Okinawa 沖縄 #2 Day 69 (14/01/21) 旧高嶺村 (2) Yoza Hamlet 与座集落
旧高嶺村 与座集落 (よざ、ユザ)
- 慶留村の村元、嶽元 大慶留 根屋
- ビズル御嶽
- 今帰仁井 (ナチジンガー)
- 慶留巫女之泉 (ギルヌルヌカー)
- 中之泉 (ナカヌカー)
- 慶留之殿 (ギルヌトゥン) [未訪問]
- 慶留巫女殿内 (ギルヌルドゥンチ)
- 松毛御嶽 (マツーモーウタキ)
- 高嶺製糖工場跡
- 軽便鉄道糸満線高嶺駅跡
- 与座泉 (ヨザガー)
- 古泉 (フルガー)
- 与座井之大石 (ユザガーヌウフイシ)
- 火泉 (ヒーカー)
- 御殿泉 (ウドゥンガー)
- 高嶺泉 (タカンミガー)
- 石獅子
- 与座コミュニティーセンター
- 馬場跡 (ウマウィー)
- 今帰仁への遙拝所
- 龕屋
- 暁城 (アカチチグスク)
- 勝連 (カッチン) 墓
- 村屋跡、西の遊び場 (イリヌアシビナー)
- 美地野呂井 (ミージヌルガー)
- 与座野呂殿内
- 与座ヌ御嶽
- 国元 仲里 根屋
- 神川 (カミガー、ヌルガー)
- 東之遊び庭 (アガリヌアシビナー)、アシビナーの拝所
- 嶽元 幸勢頭 根屋
- 金満 (カニマン) 御嶽、按司井 (アジガ-)
- 中道 (ナカミチ)
- 佐久真根屋 (ニーヤ)
- 殿内火ヌ神
- 佐久真グスク、佐久真之殿
- 上門御嶽 (ウィージョーウタキ)
- 神道、火日座坂 (ヒーヒザビラ)
- 火日座御嶽 (ヒーヒザウタキ)
- 上座之殿、上座グスク
- 上座之泉 (ウィーザヌカー)
- 村山 (ムラヤマ)、内間之殿 (ウチマヌトゥン)、幸勢頭御嶽
- ミーンシーの壕
- 第24師団トーチカ (未訪問)
- 与座グスク (ユザグスク、ハジシグスク)
- 与座ヌル墓、中里門中墓
- 与座按司墓
- 与座岳ヌ御嶽 (未訪問)
- カンザナ嶽 (未訪問)
- 日乃本八千代皇后神社 [2月1日 訪問]
- イリムティー (西表)、与座集落の門中墓群
- 摩文仁 (マブミ) 腹
- 慶留 (ギル) 腹
- 大上座 (ウフイーザ) 腹
- 山川之泉 (ヤマガーヌカー)
- 高嶺ヌ殿
- 志慶間泉 (シジマガー)
- 熊本之殿 (クマムトゥヌトゥン)
- 和君之殿 (ワクンヌトゥン)、和君之泉 (ワクンヌカー) (未訪問)
今日は南山国の歴史が感じられる集落に向かう。琉球の歴史の中で一番面白いのが三山時代の南山国。琉球を統一したのは中山だが、日本の戦国時代のような動乱が最も多かったのがこの南山だ。琉球国の統一への三山時代だが、豊臣秀吉に全国統一というようなスケールではなく、どちらかというと日本の地方豪族のその地期の統一といったほどのもの。沖縄県は下の地図で大体の大きさがわかるが、三国時代の舞台は南半分なので、淡路島の統一といった感じだ。南山国と言っても現代でいう中規模の市ぐらいの地域に当たる。戦争といっても小さなものでは数十人での戦いで、大きくても数百人での戦だ。南山では今日訪れる与座と次に訪れる大里が中心だったので、楽しみだ。
旧高嶺村 与座集落 (よざ、ユザ)
字与座は西から北にかけては字座波に接し、北は字豊原に接し、東は八重町字高良と世名域に接し、南は新垣に接し、南から西にかけては字大里に接している。
与座集落は古い時代に与座岳の周辺に点在していたいくつかの十数戸程の小さな集落が寄り集まってできた村でユイザ (寄り座) と呼ばれ、これがユザになったといわれている。与座村は七腹 (門中) から始まったとの言い伝えもある。別の伝承では、字大里にある大城森グスクを治めていた大城按司が具志頭按司と多々名按司に攻められ、与座岳に逃れ、大城按司を慕って集まってきた民と始めたのが与座村ともある。集まってきた民が七腹だったのかもしれない。
