いま甦る、キリシタン史の光と影 ②
https://christian-nagasaki.jp/stories/6.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第6話
有馬氏の失脚、キリシタン弾圧】 より
沖田畷での勝利、そして秀吉が行った九州国分で、島原半島を安堵された有馬晴信は安定を得て絶頂期を迎えました。しかし、豊臣秀吉の死後、天下人となった徳川家康の時代になると、家康の命を受けて晴信がポルトガル船を撃沈する事件が発生し、晴信とイエズス会との関係が悪化してしまいます。
家康は晴信の功を讃えましたが、旧領土の回復を目論んだ岡本大八事件が露見し、晴信は甲斐の国に流罪となった後斬首されました。その後、島原半島は松倉重政によって治められることになります。重政は日野江城に代わる島原城の築城を開始し、領民に多大な年貢と労働を課しました。さらに幕府からの命であるキリシタン弾圧も加わり、後の悲劇を引き起こすことになるのです。
晴信は朝鮮出兵時に学んだ築城技術を活かし、およそ5年をかけて原城の築城に取り組みます。三方を海に囲まれた断崖上という地の利も活かされ、非常に堅牢で美しい城が完成しました。また、江戸時代に入ってからは南蛮貿易にくわえて朱印船貿易も開始し、より大きな利益を得ていきます。さらに息子の直純が徳川家康のひ孫と結婚したこともあり、有馬の地は安定して繁栄していきました。
しかし1608年、ある事件が起きます。マカオで晴信の朱印船とポルトガル船が争いを起こしたのです。日本人側には多数の死傷者がでました。晴信は家康に報復の許可を得て、長崎港外でポルトガル船を襲撃し沈没させます。この結果、南蛮貿易と密接な繋がりを持っていたイエズス会との関係が悪化してしまいました。それだけでなく、この件は晴信の身を滅ぼす大事件にまで発展していくのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:原城跡を上空より見る原城跡を上空より見る
領土回復を目指した有馬晴信
ポルトガル船への報復が成功したことを聞いて、徳川家康は晴信を褒めたたえます。しかし、幕府側目付役・岡本大八がこれに乗じて晴信をそそのかしました・・・「今回の恩賞として、かつて有馬領であった土地を取り戻せるよう、私が取り計らいましょう。」・・・かつて龍造寺氏との戦いなどで失った領土を取り戻したい、と切望していた晴信はつけこまれてしまいます。大八は取り計らいのための資金を晴信に求めました。ほかにも偽の朱印状を晴信に渡すなどし、背任を重ねていきます。
このことが家康の耳に入ると、岡本大八は捕えられ火刑に処されました。晴信は「旧領回復を策した」と咎められ、甲斐の国への流罪とされてしまいます。その後、晴信は死罪を命じられます。しかしキリスト教では自害が禁じられていることから切腹を拒み、妻たちが見守る中で、家臣に首を切り落とさせました。最期まで信仰を貫き、晴信は45年間の生涯を閉じたのです。1612年のことでした。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:原城跡から沈む夕陽を見る原城跡から沈む夕陽を見る
日向へ転封された有馬氏
この事件を通してキリスト教を危険であると感じた家康は、慶長の禁教令を発布します。これまでもキリスト教の布教は禁じられていましたが、幕府が直接信者を弾圧することはありませんでした。しかしこの禁教令は、武士だけでなく庶民にも改宗をせまり、拒否するものを処罰するという厳しいものだったのです。
晴信の息子・有馬直純は家康の近侍だったため、父が死罪を受けていながら、家督と所領の相続が認められました。相続後、直純はすぐさま棄教してキリシタン弾圧に一転します。領内の宣教師を追放し、教会の取り壊しを命じました。そして領民にも棄教を迫りましたが、各地でコンフラリアと呼ばれる信徒組織が深く根付いており、キリシタンの排斥は思うように進みません。「このままでは幕府からあらぬ嫌疑をかけられるのではないか?」・・・直純は弾圧を徹底し、父と後妻のあいだに産まれていた異母弟たちを殺害するまでに及びました。しかし、直純はそうした自分の行いと良心のせめぎあいに次第に耐えられなくなっていきます。嫌気がさした直純は幕府に国替えを願い出て、1614年に日向延岡に転封されました。このとき、直純に付き従わずに武士の身分を捨て、農民となって土地に残る家臣も少なからず現れました。彼らは信仰を捨てず、島原半島に残る道を選んだのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:原城跡上空から島原方面をみる原城跡上空から島原方面をみる
