなく、隠れて信仰を守っている分には比較的「めこぼし」があったのではないかと推測する。そして、めこぼしの理由のひとつには生月島の島民の捕鯨の特技がからんでいるのではないかという。捕鯨はすでに弾圧が激化しつつある寛永年間には始まっており、18世紀に入ると生月島の島民だけの特技となっていた。それを宰領していた益富家は西日本一の長者として知られ、最盛期には年間捕獲量三百頭、漁船二百隻、使用人三千人以上におよんだと伝えられる。益富家をはじめ生月島の大部分の島民がかくれキリシタンであった可能性があったとしたら、それらの人々をとらえて処刑することは、松浦藩ひいては当時の日本経済全般に重大な影響をもたらすことになっただろう(『オラシヨ紀行: 対談と随想』pp.114-117)。
また、長崎県下では生月島の元触を除く壱部、堺目、山田のかくれキリシタンの間にだけ、言葉で唱えるオラショの他に、「歌オラショ」と呼ばれる、オラショにメロディーのついたものが奇跡的に今日まで残されている。「ラオダテ」「ナジョウ」「グルリヨーザ」という三曲のラテン語の歌オラショが、中世のカトリックのグレゴリオ聖歌に由来することは音楽史研究者である皆川氏によって明らかにされている。壱部と境目では三曲ともに歌われるが、山田では「グルリヨーザ」しか歌われない。原曲の荘厳で清澄なメロディーは消え、日本の御詠歌調となり、ラテン語の歌詞もかなり訛ってしまっているが、今も歌い続けられている。
皆川氏によると、これらの歌オラショ三曲のうち、「ラオダテ」「ナジョウ」の二曲は比較的すぐに原曲が分かり、いずれも現代のカトリック教会のラテン語歌集などにも掲載され、ヨーロッパの修道院などで今も歌われている聖歌だった。しかし、「グルリヨーザ」だけはこれに類するものは今日のカトリック教会の聖歌集にはなく、どんな資料にも見つけることができなかったという。皆川氏は、原曲を求めてヨーロッパ中の図書館を探し、調査を始めて7年後の1982(昭和57)年、スペインの図書館でついに原曲と思われる譜面を発見した。16世紀のスペインのある地方だけで用いられたローカル聖歌集の中に、「O gloriosa Domina」(オ・グロリオザドミナ)という聖歌のメロディーを見つけたのだ。今から450年程前にスペインあるいはポルトガル出身の宣教師によって日本に渡来し、日本の農民・漁民たちがこれを歌った。本国では既に歌われなくなってしまったものが、遠く離れた長崎の小島でかくれキリシタンによって歌い継がれている。現役で歌われているのは世界でも生月島だけである。オリジナルの「オ・グロリオザ」というラテン語の聖歌が「ヴォーグローリオーザ」という、似ても似つかない日本のかくれキリシタンの歌に変わってしまったが、それは弾圧の激しさを物語るものであり、そのためにそれぞれの集落でメロディーの動き方がかなり異なり、個人の違いもあるという(「隠れキリシタンの祈り(オラショ)とヨーロッパの聖歌」『川並総合研究所論叢』2, pp.251-253) 。
この他に、「サンジュワン様のお歌」「ダンジク様のお歌」という、潜伏時代に日本人キリシタン信徒が創作したと考えられる日本語による歌が山田地区にだけ残されている。
(カトリック文庫委員 山田 直子)
外海のかくれキリシタン
1)外海とは
外海と書いて「そとめ」と読む場所はどんなところなのか。西彼杵半島西部に位置し、角力灘(東シナ海)に面した外海は、外洋に面した海岸のほとんどが急峻な崖や転石海岸で、古より往来にも困難をきたす厳しい土地であった。
外海町は2005(平成17)年に長崎市に編入され、すでに地名としては存在しない。今では長崎市内から車で1時間ほどの場所であるが、かつては「陸の孤島」と呼ばれ、それゆえキリシタンの教えが脈々と守られてきたともいわれている。
