「ベル・エポックのパリ」11 エッフェル塔(1)
街のどこからでも目に入るほどの高さを誇り、いまやパリの街の顔として風景の中に溶け込んでいるエッフェル塔。1889年に建造された高さ300mあまりのこの塔は、当時、世界で最も高い建造物だった。手掛けたのは芸術家でも建築家でもなく、鉄橋や橋の建設で知られた優秀な技術者、ギュスターブ・エッフェル。
パリの工業高校に入学し、23歳の時に鉄道関係の資材会社に就職した彼は、工場で鉄を学び、橋や駅の建設現場で構造や設計を会得して鉄の建造物のスペシャリストとなる。当時、フランス全土が鉄道網で結ばれようとしており、鉄道の建設は時代の最先端の仕事。エッフェルは新しい工法を次々と編み出し、強風や水流、複雑な地形と戦いながら不可能とも思える大工事を成し遂げていく。彼の名声は響き渡り、やがてフランスのみならず全世界を股にかけて鉄橋や橋を架け続けていった。都市のシンボルとしてエッフェル塔に並ぶ、マンハッタンの自由の女神。エッフェルはこの巨大な女神像の鉄骨の設計を手掛けた。そして「鉄の魔術師」と呼ばれた彼が54歳の時に挑んだのが、世界一の建造物、エッフェル塔だった。
こんなエッフェル塔誕生のきっかけとなったのは、じつは暗い出来事。1871年、フランスはドイツとの「普仏戦争」に敗れ、莫大な賠償金を課せられたうえ、アルザス・ロレーヌ地方を奪われてしまう。敗戦の屈辱から立ち上がるためフランスは、軍事力増強による対独報復ではなく、産業の増強に力を入れ、世界一の工業国を目指す。その力を誇示するために計画されたのが、フランス革命100周年記念の万国博覧会。時の首相デ・フレシネは、そのシンボルに「前代未聞の壮大な構想(グランド・イデー)が必要だ」と宣言。
橋梁建築で名声を勝ち得ていたギュスターヴ・エッフェルの事務所でもコンペに参加しようという声があがったが、エッフェル自身は興味を示さず、事務所の二人の技師がコンペ案を練るのを黙認するにとどめた。しかし、二人が建築家ソーベストルの協力を得て改良プランを提出するとエッフェルは突如考えを変える。彼ら三人からプランと特許を買い取り、自分の名前でコンペに参加することを決める。コンペは1886年に開かれたが、エッフェルの塔は、最有力視された著名な建築家ジュール・ブールデ(トロカデロ宮を設計)の「太陽の塔」を蹴落とし、見事第一席に選ばれた。
台座の上に鉄骨が組まれ始めると、エッフェル塔は徐々にその姿を現した。300メートルの鉄の塔が建つと聞いて、当初は、「ほんとにそんなものができるのか」と半信半疑だったパリジャンたちも、目の前で建築が始まり、下の方から脚がみえてくるにつれて、文字通り興味津々で、現場にやってきては感心したり、ケチをつけたり、怒ったりと様々な反応を見せたが、大多数は、この画期的な挑戦に声援を送っていた。
怒っていたのは文化人たち。パリに鉄骨の塔など似合わないとする反対運動が起こり、アレクサンドル・デュマやモーパッサンなど300人の文化人が連名の陳情書をパリ市役所に提出した。これらの芸術家たちは、その陳情書の中で、エッフェル塔を文化の殿堂パリには、「無用の怪物」と決めつけ、「商売で明け暮れしているアメリカですらこんなものは御免だと言っている。エッフェル塔は、パリを醜くするだけのことで、万博にやってくる外国人は、このお化けがフランス人が日ごろ自慢するすぐれたアイデアの産物なのかとあきれ返り、フランスは彼らの笑いものになるのが関の山だ」と容赦ない批判を加えている。
景観論争がヒートアップする中、誰よりも早くから虜となった芸術家がいた。複製版画の彫り師として生計を立てながら、画家を夢見ていたアンリ・リヴィエール。彼の人生を劇的に変えたのは、北斎の浮世絵。北斎に衝撃を受けたリヴィエールは木版を彫り、浮世絵を作り始める。テーマはエッフェル塔。工事現場を歩き、塔の構造をつぶさに観察し、パリ中を歩き回りながらエッフェル塔のある風景を版画の中に刻んでいった。そしてリヴィエールは1本の塔がパリの風景を優雅に統合し、豊かな調和を作り出すことを発見。その美の力に気づいた時、パリという街は静かに、確実に変貌を遂げていくのである。
アンリ・リヴィエール「エッフェル塔三十六景」より
アンリ・リヴィエール「エッフェル塔三十六景」より
アンリ・リヴィエール「エッフェル塔三十六景」より
ギュスターブ・エッフェル 1888年
1889年 英紙「パンチ」に描かれたギュスターヴ・エッフェル
ジョルジュ・ガレン「1889年万博 エッフェル塔」
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