「悪魔」と呼ばれた領主
直純の転封後、有馬領は天領(幕府直轄領)となっていましたが、1616年に奈良の大和五条から松倉重政が日野江城に入城します。後に宣教師たちが「悪魔」と呼ぶことになる人物です。1618年、重政は新たな拠点として島原城の築城を始めます。その際、日野江城と原城は一国一城令にしたがって廃城となりました。およそ7年の歳月をかけて完成した島原城は、4万石の大名の居城としては巨大で奢侈(しゃし)な城でしたが、江戸城改築の普請役を買って出るなど、松倉重政は幕府への忠誠を示すための行動に勤しみました。しかしながら、こうした松倉重政の行動は財政をひっ迫させ農民は過重な年貢に苦しむようになります。島原半島には辛く暗い空気が立ちこめていました。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:松倉重政が築いた島原城松倉重政が築いた島原城
松倉氏のキリシタン弾圧
1620年、日本へ潜入しようとしていた宣教師2名が一隻の朱印船に乗船していたことが発覚します。幕府のキリシタンに対する不信感はさらに高まり、大弾圧がはじまりました。松倉重政もこれに呼応し、領内でのキリシタン弾圧をはじめます。しかし徳川家光にキリシタンへの対応が手緩いと叱責されたことから、重政の弾圧はいよいよ過激になり、棄教しない領民の手指を切り落としたり焼き印を押すなど、残虐な拷問を行うようになりました。オランダ商館長の記録には、重政がキリシタンや年貢を納められない農民に対し、雲仙地獄で熱湯を使って拷問や処刑を行ったことが記されています。
松倉重政は幕府からの禁教強化の指示に従って弾圧を行っていましたが、1630年、小浜温泉で急死しました。はっきりしない死因に対して、キリシタンからは天罰が下ったとも噂されました。そして跡を継いだ息子の松倉勝家も同様でしたがさらに不幸なことに、飢饉や天変地異までもが島原半島を襲います。かつて有馬氏の家臣だった帰農武士たちの中にはキリシタンに立ち帰る者も現れ、蜂起の機会をうかがいはじめるのです。
https://christian-nagasaki.jp/stories/5.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第5話
キリシタン大名としての有馬晴信】 より
キリシタン大名として知られる有馬晴信ですが、はじめは父・義貞の時代に建てられた教会を破壊するなど、キリスト教とは距離を置いていました。しかしその後、晴信は領土を守るための手段として洗礼を受けると、次第に心からキリスト教を信仰していくようになります。
また、海外交易で幅広い情報を手に入れていた晴信は、日本では数少ない国際的な視野を持つ人物でもあり、イエズス会の宣教師から重要視されていました。そのようなキリシタン大名・有馬晴信の半生を追います。
イエズス会に接近した若き晴信
1571年、兄の義純が死去したことにともない、晴信はわずか4才にして有馬家の家督を継ぎました。いまでこそ熱心なキリシタン大名として知られる晴信ですが、最初からそうだったわけではありません。洗礼を受けた父・義貞が病で床に伏せ、宣教師に会いたいと願ったときには、晴信はこれを拒みました。また、父の死後には教会や十字架などを破壊しました。晴信ははじめ、キリスト教と距離を置いていたのです。
しかし、佐賀の龍造寺隆信の勢力がいよいよ強くなり、有馬の地を脅かすようになると、晴信は一転して宣教師やイエズス会に支援を要請するようになります。ヴァリニャーノが1579年に口之津に降り立った翌年には、自ら洗礼を受けて信者になります。このとき晴信は13才でした。まだ若い晴信が龍造寺氏に対抗するための軍事・経済力を手に入れるためには、イエズス会に支援してもらう必要があったのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:聖母子像(南蛮文化館蔵)聖母子像(南蛮文化館蔵)
沖田畷での勝利と浦上の寄進
