いま甦る、キリシタン史の光と影 ①
https://christian-nagasaki.jp/stories/3.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第3話
ローマヘ旅立った少年たち】 より
16世紀、有馬のセミナリヨで学んだ4人の少年がローマへと旅立つ・・・このあまりにも壮大なプロジェクトにおいて、彼らが背負った期待と責任はどれほどのものだったでしょうか?
ヨーロッパ各地で熱烈に歓迎され、ローマ教皇への謁見を果たし、さらには活版印刷機を持ち帰るなど数々の偉業を成し遂げた少年たち。しかし、8年半にもおよぶ長旅の末に彼らが戻ってきた日本は・・・悲運にも禁教の時代に突入していたのです。
日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」
1582年、一隻のポルトガル船が長崎港から出港しました。乗り込んでいたのは4人の少年とイエズス会の巡察師ヴァリニャーノたち。日本初のヨーロッパ訪問団「天正遣欧少年使節」です。航海の目的は、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に布教の援助を申し出ること、そして少年たちにヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを肌で感じさせ、日本での布教に役立てることでした。
九州のキリシタン大名である有馬晴信・大村純忠・大友宗麒の名代として4人の少年、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノにその大役が任されることになります。彼らは有馬のセミナリヨでキリスト教をはじめ、地理学・天文学・西洋音楽・ラテン語などを学んだ、優秀な少年たちでした。とはいえ、わずか13才~14才の少年であることに変わりはありません。命がけの大航海は大変心細いものだったでしょう。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:南蛮屛風に描かれたポルトガル船(南蛮文化館蔵)南蛮屛風に描かれたポルトガル船(南蛮文化館蔵)
熱狂的な歓迎、ローマ教皇への謁見
案の定、インド洋で大しけにあったり熱帯域で熱病にかかるなど、航海は困難を極めるものでした。使節一行がインドおよび南アフリカ喜望峰まわりでポルトガルのリスボンに到着したのは1584年8月、じつに出発から2年6ヶ月が経っていました。一行の訪問は驚きと歓迎をもってヨーロッパ諸国で受け入れられ、スペインのフェリペ2世をはじめ行く先々で国王や領主たちに歓待されました。その際、少年たちは知性ある振る舞いで応え、ヨーロッパ人を感嘆させたそうです。その後、一行はローマに入ると教皇グレゴリオ13世との謁見に臨みます。
謁見の場となったのはサン・ピエトロ大聖堂。ちょうど枢機卿会議が行われていたため、少年たちの待遇はあたかも国王使節を迎えるかのようでした。教皇は83才という高齢でしたが、日本からの訪問を心から喜び、少年たち一人ひとりを抱きしめました。彼らにとっては限りなく至福な瞬間だったに違いありません。
このとき中浦ジュリアンは高熱を出して謁見できませんでしたが、心配した教皇はわざわざ馬車を出して改めて謁見を行ったといいます。その後まもなくしてグレゴリオ13世は死去したため、新しい教皇にシクスト5世が即位します。ローマでは祝福のパレードが行われ、4少年はそれに参列することになるのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:グレゴリオ13世に謁見する天正遣欧少年使節グレゴリオ13世に謁見する天正遣欧少年使節
日本をヨーロッパに知らしめた少年たち
バチカン図書館に一枚の壁画があります。シクスト5世即位のパレードを描いたこの壁画に、4少年が描かれているのです。馬にまたがりさっそうと進む少年達。行列を見守る人々は大きな歓声をあげています。少年たちは晴れやかな笑顔を振りまき、「この光景を日本の人たちに伝えねば・・・」と強く感じていたことでしょう。