遠藤周作の小説『沈黙』の中では、かくれキリシタンの集落「トモギ村」として、その舞台になったことでも知られている。
この地方にキリスト教が広まるのは、1563年に領主の大村純忠が洗礼をうけて数年たった頃のことである。純忠は長崎にポルトガル人を受け入れ、南蛮貿易で繁栄する一方で、神社を焼き払い改宗しない仏教徒などを追放する過激なキリスト教徒でもあった。1582年には、国内の信徒約15万人のうち、大村藩の信徒がその半数を占めていたといわれている。しかし、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放、1612年の江戸幕府による禁教令発布と、キリスト教の弾圧が続く中で、純忠の子、喜前の背教と弾圧、さらにその子純頼は1617年に将軍秀忠に年賀謁見したとき、大村藩内に宣教師が潜伏しているとの詰問をうけ、信仰を捨て、自ら迫害者となる。そして信徒たちは背教するか、潜伏するかを迫られることになったのである。
2)バスチャン伝説
かくれキリシタンの教義の伝承や、組織・信仰の形態は、地域によって実は細かく異なっているようである。その違いを大きく分けると、外海・浦上・五島系と生月・平戸系の2つに大別できる。
外海・浦上・五島系のかくれキリシタン信仰の軸にあるのは、師「サン・ジワン」とその弟子である日本人伝道士「バスチャン」の教えである。サン・ジワンは、語源がポルトガル語のSão João”(サン・ジョアン=聖ヨハネ)と思われることから、ポルトガルからやってきて長崎で布教した宣教師とも、洗礼者ヨハネを指すともいわれている。
外海地方に伝わる「バスチャンの日繰り」は、「御帳」ともいわれ、サン・ジワンから伝わる1634年の太陰暦に基づくカトリックの教会暦である。外海のかくれキリシタンはこの日繰りをもとに、さわりの日を繰り出し、年間行事を維持していた、まさに信仰継承の原動力である。バスチャンは、サン・ジワンを始めとする宣教師たちが日本を離れた後の20余年の間、ひとりで師の教えを外海や浦上の信徒に伝え、人々から尊敬を集めた。バスチャンが伝えたのは「バスチャンの日繰り」だけではない。バスチャンが隠れ住んだ三重村の樫山赤岳にあった椿の大木の幹に、バスチャンが十字架を指で印すと、その十字架の印が幹に染みつき、はっきりと浮き出たことから、その椿は「バスチャンの椿」と呼ばれ、かくれキリシ
タンに霊樹として崇められた。その椿が役人によって切り捨てられるという噂が流れると、信徒らは自らその樹を切って仲間に配り、大切に保管した。今でも、だれかが亡くなると、この椿の木片を小さく刻み、棺の亡骸に持たせるという。そして「バスチャンの予言」は、「7代のちに海の向こうから告白を聞く司祭がやってくる」というもので、1865年の信徒発
見のその日、浦上から大浦天主堂を訪ねた信者たちはプチジャン神父に会い、バスチャンの予言のときがとうとうやってきたことを知ったのである。バスチャンは78回の拷問を受けた後、斬首の刑に処せられたと伝えられている。バスチャンは処刑される前に「バスチャンの十字架」を信徒に届けるように頼み、今もその十字架は大切に保存されているといわれている。
3)信仰の伝承
キリスト教の弾圧が厳しさを増し、日本から宣教師らがいなくなった後、かくれキリシタンたちはいくつかの組に分かれ、自らで信仰を伝承していくことになった。宣教師に代わる帳方(ちょうかた)と呼ばれる役職者は、「バスチャンの日繰り」を操る組織の最高責任者として、年間の教会行事の日や祝日・忌日を調べ、それを組のものに伝えるとともに、葬
式などを司る。水方(みずかた)は洗礼を授ける役で、帳方に次ぐ重要な役割を担っていた。