晴信はそれだけでなく、同じく龍造寺氏と対立していた島津氏にも助けを求めました。こうして晴信はイエズス会と島津氏のバックアップを受け、龍造寺氏に抵抗するようになります。そして1584年3月、龍造寺隆信は数万におよぶ大群を自ら率いて島原半島北部よりついに攻め込んできました。迎え撃つ有馬・島津連合軍はわずか6~8千ほど。両軍は沖田畷(現在の島原市北門町付近)で対峙し、合戦がはじまりました。このときにはイエズス会が晴信に提供した大砲も大いに威力を発揮したといわれています。桁違いの軍勢で圧倒的に不利であったにもかかわらず、有馬・島津連合軍は隆信を討ち取ることができたのです。
晴信はこの戦いに勝利したことの恩賞として、当時領地として治めていた長崎の浦上村をイエズス会に寄進します。浦上ではすでにキリスト教の布教が行われていましたが、この寄進をきっかけに、より深くキリスト教が根付いていくことになります。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:南蛮屛風に描かれた交易品を荷揚げする様子(南蛮文化館蔵)南蛮屛風に描かれた交易品を荷揚げする様子(南蛮文化館蔵)
キリシタン大名・小西行長
晴信は龍造寺氏の脅威からは解放されたものの、今度は援助してもらった島津氏とイエズス会との間で板挟みになってしまいます。イエズス会は当初、浦上ではなく雲仙を恩賞として寄進するよう求めましたが、島津氏がそれに猛反対したのです。薩摩の国と島津氏は仏教に深く帰依しており、もともと修験者の霊山だった雲仙において、僧院や仏像が再建されることを望んでいました。また、雲仙は火薬の原料となる硫黄の産地でもあったため、これが外国人の手に渡ることを恐れたとも考えられます。その他にも島津氏は折にふれて「キリスト教を棄教するように」と晴信に勧告したといいます。
こうした状況の中、キリシタンで後に肥後宇土城主となる小西行長は、所領する小豆島において司祭を招いてキリスト教を布教する一方、豊臣秀吉と諸大名を取り結ぶ役割も担っていました。豊臣秀吉が九州平定に乗り出した際には、晴信は島津氏側にはつかず小西行長を通じて秀吉方に加わりました。その結果、島津氏が降伏し九州平定がなった後に行われた九州国分において晴信は島原半島を安堵され、小西行長は肥後・宇土城を本拠とし天草も治めるようになるのです。このころ天草では人口の大半がキリシタンだったそうです。後に遣欧使節の4少年も学ぶコレジヨやノビシアド(修練院)が設立されますが、これら天草でのイエズス会の活動を行長は保護し、支援しました。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:十字釜(南蛮文化館蔵)十字釜(南蛮文化館蔵)
晴信の揺るぎない信仰
振り返ってみると、龍造寺氏との戦いにおいても、九州平定時においても、晴信を支えたのはキリスト教であったといえます。戦国時代のめまぐるしく移り変わる勢力図のなかで、晴信はキリスト教を信仰することで生き抜くことができたのです。はじめは領土を守るための洗礼であったかもしれませんが、晴信の信仰は徐々に揺るぎないものとなっていきました。九州平定後の1587年7月、秀吉はバテレン追放令を出しますが、晴信は苦境に陥った宣教師やセミナリヨを領内に引き受けて保護します。
1590年8月13日には全国の宣教師が有馬領の加津佐に集まり、イエズス会総協議会が開催されました。そこでは禁教下の布教方法として、天正遣欧少年使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機を用いてキリシタン版を印刷することが決定されます。こうして日本初の金属活字本である「サントスの御作業(諸聖者の御作業)」が加津佐で印刷されました。このようなイエズス会の活動は、キリスト教の保護と宣教師の安全を保障した晴信の領地だからこそ可能だったのです。
https://christian-nagasaki.jp/stories/4.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第4話
ポルトガル人が絶賛した日野江城】 より
現在、発掘調査が進んでいる日野江城跡。出土した金箔瓦や中国の陶磁器などから、いくつもの文献にでてくる壮麗な日野江城の様子が次第に明らかになってきました。
わずか4万石の大名にすぎない有馬晴信はなぜ日野江城の改修や原城の築城をなし得たのか?その背景から晴信の海外交易やキリスト教との密接な繋がりが浮かび上がってきます。
ルイス・フロイスが書き伝えた日野江城