八重町の字与座と区別するため、タカンミュザ (高嶺与座) とも呼ばれる。与座は17世紀の初めごろに慶留 (ギル) 村と与座村が合併してできたことから、ギルユザとも呼ばれる。与座には前原にある戦前からの本集落の上与座 (ウィーユザ) と、集落が戦後米軍に占領されたため、住民が高嶺製糖工場跡地に移り住んだ下与座 (シチャユザ) の集落がある。戦前の与座は12の小字で構成され、集落の南東側にはウィーバルャードウイ(上原屋取)、北測にはニシバルャードウイ (西原屋取)があった。西原屋取は後に第二与座と称され、戦後は字豊原として分離した。主な産業としては、与座は耕地面積が広く、戦前からサトウキビ栽培が盛んで、市内有数の生産量を誇っていた。近年では土地改良等により農業生産が整備され、野菜をはじめ花や果樹栽培も盛んになっている。
与座にはいくつかの伝承が残っている。与座にいた上与座按司は兄の島尻大里按司と対立し、攻撃されて滅ぼされた。ここから逃れ、伊平屋島の屋蔵へ身を隠した上与座按司の息子は成長し屋蔵大主となり、阿部加那志を妻にし、二男三女をもうけ、その長男は鮫川大主となった。その鮫川大主の孫が琉球を統一した尚巴志であった。
与座には異なった時代にこの地に住みついた門中が多く存在する。舜天王統時代 (1187年から1259年ごろ) の先南山、英祖王統時代 (1229年から1349年) の中南山、察度王が即位した1350年から南山王他魯毎が尚巴志に減ばされる1429年までの後南山の期間に集中している。
現在の人口は140年前の1880年とほぼ同じだ。1976年まで人口は増えたのだがそれ以降は減少が続いている。1976年の人口増加は与座に那覇空港自衛隊与座分屯基地の宿舎に自衛隊員が転入してきたことによる。他の字と少し異なるのが、世帯数もほとんど増えていないところだ。他の字は人口が減っても世帯数は増加しているのだが、何が背景にあるのだろうか?
明治時代には高嶺村では中心的な字であったのが、前述したように人口の減少で、その当時と随分と立場が変わっている。
糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編に記載されている文化財
与座集落の沖縄伝統民家の幾つか
訪問文化財ログ
慶留村の村元、嶽元 大慶留 根屋
まずは前回訪れた豊原集落から南に流れる報得川を渡ったところから字与座になる。与座集落は上与座集落と慶留集落が合併してできた集落。この辺りはかつての慶留村があった所。屋号 大慶留は慶留村の村元 (ムラムトゥ)、嶽元 (タキムトゥ) といわれ、根屋 (二ーヤ) には9つの香炉が置かれているそうだ。
ビズル御嶽
屋号 大慶留の元屋敷の裏に細い道があり、そこを進んだところの慶留川 (ギルガーラ) の岸辺のビズルモー (ビズル森) にはビズル御嶽ある。ビズルは沖縄ではよく祀られている神様で所によってはビジュルとも呼ばれ、元々は十六羅漢の中の釈迦の弟子の1人の賓頭慮 (ビンズル) の事。拝んでいる人たちは仏教を意識はしておらず、沖縄の信仰の中に溶け込んでいる。この場所も昔は屋号 大慶留 (ウフギル) の元屋敷だった。ここに慶留村のビズルを祀っている。こにはかってギルバーリーに拝んだ龍宮神を祀る香炉もあるそうだ。
今帰仁井 (ナチジンガー)
下与座集落の南端、ビズルモー (ビズル森) の近くに今帰仁井 (ナチジンガー) と呼ばれている井戸跡がある。小さな香炉が草むらの中にポツントある。今帰仁按司と縁のある門中は10年ごとに今帰仁グスク内外の拝所を今帰仁拝みとして行っているのだが、この井戸拝所もその一つになっている。
伝承によると、舜天王統の最後の王の義本王の息子の先南山王与座世主 (前大里王子) の娘婿となった今帰仁若按司の屋敷があった場所だといわれている。今帰仁若按司らは今帰仁から船で兼城川尻まで来て、そこから川をさかのぼって与座に着いたといい、その川はムクイリガーラ (婿入川) と呼ばれ、後に「報得川 (ムクイガワ)」と表記されるようになったとの伝承もある。
慶留巫女之泉 (ギルヌルヌカー)
産業事務所の南側、屋号 前上間の西隣にあるカーで、現在はコンクリート製の覆いが設けられている。慶留巫女 (ヌル) が使用したカーだといわれている。
慶留巫女之泉 (ギルヌルヌカー) のすぐ隣の民家の脇に火の神 (ヒヌカン) を祀った拝所がある。資料には載っていない拝所なので詳細は不明だが、この慶留巫女之泉 (ギルヌルヌカー) と何か関係があるのだろうか?