ミサに代わる儀式として、「お初穂上げ」がある。そもそも神道の行事として、先祖に食事とお茶を備え、先祖を慰め、供え物を下げてともに食す、先祖と一体化する儀式として知られている。かくれキリシタンは、パンの代わりにご飯、ぶどう酒の代わりにお酒が使われ、肴と煮物が食卓に並べられた。儀式ではあるが、外から眺めれば、単に同じ村の仲間
がともに食卓を囲む光景に映るに違いない。
また、外海地方に独自に伝わるものに「天地始之事」があり、いくつかの写本が今に伝えられている。聖書とカトリックの伝承に由来することは疑いようがないが、聖書の中に民間伝承に基づく独自の世界観が加えられた物語になって
いる。田北氏の『昭和時代の潜伏キリシタン』には、調査当時の1931(昭和6)年頃、九十一歳の紋助爺さんと呼ばれる人物が厚い二冊の小学ノート本上下に書かれたこの物語を暗唱していたとの記述がある。「そもそもてうすと、うやまい奉るは、天地の御あるじ、人間万もつの御おやにて、ましますなり」と始まる「天地始之事」は、天地創造、人祖の堕落、ノアの洪水などにまつわる内容が盛り込まれてはいるが、全体としては奇想天外な物語になっており、どのように語り継がれてきたのだろうか。
一方、毎週、帳方や信徒の家で行われる集会や行事の折には、オラショが無声で内語される。声には出さないが、その姿によって、信徒たちにはオラショが進行していることがわかるようになっていた。役職者は、原則としては世襲で受け継がれるが、世襲が途絶えるようなことある場合には組の中から新たに選ばれ、あるいは断絶に至ることもあった。あたりまえのことではあるが、儀式や祈りの意味する本質が理解できなくなると信仰は形骸化し、途絶えてしまう。その点で、帳方の存在と信仰への姿勢は非常に重大であったといえよう。
4)天福寺と枯松神社
バスチャンが隠れ住んだとされる三重村の樫山に天福寺という曹洞宗のお寺がある。天福寺は1688年に佐賀藩深堀領であった東樫山に建立された寺院である。外海一帯は、大村藩領の中に佐賀藩の飛地が入り込んでおり、大藩で幕府や奉行所に気兼ねすることが少ない佐賀藩は、厳しく弾圧が行われた大村藩に比べると、キリシタンが生き延びるのにかっこうの場所であったといわれている。村上グループが住む下黒崎の地域も佐賀藩の飛地であった。徳川幕府は、キリシタンの監視と詮索のため寺請制度を設け、この地にも天福寺が建立されたのであるが、領民たちは表面上は仏教徒を装いながら、寺で唱えたお経を取り消すために、家に帰ると「経消し」と称してコンチリサンのオラショを唱えるという二重生活を送っていた。コンチリサンとは懺悔の意である。そんな中、天福寺はキリシタンと知りつつも彼らを受け入れ、人びとを守り続けた。禁教が解かれた後、カトリックに戻った人たち、お寺への恩義から寺に残った人たち、そして先祖から受け継いだキリシタン信仰を守る人たちに分かれていくことになるのだが、歴史的な背景から人びとの中には複雑な感情が生じており、三者それぞれにわだかまりが残ることになった。
一方、外海の下黒崎には枯松様またはサン・ジワン様と呼ばれるキリシタンの霊場がある。枯松山の頂上には小さな拝殿があり、そこにサン・ジワン枯松神社の石祠がある。キリスト教への弾圧が一層進むと、外海のかくれキリシタンは枯松の山頂に登る途中にある大きな岩の陰に隠れてオラショを伝承してきた。外海では口誦せず、「悲しみ節」の46日間に限って伝習が許される決まりであったので、人々はその日になると枯松の墓地に夜ひそかにやってきた。時が流れて戦争が始まると、出征軍人たちが黒崎の浜の石を身体に抱き、無事に帰るとそれを枯松様に収めた。また、漁師たちは大漁を願うといったように、枯松様は地域の人々にとって、様々な祈りの場であった。1938(昭和3)年、この地に旧社殿が、そして2003(平成15)年に旧来どおり全改装された社殿が建てられ、現在ではサン・ジワンを祀ったキリシタン神社「枯松神社」として広く知られている。2003年からは日本人司祭の呼びかけでカトリック、キリシタン、仏教徒である枯松神社を守る会の三者が毎年秋に一堂に会して、枯松神社祭が開かれている。そこではカトリックのミサが執り行われ、ミサの中でかくれキリシタンのオラショが奉納され、枯松神社を守る会により御神酒・果物・生花が奉納される。かつて別々の道を選んだ三者がともに集まり、ともに祈ることで、外海は、今、新たな時代を迎えようとしている。