1590年10月12日付けイエズス会の日本年報において、帰国した天正遣欧少年使節やヴァリニャーノたちを日野江城に迎え入れたときの城内の様子を、ルイス・フロイスはこう書き記しています・・・「この建物の美しく雅やかなたたずまいを一同は気に入った。大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は最近、有馬晴信の手で建てられ、見事な出来ばえとなった城郭のなかにある。その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなど考えても見なかった。」
フロイスはこれ以前に安土城で織田信長に謁見したこともある人物です。そのフロイスをしてここまで称賛させたことから、当時の日野江城がいかに立派なものであったかがうかがい知れます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:日野江城跡と旧城下町を上空から見る日野江城跡と旧城下町を上空から見る
発掘調査裏付けられる威光
フロイスの記述だけでなく、近年の発掘調査によっても日野江城の往時の様子が明らかになってきました。前述した金箔瓦に加え、1996年から1999年の調査では大手口から二ノ丸に向かう直線的な階段が見つかりました。調査成果から、この階段は延長70m以上に及ぶと推定されます。また直線的な構造は、織田信長が築いた小牧山城や安土城との類似性が認められます。
また、日野江城からは法花(ほうか)と呼ばれる中国の陶磁器も出土しています。これらは濃紺と水色の文様を浮かび上がらせる技法や、内側にかけられた緑色の釉薬が特徴です。日本における発掘調査での出土事例は極めて稀であることから、有馬氏の海外交易力を示す史料として注目されています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:日野江城跡から出土した中国の陶磁器「法花」日野江城跡から出土した中国の陶磁器「法花」
ローマ教皇から晴信に贈られた「黄金の十字架」
大阪中津の南蛮文化館に非常に美しい黄金の十字架が保存されています。1951年に原城本丸跡から出土したもので、縦4.8cm、横3.2cmのサイズに精巧な細工が施されています。この十字架の出自は明らかにされていませんでしたが、イエズス会の日本年報では「ローマ教皇から天正遣欧少年使節を通じて黄金の十字架が有馬晴信に贈られた」という報告もあります。
日野江城の城主・有馬晴信の首には、まばゆい輝きを放つ黄金の十字架がかけられていたというのです。発掘調査で出土した金箔瓦やフロイスが記した「大小の部屋は黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた」という記録から、かつての日野江城の様子は私たち現代人では想像できないほど絢爛豪華であったことが伺えます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:黄金の十字架(南蛮文化館蔵)原城跡で出土した 黄金の十字架(南蛮文化館蔵)
仏教の排斥の様相を残す遺構
日野江城跡の遺構からは仏教排斥の様相が伺えます。晴信はキリスト教を積極的に保護する一方で、仏教寺院の破壊も行いました。ヴァリニャーノが口之津に滞在したわずか3ヶ月の間に、領内の40を超える寺社が破壊されたという記録もあります。二ノ丸の北側で見つかった階段の踏石には仏塔の一部が多用されており、その形態や金箔の痕跡から、寺社破壊にともなって壊された仏塔が、製作より間もない時期に階段の踏石として日野江城に持ち込まれた可能性が高いと考えられます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:仏塔を使った階段遺構(日野江城跡)仏塔を使った階段遺構(日野江城跡)
スペイン商人が記した日野江城
スペイン人貿易商人のアビラ・ヒロンは1595年の日野江城内の様子を次のように書き記しています・・・「広間の戸は二十数枚あり、その奥に次の美しい広間が、さらに美しい次の間が現れた。この広間からは海が見えた。」・・・この戸(襖)には、金色や淡い青色にバラのような花々、山や夏景色に鷹や小鳥、鹿などが描かれていたそうです。
豪華な襖を次々に開けて最後に目の前に広がるのが、島々が浮かぶ天草灘の美しい風景だったというのです。南島原で慣れ親しまれているこの風景は、400年前にはすでにヨーロッパに伝えられていたのです。