中之泉 (ナカヌカー)
慶留ヌルヌカーの西側に中之泉 (ナカヌカー)といって慶留村の人が使用していたカーがあったが、現在は埋められ畑になっていると紹介されている。埋められているというので、現在はもう存在しないのだろう。写真にある川の畔なったようだが、とりあえず探してみたが、やはりそれらしきものはなかった。
慶留之殿 (ギルヌトゥン) [未訪問]
下与座のムイグヮー (後述) の東の高い所に琉球国由来記には慶留辻之殿とあるギルヌトゥン (慶留之殿) と呼ばれている拝所があり、屋号 大慶留が管理していると紹介されていた。場所と説明から見るとこの丘の林の中にあるのだろが、一周して、登り口らしきところを探したが見つからない。地元の人に聞かないとわからないのだろうが、あいにく誰もこの辺には歩いていないので断念。
慶留巫女殿内 (ギルヌルドゥンチ)
屋号 東リン慶留の屋敷の東側に慶留巫女殿内 (ギルヌルドゥンチ) がある。中にはヒヌカンと香炉が3つ、神棚にも香炉が1つ置かれているそうだが、擦りガラスなので中を見ることはできなかった。
松毛御嶽 (マツーモーウタキ)
下与座集落北東の松尾前原に、松毛 (マツーモー) と呼ばれる丘がある。この場所には慶留村にかかわる拝所がある。かっては大小2つの丘が並び、大きい丘をマツーウフタキ (松尾大嶽)、小さい丘をマツークータキ (松尾小嶽) と呼んでいた。琉球国由来記には「ケル松尾大嶽 神名コバツカサ」「同小嶽 神名ナデルコバッカサ」とある。「ケル」とは慶留村のことと思われる。1993年 (平成5年) の上地改良で小嶽の丘は削られ、大のみが残っている。
高嶺製糖工場
沖縄戦以前は慶留村に隣北側には高嶺製糖工場があった。与座集落は沖縄戦の後、米軍が駐留し、戻ることができなかったので、高嶺製糖工場側との話し合いによって工場の敷地を字で購入し、この下与座一帯に住み始めた。ここには大正元年 (1912年) に建設された沖縄初の機械製糖があった場所。現在でもここは住宅街になっており、細い路地が規則正しく走っている。その住宅街の中にムイグヮーと呼ばれる高台が児童公園になっている。
最盛期には200名ほどが働いており、工場があった場所の東側には社宅が立ち並び、各家庭には個別に電気が引かれ、共同浴場、理容室、ビリヤード場、テニスコートなどの共用施設もあり、かなり良い生活を送っていたという。戦争では完全に破壊されてしまい、戦後も再開されることはなかった。
製糖工場跡には沖縄戦当時の弾痕跡が残る門柱が左右 2基残っている。ここが住宅街への入り口。
糖蜜タンクも残っている。壁面には弾痕跡が生々しい。当時、高嶺製糖工場では、日本軍からの命令で、斬り込み隊用に糖蜜で酒を製造していた。
軽便鉄道糸満線高嶺駅跡
慶留村、後の下与座集落には、1923年 (大正12年) に那覇と糸満を結ぶ沖縄県営鉄道糸満線が開通し、この地にある高嶺製糖工場に接して高嶺駅が設置され、サトウキビの搬入や製品の輸送に軽使鉄道が利用されていた。高嶺駅では貨車を取り外したりするため停車時間が長く、その間に機関車への給水も行われた。高嶺駅は利用者も多く、駅長や駅員が配置され構内には売店もあった。高嶺駅と兼城駅の間には、軽便鉄道とサトウキビ搬入用のトロッコ軌道が交差する場所が2か所 (ナゴーサと大城森の南西側) あり、製糖期にはその交差点に踏切が置かれていた。軽便鉄道の通過時には係が赤い旗を挙げてトロッコや通行人を一時停止させた。駅の施設や線路等は沖縄戦ですべて破壊され、現在は産業事務所が建ち、その前は広場になっている。
下与座集落の周辺には製糖工場関連の施設が各種残されている。少しレトロな感じのものがいくつか目についた。多分、製糖工場関連の施設か下与座集落が造られたときの施設だろう。水場が二か所あった。これはおそらく、1951年 (昭和26年) にフルガーから戦前の製糖工場の糖蜜タンクまで水道管を敷設し、そこから集落の3か所に設けた給水口の二つだろう。その一つにはおなじみの酸素ボンベの鐘もあった。ここがここの住民の中心地だったのだろう。
ここからは与座岳が見える。この与座岳の裾野の斜面に与座集落が広がっている。戦後、元ん集落には戻れず下与座集落を形成した後は、この与座集落を上与座集落と呼ばれるようになった。この上与座集落に向かう。
与座泉 (ヨザガー)
上与座集落の西側にあり、三山時代、墓を造ろうとして偶然に発見された井泉だといわれている。水域豊富な与座ガーは、与座の人々の重要な水源で、旧正月のワカミジ (若水) や産湯に使う水を汲むンブガー (産井泉) でもあった。ここを散策している間にも何人かの人がポリタンクにここの水を入れていた。飲料水としてもいまだに使われているのだろう。水はきれいに透き通っていて、一見、水質は良さそうだ。以前もこのような形だったのかは分からないが、現在はちょっとした公園といった感じになっている。この与座泉 (ヨザガー) は18 世紀に首里王府が干ばつにあえぐ地域住民のために、作らせたもの。沖縄戦ではこの地も戦場となり、多くの非戦闘員が、水を求めてこの泉で息絶えたそうだ。