大役を終えた使節一行はローマを出発して帰りの途につきますが、立ち寄る先々での熱狂的な歓迎は変わりませんでした。ヨーロッパに日本を知らしめるという天正遣欧少年使節におけるヴァリニャーノの目論みは、みごと達成されたのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:バリニャーノの銅像(口之津港)ヴァリニャーノの銅像(口之津港)
栄光から一転、禁教が加速する日本への帰国
1586年4月12日、ようやくポルトガルのリスボンを出発した一行は途中、強風でメインマストが折れるなどのアクシデントに見舞われます。それらを乗り越えインドのゴアで副王の使者となっていたヴァリニャーノと再会を果たし、航海を進めます。そして長崎港にたどり着いたのは1590年7月、じつに8年半におよぶ長旅を終え日本へ戻ってきたのです。
このとき使節を派遣した大村純忠、大友宗麟は既に他界しており、生存していたのは有馬晴信ただ一人となっていました。帰国した4少年は晴信によって温かく迎えられ、翌年には京都の聚楽第で豊臣秀吉に謁見しました。このとき少年たちが披露した西洋音楽に秀吉は大いに喜び、何度もアンコールしたといいます。しかしその後、キリスト教への弾圧は加速していき、彼らの栄光もまた消されてゆく運命をたどるのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:ポルトガル船の模型(口之津歴史民俗資料館蔵)ポルトガル船の模型(口之津歴史民俗資料館蔵)
日本史上に輝く壮大なプロジェクト
当時の日本において、天正遣欧少年使節の派遣は途方もなく壮大なプロジェクトでした。派遣はキリシタン大名主導によるものではなく、巡察師ヴァリニャーノによる独断的なものだったとの見方もありますが、その歴史的価値が色褪せることはありません。当時のヨーロッパに初めて日本という国を知らしめ、さらには活版印刷機など西洋の先進的な技術や文化を日本にもたらす・・・これを出発当時、わずか13才~14才の有馬のセミナリヨで学んだ少年たちが成し遂げたのです。
ヨーロッパでは膨大な数の書物や冊子が出され、彼らのことが伝えられました。400年経った今でも新たに発見される資料が後を絶たず、当時の衝撃がいかに大きかったかがうかがわれます。少年たちの旅は歴史の海を越えて、いつまでも私たちに語りかけてくるのです。
https://christian-nagasaki.jp/stories/2.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第2話
日本初のセミナリヨ】 より
有馬領内におかれた日本初の西洋学校セミナリヨでは、選りすぐりのエリートたちが外国人教師のもとでラテン語、古典、音楽などの教育を受けていました。
日本人生徒が流暢なラテン語で発表や討論をしている様子を見たイエズス会の準管区長は、「自分はまるでコインブラ(ポルトガル)に居るかのような気がした」と驚いたそうです。
ヴァリニャーノが創立したセミナリヨ
1579年、日本にやってきたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、日本独自の風習が障壁となり布教の難しさを痛感します。そのため、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、日本独自の文化を尊重しながら布教する方針を示しました。その一環として有馬と安土にセミナリヨ(修道士育成のための初等教育機関)の創立を指示し、日本で初めての西洋学校が誕生することになりました。
1580年、日野江城下に創立された有馬のセミナリヨでは外国人教師が教鞭をとり、ラテン語などの語学・宗教・地理学などルネサンス期の西洋学問が組織的に教えられていたといいます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:日野江城跡と旧城下町を上空より見る日野江城跡と旧城下町を上空より見る
宣教師をおどろかせた優秀な生徒たち
最初、日野江城下に置かれたセミナリヨも秀吉のバテレン追放令などの影響を受け、有馬領内の八良尾に移転することになります。布教における必要上、八良尾では絵画や版画教育が重視され、生徒たちには非常に高度な技術が伝授されました。そのため、ローマから持って来た絵を生徒たちに模写させると、どちらがオリジナルか見分けがつかないほどの出来映えになったといいます。