(カトリック文庫委員 加藤 富美)
「村上グループ」とそのオラショ本章では、長崎県外海・黒崎の「かくれキリシタン」の一組織・一集団である「村上グループ」について、そのオラショやグループの特徴などを少し具体的に見てゆきたい。
1)「村上グループ」とは何か
「村上グループ」は現帳方・村上茂則氏をリーダーとする「かくれキリシタン」の一グループである(ここでは、他のグループと区別するために、村上氏を指導者とする一組織・一集団をムンシ神父に倣って「村上グループ」と呼ぶこととする)。そして「帳方」とは文字通り「お帳」を司る役職であり、最高責任者である。帳方の下に、洗礼を授ける役の「水方」、水方の助手・障りの日の触れ伝え役としての「聞役」が置かれることもあるが、現在は帳方が三役を一手に担う(爺役)ことが多い。では「お帳」はというと、狭義には「日繰帳(バスチャン暦)」(教会暦)を指すが、広義には「天地始之事」「オラショ本」を含めることもある。「天地始之事」は奇想天外な要素が含まれるとはいえ聖書ないしは神学書に
相当する。「オラショ本」はそのままお祈りの書物のことである。つまり村上グループは、帳方の統率のもと、「天地始之事」によって聖書の世界に触れながら、帳方がつくる独自の「日繰帳」の暦に沿って、「オラショ本」の祈りを捧げるなどの宗教活動を行うグループ、ということになる。
狭義の「お帳」つまり「日繰帳」は、外海・五島系を特徴づけるものであり、生月・平戸系には存在しない。生月・平戸地方では、「土用中寄り」(どよなかより)という大集会を毎年開いて移動祝日などを決定している。逆に、「納戸神」(なんどがみ)は生月・平戸系特有のものであり、外海・五島地方にはない。
それだけに「日繰帳」の繰り出し方は重要視されており、まさにこれを司る「帳方」が指導者たる所以である。同時に、宗教に不可欠の典礼は一定の暦に基づいて行われるはずであり、その暦をつくる作業、人物に重きを置かれぬ理由はなかろう。実際、帳方の善し悪しや後継者の有無によって、その後のグループの活動が大きく左右されることは言うまでもない。
2)村上グループのオラショ
ここでは、ミサに相当する「初穂」でのオラショについて見てゆきたい。「初穂」は1630年頃、浦上の熱心なキリシタンであった孫兵衛(右衛門)と七之助(七郎左衛門)により考案されたものだとされている。宣教師がいないため、その教えの意味もミサも次第に失われていくことを恐れたのが発端である。二人は命を顧みず「お初穂の上げ方」を信者に指導して回ったという。それが潜伏時代を経て今に継承されている。村上グループにとって「初穂」は、先祖と一体化すると同時にグループの結束を強め、心の拠り所・信仰の支えになるものだという。
先祖供養としての意味とカトリック教会のミサの代替としての意味を併せ持つ「お初穂上げ」(オラショ)は、現在、村上グループでは次のように為されている(ムンシ著『村上茂の伝記』『村上茂の生涯』による。ただし、一部加筆)。
(1) クルスの祈り(神への挨拶)
(2) きよめの祈り(KYRIE、キリエ)
(3) 祈りへの招き
(4) クルスの祈り・・・前出(1)
枯松神社「祈りの岩」(撮影 : 西脇純)
南山大学図書館カトリック文庫通信 No.32 2017.11
7
(5) 奉納文(カトリック儀式書「葬儀ミサ」からの取込み)