上部は水を汲んだり、野菜を浸したりできるような作りになっている。子供の水遊び用のプールも設けられている。高台の場所には以前からあった石積の水路が残っており、数十メートル続き、滝のように勢いよく流れ落ちている。そこには大正時代に製糖用に置かれ戦前まで利用されていた水車のモニュメントが設けられている。与座集落で最も有名な文化財になっている。
後日 2月1日に新垣集落に向かう途中、ここを通った時には桜が咲いていた。
水路の終点にある水源の近くに「湧泉 (ヨザガー)」「大御泉 (ナカンガー)」「古泉 (フルガー)」と記した祠が設けられ、ウマチー等にはカーミグィ (井泉巡り) と称して各門中が御願しているそうだ。
古泉 (フルガー)
与座ガーの西側下流にあり、与座ガーから水路が引かれている。与座が-とこの古ガ-がムラの主要な水源地だった。戦前、各家庭で使う水は与座ガーから ウーキ (桶) に汲み、担いで運んだ。洗濯物や農作物は与座ガーに持って行って洗い、家畜の馬はフルガーのンマアミシーで水浴びをさせた。戦後、与座ガーを米軍に接収された与座の住民は古泉 (フルガー) を簡易水道の水源として生居用水に使っていた。現在、古泉 (フルガー) の拝所は与座ガーの所にまとめられ、「古泉」と記した料の中に炉が置かれている。
与座井之大石 (ユザガーヌウフイシ)
与座ガーの東に位置する 屋号 鍛治屋の屋敷に高さ1mほどの石灰岩の大石が祀られていて、ユザガーヌウフイシ (与座ガーヌ大石)、与座ガーの蓋石、ウカー (御泉) 等と呼ばれている。与座ガーを掘ったとき、水脈の湧き口を覆っていた石だといわれている。ヒーゲーシや十五夜等に拝み、ウシデークの際にはここから区民館まで行列を組んで行く。
火泉 (ヒーカー)
与座ガー下流に泉の広場という公園がある。かつてはここにサーターヤーがあった場所。その北側の一角に火泉 (ヒーカー) と呼ばれるカー跡があり、コンクリート製の祠と「樋泉」と記した石碑が設けられている (以前の碑文は火川)。与座ガーが発見される以前に、慶留村の人が藪から濡れた犬が出て来たのを見つけ、発見したカーだという。この濡れた犬で井戸を見つけたという話は、別の井戸跡でもよく聞く伝承話だ。
御殿泉 (ウドゥンガー)
与座ガ-から東に上がると集落に入る。その北側にこの御殿泉 (ウドゥンガー) がある。御殿腹の先祖が使った井戸 (カー) とされ、南側には屋号 御殿の屋敷があったといわれている。
高嶺泉 (タカンミガー)
御殿泉 (ウドゥンガー) の北側の高嶺坂 (タカンミビラ) と呼ばれている坂の側に、与座で最も古いカーである高嶺泉 (タカンミガー) がある。
石獅子
高嶺泉 (タカンミガー) の横の上の高嶺坂 (タカンミビラ) の坂道を渡ったところが与座集落北端のシーサーモー(獅子森) だ。
ここは尚巴志の曽祖父の屋蔵大主 (やぐらうふしゅ) の屋敷があった場所ともいわれている。屋蔵大主の生まれははっきりはしない。英祖の五男や、舜天王等の末裔の上与座按司の息子ともいわれる。また、この与座に住んでいたとの言い伝えもある。屋蔵大主の父である上与座按司が大里按司 (な後の南山王との説や屋蔵大主の兄の説がある) に討たれ、屋蔵大主は伊平屋島に落ち延びたといわれている。(この伝承は文献によってさまざまあり、これはそのうちの一説) この屋蔵大主の屋敷跡には石灰岩でできた高さ60cm、長さ1mほどのシーサー (獅子像) があり、北北西に向けて置かれている。字座波の前原にあるサバンハナーという所に向いているといわれている。昔は与座と座波は仲が悪かったといわれているので、座波に向けられたのかもしれない。かつて、シーサーモー (獅子森) にはフクラ按司のヤックワ (館) があったといわれ、フクラムイとも呼ばれている。
与座コミュニティーセンター
石獅子のある屋蔵大主の屋敷跡の東側に与座コミュニティーセンターがある。2002年 (平成14年) に国と県の補助等を受けて建設され、自治会の運営を行っている。
馬場跡 (ウマウィー)
与座コミュニティーセンターの東側に東西に延びる幅15m、長さ150m程の細長い広場がある。馬場公園で、ここはかつての馬場 (ウマウィー) であった場所だ。戦前までは馬を調教したり、ンマハラセー (競馬) を行ったりした。
また、旧替6月25日と7月14日にはそこで250年以上の歴史ある綱引きを行っている。現在は5年に一度開催されている。
この場所から北側の風景だが、一面サトウキビ畑で、民家はほとんどない。
今帰仁への遙拝所
馬場跡 (ウマウィー) の北に今帰仁への遙拝所がある。旧暦8月11日の今帰仁ウマチーにここから今帰仁を拝んでいる。