また、生徒たちはラテン語を習熟し、ラテン語による発表会や討論もおこないました。それを視察したイエズス会の準管区長は、あまりの流暢さに「自分はまるでコインブラ(ポルトガル)に居るかのような気がした」と何度も繰り返したと伝えられています。当時の生徒たちが外国語で討論出来るレベルだったとは驚きですが、それもそのはず、教師となった宣教師はほぼ全員がヨーロッパの大学で博士号を取得した優秀な人材だったのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:セミナリヨの第一期生 伊東マンショの像 (北村西望 作)セミナリヨの第一期生 伊東マンショの像 (北村西望 作)
セミナリヨを支援した有馬晴信
はじめ22人の生徒からはじまったセミナリヨは、1595年には生徒数70人に達し、八良尾から有家に移転しました。秀吉の禁教令により長崎に移転したりもしましたが、1601年には再び有馬の地に戻ってきます。このころ妻を病気でなくした有馬晴信は、京都の公家からあたらしく妻を迎えるために新居を建てていましたが、これをイエズス会に寄進します。
新居はそのままセミナリヨとして使われました。その隣には「日本で最も荘厳」といわれた教会も建設されています。当時、日野江城よりさらに堅固な城が必要になり、原城の築城が進められていましたが、晴信はそれを一時中断して教会の建設を優先させたのです。このエピソードは晴信がキリスト教をいかに重要視していたかを物語っています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:セミナリヨの生徒たちも往来した城下町の大通り(北有馬町谷川商店街)セミナリヨの生徒たちも往来した城下町の大通り(北有馬町谷川商店街)
エリートが集められた地
有馬の領内では一時期、コレジヨ(現代の大学にあたる聖職者を育成するための高等教育機関)も設置されており、各地から優秀な青年が集められ聖職者になるための教育が施されていました。しかし1612年、セミナリヨは再び長崎へ移転し、1614年には徳川家康の禁教令により閉鎖されてしまいます。創立されてから30年余りですが、このセミナリヨで学んだ生徒達はその後、禁教の日本にあって文字通り命をかけてキリスト教の布教に務めることになります。
イエズス会にとって、日本でセミナリヨを創立するためにはキリスト教を保護し宣教師の安全を保障する領主のいる地域を選ぶ必要がありました。まさにキリシタン大名である有馬晴信の領地はそれにふさわしく、1580年、安土とともに日本で初めてセミナリヨが有馬の地に建てられました。
https://christian-nagasaki.jp/stories/ 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第1話
ヨーロッパとつながっていたまち】 より
中世日本において、ヨーロッパとつながっていた有馬の国。南蛮貿易やイエズス会の援助によって勢力を確保し、城下町に富をもたらしていました。
「美しく装飾させた道をオルガンの伴奏に合わせて、賛美歌を歌いながらセミナリヨの生徒達が歩く」・・・イエズス会年報からも当時の有馬の華やかな様子をうかがい知ることができます。
口之津からはじまった布教活動
16世紀の中頃、日本は戦国時代と呼ばれる戦乱の世にありました。島原半島や肥前一帯の領主であった有馬義貞は、九州各地で活発になっていた南蛮貿易を自分の領地でも行うべく、宣教師を招こうと考えていました。当時の南蛮貿易はキリスト教と不可分の関係にあったのです。そして1563年、イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダが口之津に到着し、島原半島における布教活動がはじまります。
しかし同じころ、佐賀の龍造寺隆信が勢力を増し、有馬氏の領土を脅かすようになります。また、領内ではキリスト教排斥の動きも出てきました。これらの苦境に直面しながらも義貞はイエズス会とのつながりを深め、南蛮貿易の実現に向けて力を尽くします。苦難の末にようやくポルトガル船を口之津港に招き入れたのは1567年、アルメイダが有馬の地に入ってから4年後のことでした。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:口之津港を上空から見る口之津港を上空から見る
キリシタン大名、ドン・プロタジオの誕生
