漆黒の闇を求め、いなべ市へ
NHKの番組で谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の世界観が紹介されていた。
あれはいつの頃だったか・・・国語の授業で『陰翳礼讃』の一部を読んだ時に、電灯という文明の力が現在のように、夜間を太陽の光のごとく照らしてしまう以前。つまりは、日本家屋の床の間の隅に、行燈の火だけが煌々と燃えていた時代の、光と闇と影の濃淡の陰翳の世界観を著した随筆である。
青空文庫から以下、一部を引用する。
京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、こゝの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆら/\とまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。そしてわれ/\の祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。(谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』より)
1980年代だろうか・・・
日本はバブルの絶頂期で、艶やかな露出した服に女性は身を包み、おしゃれでトレンディなマンションに住み、日本経済同様に常夏の太陽のように肌を刺すの光のような暮らしがかっこいいとされた。
あの時代に「根アカ」と「根クラ」という言葉が生み出されて、根クラは公然と否定された。
大きな声を出すものが闊歩し、成功=経済的な成功のみを指すという物語が日本を覆い尽く、若い女性は貧しくもないのに、自ら春を売った。日本男児は、アジアでギラギラな眼差しで、貧しい春を買いあさった。
地道さはや生真面目さは、いじめるための大いなる理由にもなり、日本が大切にしてきた義の精神性は、根クラとともにほうむりさられる時代への入り口。
また、隠れていた政治と金の結びつきも露骨になり、地方選挙でもばんばん金が動いた。今だにそれを自慢する長老もいるが。
陰影の中、耐え忍ぶこと、倹約の精神、足るを知ることを重んじてきた日本人の精神性は、このギラギラの陽光の麻薬のような明るさの中で完全なるマイノリティに追いやられた。
そして、90年以降、失われた20年の中、あの麻薬の味がいつまでも忘れられないのだ。だから、必然的に世界から孤立もしていくし、ますます、アメリカ等に依存していく。
しかし、あまりに酷いこの現実に、若い日本人の精神性に目立ってエラーを出し始めた。いいや、大いなる拒否反応を起こしている。若い人は、もうバブリーな神話など虚構であるととっくに気がついている。いいや、そもそも、その価値観を知らない。憎しみすら抱いているかもしれない。
ネット時代全盛の中で、自分の居場所は近場でなくとも見つけらえることを知った。親が、住宅ローンを抱えながら身を粉にして働く姿を見ながら、もうとっくに「偏差値だけが高い上級学校を卒業し、一流企業に就職しても、自分の心が躍動するような人生がそこにはない」ことにも気がつき始めた。
また、非正規という奴隷の構造にも・・・・
先日、いなべ市内の若い方々がこんなことを言っていることを聞いいた。
「いなべは不便を売りにすればいいんです。最近、思うのです。人にはある程度の不便が必要であると・・・・」
30代の女性から出た言葉。周囲の同世代も、この話に大いに頷き、焚き火を囲んで話す楽しさ、自分たちで味噌や醤油を仕込む有意義さなど、話の華を広げていった。
ああ、そういえば、私も・・・・(12年前の話である)
「篠原くんは、なぜ、四日市から、こんないなべへわざわざ引っ越してくるのかね?四日市のほうが便利だろう。変わってるね・・・・」
「いや・・・山育ちなので、山がないと落ち着かないと気がついたんですよ。それと・・・」
「それと?何?」
「生まれ育ったまちのあった漆黒の闇が、いなべにはあったので・・・」
「闇!?、ますます、変なやつやな・・・・」
いなべ市は、蝋燭の灯や竹あかりの灯、焚き火の燦めきが似合う、何とも暖かく、叙情的な風情で、人を温かく迎えって、包み込むまちであってほしい。
これこそが、いなべの良さである。
何となく古臭い派手さを求め、権力者や自意識過剰な者の大きな声が響き渡るような、旧態然なまちでは、あってほしくはない。
自治体間競争とは、不毛でしかないことに、人々はいつ気がつくのだろう。