龕屋
戦前の龕は戦火で焼失したため、1955年 (昭和30年) に新たに仕立てたが、火葬の普及で1967年 (昭和42年) ごろからは風葬もなくなり、龕の使用しなくなった。龕を納めておくガンャー (龕屋) がンマウィー(馬場) の東にある。かつてはこの与座の龕は八重瀬町字高良と世名城にはがなかったので、戦前は与座の龕を貸していたそうだ。龕は墓の年期と同じように建立から、1、3、7、13、25、33年に年期拝みを行っている。
暁城 (アカチチグスク)
馬場の南東側に暁城 (アカチチグスク) がある。かつて与座グスクが戦 (いつの戦いだろう?) になった時、勝連グスクの援軍が港川廻りで駆けつけたが、与座に着いたときは既にアカチチ (暁、夜明け) となり、結局は負け戦となったという。その陣地跡に勝連の兵士を葬ったことからアカチチグスク (暁城) の名があると伝えられる。綱引きの前に字で拝んでいる。
勝連 (カッチン) 墓
元は与座ガーの西隣、クスヌキ山の岩陰にあった古墓で、与座グスクが戦になったとき、勝連から加勢に来た武将の墓だといわれている。戦前まで墓の中には織機があったという。落盤の恐れがあったため、1999年 (平成11年) に慶留腹がアカチチグスク隣の雑木林内に移設した。
村屋跡、西の遊び場 (イリヌアシビナー)
元の村屋跡には区民館がある。ここの炊事場には、3個の石を置いたヒヌカンがあるそうで、ムラヒヌカンと称している。また、区民館の舞台の一角をトゥクと呼び、そこに供物を供えて御願終了の報告をする。トゥクとは床の間の意味だが、実際には床の間の造作はなく、舞台奥の璧に川軸を掛けて拝む場所を示している。2002年 (平成14年) には字行政の中心はコミュニテイセンターに移ったが、ヒヌカンとトゥクは引き続き区民館で祀られており、字の拝み行事のほとんどは現在も区民館から始められている。村屋の前にはイリーヌアシビナー (西のアシビナー) があり、十五夜のムラアシビ (村遊び) 等が行われていた。
美地野呂井 (ミージヌルガー)
村屋のすぐ近く屋号 前美地の屋敷内に美地野呂井 (ミージヌルガー)、または美地井 (ミージガー)と呼ばれる井戸があった。かって与座から名城村 (現糸満市字名城) の屋号 新地に嫁いだためミージナーグスクヌルと呼ばれた与座ヌルが使用したカーだといわれている。各門中がカーウガミ (井泉御願) に拝んだが、戦後、敷地が造成され、井戸は消滅している。現在井戸跡地は個人宅となっている。
与座野呂殿内
上与座集落のほぼ中央にあり、建物正面奥の神には香炉が5つ並び、左端にはヒヌカンが祀られている。入口側には与座岳山頂にある与座岳ヌ御嶽の方向へ向けて置かれたウトゥーシ (遥拝) の香炉があり、ハッチョー香炉と呼ばれている。かってタキムヌメー (嶽物参) 等の行事には各門中とも与座岳ヌ御嶽まで拝みに行ったが、近年ではこのハッチョー香炉を通しての遥拝をしている。与座ヌン殿内の北側には、ヌルが馬に乗るときに踏み台にしたといわれる石が現在も残っている。
与座ヌ御嶽
与座ヌン殿内と向い合った南隣にあり、琉球国由来記には与座之嶽 神名カネセトカナハヤ とある。低い環状の石積みに囲われた内側に樹木が茂っている。戦前まで高さ20mほどのクバ (ビロウ) の木が生えていたという。この御嶽は与座岳の方角を向いており、与座村の七御嶽への遥拝所ともいわれるが、七御嶽がどのを指すのかは不明。
国元 仲里 根屋
屋号 仲里は与座村の国元 (クニムトゥ) とされる旧家で、与座ヌン殿内の西にその根屋 (ニーヤ) がある。内部の神棚には香炉が9つ並び、左端にヒヌカンがある。これとは別に神棚の下の床面近くにも2つの香炉が置かれている。神棚の香炉の上には向かって右から神香炉、按司香炉、世香炉、龜香炉、仲里の先祖、仲間、徳イシー、東リ仲里 等と表示されている。現在では仲里に直系の子孫はなく、この根屋は村で管理されている。
神川 (カミガー、ヌルガー)
野呂殿内と国元の仲里の敷地の南の境界付近に、セメント製の香炉が置かれた拝所がある。ここはカミガーと呼ばれ、かってのヌルガーの跡で、与座之御嶽に付随 (クサ) の泉といわれる。
東之遊び庭 (アガリヌアシビナー)、アシビナーの拝所
東之遊び庭 (アガリヌアシビナー) の北東隅にコンクリート製の祠がある。玉城へのウトゥーシ (遥拝所) といわれ、旧暦8月15日の十五夜御願等で拝まれている。
嶽元 幸勢頭 根屋
嶽元 (タキムトゥ) といわれる屋号 幸勢頭の根屋 (ニーヤ) は屋号 前幸勢頭の屋敷内にあり、内部の神棚には6つの香炉が並び、左端にはヒヌカンが祀られている。神棚の香炉は向かって右から嶽根神、神人、玉城世、大城世、幸地世、南山世を祀っているそうだ。
嶽元 (タキムトゥ) の幸勢頭の根屋 (ニーヤ) 之隣の敷地にも神屋がある。嶽元 (タキムトゥ) と何か関係があるのだろうか?