有馬義純から家督を継いだ晴信は、ますます強大になる龍造寺隆信に対抗するため、宣教師や南蛮貿易によって軍事・経済力を強化しようとします。1579年にポルトガル船に乗ってやってきたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、それに乗じて領内でのさらなる布教を求めました。晴信は自ら洗礼を受け「ドン・プロタジオ」の洗礼名を授かると、領民にも積極的に信者となることを勧めます。この結果、島原半島では急速にキリスト教が広まっていきました。
1584年にはイエズス会や薩摩の島津氏の支援を受け、ついに龍造寺隆信に勝利します。領土を守ることができた晴信は、よりいっそう信仰を深めていきました。日野江城の城下町には荘厳な教会や修道院が建ち並び、日本初のイエズス会の初等教育機関であるセミナリヨも創立されます。まちには多くの宣教師や貿易商人が往来していました。
有馬におけるキリスト教の主要な行事はイエズス会の日本年報に記され、ローマに報告されました。当時のまちの大通りは、「教会やセミナリヨだけでなく、有馬の城下一帯にわたって、道路の両側にのぼりが立てられ、(中略)美しく装飾させた道をオルガンの伴奏に合わせて、賛美歌を歌いながらセミナリヨの生徒達が歩くのであった」と伝えられています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:当時のクリスマスを再現したイベント「フェスティビタス ナタリス」当時のクリスマスを再現したイベント「フェスティビタス ナタリス」
戦乱の世に確固たる地位を築いた有馬氏
有馬晴信は、豊臣秀吉が島津氏を攻略しようとした九州平定で活躍し、文禄・慶長の役にも加わります。西国の大名として確固たる地位を築いていくにつれ、まちもまた発展していきました。さらに晴信の子・直純が徳川家との関係を築くことで、禁教の時代にもかかわらず日本で最も贅を尽くした教会を建設することもできました。
そのようなイエズス会の年報に讃えられた有馬のまちの様子は、400年経った今では見る事はできません。日野江城もまた、一見すると小高い丘のような趣きになっています。しかし、1998年の日野江城跡発掘調査によって、往時の一端をかいま見ることになります。何と金箔瓦が出土したのです。この金箔瓦は、当時の有力な大名だけにしか使用を許されなかったとされ、有馬氏の実力を示す重要な資料となっています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:日野江城から出土した金箔瓦日野江城跡から出土した金箔瓦
天正遣欧少年使節を育んだ「Arima」
1582年、有馬のセミナリヨで学んだ4人の少年がヨーロッパに旅立ちます。日本初のヨーロッパ訪問団「天正遣欧少年使節」です。彼らはヨーロッパで大歓迎され、ローマ教皇に謁見するなどの偉業を成し遂げました。彼らを見た人たちは未知の国日本の情報をまとめ、残そうとしました。
その結果「 Rima seu Arima R (リマあるいは有馬の王国)」と表記された世界地図などが描かれ、ヨーロッパ中に知られることになります。間違いなく有馬のまちは、ヨーロッパにつながっていたのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:天正遣欧少年使節(南蛮文化館蔵)天正遣欧少年使節(南蛮文化館蔵)
いま甦る、キリシタン史の光と影
4少年とイエズス会の巡察師ヴァリニャーノが有馬に凱旋した時の記録もまた、イエズス会の年報に記されています・・・「ある日、(有馬晴信は)食事を済ませてから巡察師やドン・ミゲル、その他の公子達(天正遣欧少年使節)を一軒の屋敷に案内した。ついこの間工事が完成したばかりでまだ誰の目にもふれていなかった。(中略)大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は最近彼(晴信)の手で建てられ、見事な出来映えとなった城郭(日野江城)の中にある」
日野江城本丸跡に登り、眼下に広がるまちを前にゆっくりと目をつぶると・・・教会の鐘が鳴り、オルガンの演奏が聞こえ、セミナリヨの生徒たちが賛美歌を歌う・・・そういった400年前の情景が浮かんでくるかのようです。有馬 - 南島原は、戦国時代のキリスト教の伝来と繁栄をいまに伝える、心惹かれるまちなのです。