(6) 奉納祈願(主の祈り)7回
(7) 祈祷文(クルスの祈り)・・・前出(1)
(8) ケレド(CERDO、使徒信条)1回
(9) 天にまします(主の祈り、主祷文)1回・・・前出(6)
(10) ガラサ(天使祝詞)3回
(11) ファティマの祈り(カトリック教会の祈りからの取込み)
(12) 天にまします(主の祈り、主祷文)1回・・・前出(6)
(13) ガラサ(天使祝詞)50回・・・前出(10)
【(1)~(13)の繰り返し】
(14) 集会祈願(追悼の祈り)
(15) 初穂の祈り(クルスの祈り)1回・・・前出(1)
(16) 奉納文
(17) 感謝の祈り(御身様の祈り・・・・・・ケレド+信徒の感謝の祈り)
(18) 奉納文(生ける人と死せる人と諸聖人のため)
(19) ガラサ 33回・・・前出(10)
(20) 聖母マリアの御保護を求むる祈り
(内容はカトリックの祈りと同じ。聖ベルナルドの祈り。現帳方の村上茂則氏はここでサルベージナ(SALVE
REGINA、日本のカトリック教会での「元后 あわれみの母」)を唱えている)
(21) 初穂下げ(主の祈り)2回・・・前出(6)
(22) 奉納文
主の祈り 1回・・・前出(6)
ガラサ 3回・・・前出(10)
(23) 拝領祈願
(24) 拝領の時
(25) 感謝の祈り
(26) 主の祈り 1回(お初穂終わり)・・・前出(6)
後座の祈り
ケレド 3回・・・前出(8)
ガラサ 53回・・・前出(10)
また、前章でも触れた枯松神社祭においては、カトリックのミサの中で唱えられる「回心(赦し)の祈り」「信仰宣言」「主祷文」に倣って、かくれキリシタンにとって重要な位置づけの「コンチリサン(赦し)」「ケレド(CREDO・信仰宣言)」「天にまします(主の祈り)」のオラショが奉納された。「こんちりさんのオラショ」は、今も葬儀などで唱える風習が残っているとのことである。
3)村上グループの特徴
村上グループの特徴を示すものは、現帳方・村上茂則氏の父親であり先代の帳方である村上茂氏の力にあずかるところが大きい。村上茂氏は努力と改革の人と言ってよかろう。彼は、先祖が信仰したもの、教示してくれたものが何ものであるかを知るため、第二バチカン公会議後のカトリックの教義や祈りの意味について自ら進んで研究している。
「初穂」の意味をしっかりと理解した上で実践していたのである。そして、このことで得たものを自分の中だけに留まらせず、帳方としての活動に活かしている。例えば、口承で受け継がれてきたオラショの中で、ラテン語やポルトガル語が由来の意味不明な箇所を調査し整理している。また、村上グループは生月・平戸系ではなく、外海・浦上・五島系に属すため、オラショは声に出すことなく黙って唱えるのが従来の慣わしであった。そのため、グループのメンバーはオラショをほとんど理解しておらず、帳方に付いて心の中で祈るにすぎなかった。折しも、メンバーから葬儀で何を祈っているのか分からないから教えて欲しいとの要望を聞くに及び、手始めにカトリック教会の儀式書を参考に『葬儀のしおり』(オラショ本)としてまとめ、その後はマイクを使用してオラショを口に出して唱えることとした。はじめは非難されることもあったという。しかし、葬儀以外でも声に出して唱えるようになると、他のグループからも賛同する者が増えて村上茂氏にオラショの依頼が舞い込むようになり、それを快く引き受けることで絆が強まったとのことである。さらに、現帳方・村上茂則氏は、父親が残した手書きのオラショを自費で印刷・製本して配布しており、このことで信徒は家庭でも日常的にオラショを唱えることが可能となった。「天地始之事」「オラショ本」は本来口伝されるものであり、例外を除いて文字化するものではないため、村上グループはより社会に開かれたグループだと言えるのかもしれない。