金満 (カニマン) 御嶽、按司井 (アジガ-)
アガリヌアシビナーの南隣に金満 (カニマン) 御嶽があり、クバ御嶽、または按司 (アジ) 御嶽ともいわれている。下茂 (シム) 腹が管理していることから下茂御嶽 (シムウタキ) とも呼ばれている。沖縄島諸祭神祝女類別表に金丸嶽とあるのはこの嶽のこととされている。古い時代の鍛冶屋跡だともいわれ、戦前まではクバ之大木があった。
雑木林の中にアジシーが点在している。御嶽内には按司井 (アジガ-) が-がある。
中道 (ナカミチ)
村屋から野呂殿内や東之遊び庭 (アガリヌアシビナー) を通っている道は中道で集落のメインストリートだ。
佐久真根屋 (ニーヤ)
上与座集落の南東の端近くに屋号 佐久真の根屋 (ニーヤ) がある。内部には神棚に5つの炉が並び、左端にヒヌカンが祀られている。現在の建物は2005年 (平成17年) に子孫らによって改築された。
この近くにもどこかの腹の神屋があった。この屋根ははコンクリートの造りではなく、トタン板での造りだ。
ここから集落を抜けて丘陵の林の中に入っていく
殿内火ヌ神
区民館の西から南側の丘陵に向かう坂道の途中にトゥンチヒヌカン (殿内火ヌ神) の祠があり、旧膺1月と10月のヒーゲーシ (火返し) にムラで拝んでいる。慶留村と合併する前の与座村のムラヒヌカンだという説もある。古くは、殿内火之神は火を絶やさないようにして、各家庭で使うかまどの火種を確保していたといわれている。
佐久真グスク、佐久真之殿
集落の中心地から集落の南端部分に移る。上与座原の西北に琉球国由来記にも記載がある佐久真之殿は、後南山の南山王の達勃期の子である佐久真王子の居所跡といわれ、佐久真グスクとも呼ばれている。現在はこの与座集落では佐久間腹の直系子孫は残っていない。山川腹が管理し、同門中が首里へ遥拝する拝所も設けている。資料で示されている場所にはなぜかこの佐久真之殿と上門御嶽 (ウィージョーウタキ) には朱塗りの鳥居があり、特に佐久真之殿に中には香炉はなく日章旗が置かれている。建てられている石碑には天照大神とか日乃本とか日本本土ン神の名が刻まれている。今までの殿や御嶽とは少し異なり、妙な違和感がある。何故、このような形での殿屋御嶽になっているのかが興味がある。調べると、これは伊敷生徳が主宰する宗教団体が建てた八千代竜宮神宮の鳥居だそうだ。この後も、殿や御嶽があるとされている場所に同じ八千代竜宮神宮の鳥居が立っていた。資料では、この場所にあるとされている殿や御嶽の写真が載っていないので、この八千代竜宮神宮の鳥居が立っているものが資料で記載されている文化財なのかどうかはわからない。
更に道があり、そこを進むと古墓がある。
上門御嶽 (ウィージョーウタキ)
佐久真之殿の北西にある拝所で、北斜面の岩陰には古い墓があり、上門御墓と呼んでいる。このからクガニ (黄金) が入った壺が発見されたとの言い伝えもある。ここにも八千代竜宮神宮の鳥居が立っている。
神道、火日座坂 (ヒーヒザビラ)
与座ヌン殿内からカニマン御嶽を通って上座ヌ殿まで続く道をカミミチ (神道) といい、かっては祭祀行事のときにはヌルやカミンチュ達がこの道を通って上座ヌ殿に向かった。上座ヌ殿に上る坂道を火日座坂 (ヒーヒザビラ) といい、坂の下にはンマクンジーといってヌルが乗ってきた馬の手編を結ぶ岩があったそうだ。与座ヌン殿内と高嶺ガーを結ふ神道もあったといわれるが、現在は残っていない。
火日座御嶽 (ヒーヒザウタキ)
上与座集落の南側の丘陸にあり、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ) とも呼ばれ、旱魃のときには雨乞い祈願をしたともいわれる。集落から火日座御嶽 (ヒーヒザウタキ) に上る坂道を火日座坂 (ヒーヒザビラ) といい、坂の下にメルの馬の手綱を繋く岩があった。ウマチーのとき、与座ヌルはそこで馬から下りて、上座ヌ搬まで坂道を歩いて上ったという。
上座之殿、上座グスク
ヒーヒザ御嶽の南西測の茂みの中にあり、上座グスクとも呼ばれ、琉球国由来記には上与座之殿とある。栄徳腹 (大上座腹) が管理する拝所で、栄徳腹からカミンチュが出たとき、与座ヌルがここでウナイ神やウィキービ神に名付けをしたという。近くには上座ヌカーとアジガーがある。ここにも八千代竜宮神宮の鳥居が立っている。石碑には日日座神宮神と書かれている。日日座はヒーヒザ之事だろうから、こちらのほうが火日座御嶽 (ヒーヒザウタキ) かもしれない。
急な山の斜面をよじ登ると上にはちょっとした広場があり、そこにも日日座神宮神と書かれた石碑が建っている。
所々に人工的に積んだ石垣らしきものも残っている。
上座之泉 (ウィーザヌカー)
上座之殿の近くに上座之泉 (ウィーザヌカー) があり、与座ヌルのウナジキガー (名付けガー) ともいわれる。神泉 (カミガー) と按司泉 (アジガー、栄徳泉 ソーシカー) 二つの井戸で構成されている。上座之殿と同じく栄徳腹が管理している。
山の上には拝所なのか、古墓なのかわからないが、それらしきものがある。ただ壊れているように思える。
村山 (ムラヤマ)、内間之殿 (ウチマヌトゥン)、幸勢頭御嶽
カニマン御以の南東測の道路沿いに村山 (ムラヤマ)、内間之殿 (ウチマヌトゥン) と呼ばれる拝所がある。琉球国由来記にある内間之殿のことと思われる。また、幸勢頭腹が管理するため幸勢頭御嶽ともいう。拝所南側の雑木林を内間山、村山といい、元の拝所はそこにあったが、後に現在地に移された。戦前はこの殿の広場でウシデークを練習していたそうだ。幸勢頭の屋敷は内間山の西側にあったといわれている。
ミーンシーの壕
この与座の丘陵地には沖縄戦当時、日本軍の陣地壕があった。案内板に載っている場所の一つに行ってみたが、雑木林が深く中に入っていくことができなかった。
この場所には幸勢頭 (コーシル) 腹の門中墓があった。幸勢頭門中は与座村の嶽元 (タキムトゥ) で、汪応祖の十男与座大主の子孫ともいわれる。始祖が首里王府から龕を作る役目を命じられていたのでコーセド (龕勢頭) を名乗ったのが、後に幸勢頭となった。現在は本家の幸勢頭は絶えている。
第24師団トーチカ (未訪問)
この丘陵には別の戦争遺構がある。場所もはっきりとは分からないので、今日は時間もないので、探すことを断念。後日トライしてみたい。沖縄戦当時、与座は1944年12月から第24師団の担当地域となり、この場所に与座第24師団駐留しており、その遺構のトーチカ、交通壕、陣地壕が残っている。トーチカは交通壕で丘陵中腹にある第24師団司令部壕とつながっていた。
与座グスク (ユザグスク、ハジシグスク)
与座グスクは三世大里按司の次男の (上)与座按司が築城したと伝わっている。三世大里按司の弟の玉城按司がこの甥である (上)与座按司を倒し、与座城主となった。与座グスクは別名ハジングスク (外し城) とも呼ばれているが、それは与座按司が按司の座を外された事件により、名付けられたとも言われている。その後、1357年に玉城按司の甥の汪英紫が与座按司になったとの説もある。1415年に汪応祖が兄の達勃期に殺され、汪応祖の重臣たちが汪応祖の嫡男の他魯毎を担いで、達勃期を討った際に、達勃期の息子であった与座按司は追放された。新しい与座按司には汪応祖の末弟の十男が就任したが、尚巴志が南山城を攻めたときに戦死したといわれている。下の系譜はいろいろな資料から作成しているが、本土での鎌倉時代、室町時代なので、文書で残っているものはなく、ほとんどが伝承によっている。色々な説があり、資料によって大きな違いもある。個々の人物が正確かどうかよりは、大きな流れが見えればよい。そう見ると、与座集落は舜天王統系のリーダーがまず出現し、英祖王統に主導権が移り、南山国の重臣の知行地となっている。
与座ヌル墓、中里門中墓
与座グスクへの上り道の傍らに国元 (クニムトゥ) の中里門中墓とノロ墓があり、歴代の与座のノロが祀られている。
幾つか墓の洞窟があるのだがどれも入り口は壊れており、中を見ることができる。一つの墓の中には人骨が散乱していた。周りは綺麗に草も刈られているので整備はされているようだが、入り口も開けっ放しで人骨まで放置されているのはどうしてだろう?