村上グループ所蔵『日繰御帳』
村上グループ所蔵『天地はじまりの本』
「カトリック文庫」では、近代日本におけるキリスト教史の研究に資する資料群の構築を目的として、明治・大正・昭和初期のキリスト教関係出版物等を収集しています。これまで、購入はもとより、多くの皆さまからの貴重な資料の寄贈によって、コレクションを充実させてきました。この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。
今日では、若者が地元を離れたり、「さわり」の日(差し障る日)の多さゆえの不自由を嫌うなど、さまざまな理由から「かくれキリシタン」であることをやめたり、後継者不足などからグループが消滅する状況がある。その中で、村上グループはメンバーが協調・協力して比較的安定した活動を行っている。歴代帳方の人望や資質にもよると思われるが、地域社会に根ざし、信頼関係を構築して多くの支持を得ながら「かくれキリシタン」としての活動を展開する村上グループは、そのこと自体が特徴とも言え、他のグループにとっても参考、よき指標になるのではなかろうか。
4)村上グループの今後
前帳方・村上茂氏は、死のおよそ3ヶ月前に、カトリック教会の3つの秘跡(洗礼、堅信、初聖体)を受けてカトリックに復帰した。かくれキリシタンはカトリックと同じ宗教であり、同じ神を信仰し、同じ心を持っているとの結論に達したようである。現在の村上グループは、強い絆を育み、連帯して地域に溶け込み、かくれキリシタンとしての信仰を続けているが、昨今の社会環境がこれをそのまま永続的に許すとは限らない。果たして現帳方は今後もかくれキリシタンの信仰形態を継続するのだろうか、それともカトリックに復帰するのだろうか。大きな関心を持って注意深く見守りたい。
おわりに
思い起こせば「オラショ」は「祈り」であった。世の平和や他人の幸福を願わぬ祈りなどない。カトリック教会(カトリックに復帰した人々)、かくれキリシタン、仏教徒(天福寺に在籍しながら枯松神社を護持してきた「枯松神社を守る会」)の三者にも、過去には不幸な擦れ違いや感情のもつれがあったという。しかし現在では、手を携えて枯松神社祭を開
催している。それぞれの祈りが通じたと考えてもよいのではなかろうか。世界中で宗教対立が見られる中、大げさに言えばこれがひとつの理想のかたちを示しているようにも思え、興味深い。(カトリック文庫委員 石田 昌久・川籏 陽子)
【参考文献】
・内田樹, 釈徹宗. 聖地巡礼: リターンズ: 長崎、隠れキリシタンの里へ. 東京書籍, 2016, 226p.
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・皆川達夫. オラショ紀行: 対談と随想. オンデマンド版, 日本基督教団出版局, 2005, 271p.
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・宮崎賢太郎. カクレキリシタンの実像: 本人のキリスト教理解と受容. 吉川弘文館, 2014, 226p.
・ムンシ, ロジェ・ヴァンジラ. 村上茂の伝記: カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者. 聖母の騎士社, 2012, 285p.
・ムンシ, ロジェ・ヴァンジラ. 枯松神社と祭礼: 地域社会の宗教観をめぐって. [南山大学]人類学研究所研究論集, 2013, 1, pp.83-113.
・ムンシ, ロジェ・ヴァンジラ. 村上茂の生涯: カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者. 聖母の騎士社, 2015, 153p.,(聖母文庫).