与座按司墓
与座グスクの頂上付近には按司墓がある。この与座グスクを築いた与座按司の墓といわれている。上の系譜では③の与座按司にあたる。ここからは頂上が見えるのだが、ここからは上ることができないので、これ以上進むことはあきらめた。
与座岳ヌ御嶽 (未訪問)
与座岳には本土での弥生時代、約2千年前の遺跡が発見されている。天孫子25世大里思金松兼王が1186年に滅ぼされたときに、六男 今帰仁王子 (思鶴寿金) は今帰仁具志堅村への逃れ、十男 大里王子 (真五郎金) は高嶺大里村に逃れた。天孫子のグスクはこの与座岳にあったという説がある。この時代のグスクは神殿の機能が中心であった。山頂の岩穴には天孫氏に関わるともいわれる古墓があるそうだ。天孫子25世大里思金松兼王の墓もここにあるといわれている。ハッチョー御嶽とも呼ばれる与座岳ヌ御嶽は航空自衛隊与座分屯基地内の与座岳山頂にある。琉球国由来記にある与座嶽 弐御前 神名イシノ御イべ に当たるものと思われる。御嶽のある与座岳山頂一帯を御神ヌ前原といい、与座岳北側の崖下はウカミヌシチャ (御神ヌ下) と呼ばれる。沖縄戦当時には、海軍特設見張所 (電波探信義) 及び陸軍第32軍24師団歩兵第89連隊、工兵24連隊が駐留しており、米軍の艦砲射撃に目標になった。戦後、米軍第623航空管制警戒大隊が置かれ、その後自衛隊基地となった。どうも御嶽は自衛隊基地内にあるようだ。沖縄戦で破壊されたのかもしれないし、以前は米軍基地であっただろうから、御嶽が残っているかどうかも分からない。色々と資料を探したが写真が載っているものはなかった。インターネットではこの御嶽に関しては一切ヒットしなかった。時間があるときにこの辺りまで行ってみることにする。
カンザナ嶽 (未訪問)
与座岳ヌ御嶽のある与座岳山頂の東測の嶺をカンザナダキといい、自衛隊基地内に拝所がある。琉球国由来記にはカミヂヤナ嶽 神名イシノ御イべとある。ここも未訪問で後日探してみたい。
2月1日に新垣集落に向かう途中にこの与座岳の頂上にある航空自衛隊与座分屯基地の前に立ち寄った。もちろん自衛隊基地内には入れない。色々な書籍でこの自衛隊与座分屯基地内ある文化財について調べると、天孫子25世大里思金松兼王の墓は与座岳頂上の岩の割れ目にある洞窟内にあったが、洞窟入り口は石で埋まってしまっているそうだ。与座岳ヌ御嶽、カンザナ嶽は自衛隊与座分屯基地内に存在していたことは確かなのだが、今でも残っているのかは明確に書いているものはなかった。
日乃本八千代皇后神社 [2月1日 訪問]
自衛隊与座分屯基地の手前のパームヒルズゴルフ場の外側に日乃本八千代皇后神社があった。日乃本八千代は伊敷生徳が主宰する宗教団体だそうで、八重瀬岳や与座岳に多くの鳥居や祠が建てられている。ここはその一つ。この宗教団体については情報がなく良く分からない。
イリムティー (西表)、与座集落の門中墓群
上与座集落の西にイリムティー (西表) と呼ばれる丘陵があり。この丘陵にはいくつもの門中墓がある。丘陵の周りは立派な石垣で囲まれている。大切にされていたのだろう。
摩文仁 (マブミ) 腹
三山時代未期の摩文仁按司の系統で、長男系統が字摩文仁の永田腹、次男系統が摩文仁であるという。また、摩文仁ヌルの子孫ともいわれる。南山王他魯毎が減んだとき、摩文仁から首里に上り、後に、一族で首里から与座に移住したとの伝承がある。
慶留 (ギル) 腹
慶留服は慶留村の門中で、義本王の系統に繋がるという。本家の大慶留は留村のニーヤ(根屋)であり、村元、嶽元でもある。
大上座 (ウフイーザ) 腹
栄徳 (イ―トゥク) 腹のことで中南山の上与座按司の系統とされ、上座ヌ殿を管理している。 1772年に与座で疫病が流行したとき、この大上座が絶家になったため、字大里の旧家の栄徳から養子が入り、それ以降、栄徳とも名乗るようになった。
その他の門中墓が多数ある。
名前が記載されていない古墓も多数あった。
山川之泉 (ヤマガーヌカー)
字与座ではないのだが隣の字大里の山川原に山川之泉 (ヤマガーヌカー)がある。ウマチーには与座ヌルを先頭にカミンチュやムラの役員らが拝んだという。現在は農業用水に使われている。
高嶺ヌ殿
字座波の東鞍割原にある拝所で、琉球国山来記には高嶺辻之殿とある。慶留腹が拝み、屋号 大慶留が管理している。かつては報得川右岸の高さ20mほどのクチャムイ (泥岩の丘) の頂上に拝所があったが、1997年 (平成5年) の土地改良で削られた。
志慶間泉 (シジマガー)
高嶺ヌ殿ヌの北側には志慶間泉 (シジマガー)と呼ばれる形式保存された井泉があり、八重瀬町の字高良では「お墓ガー」、字世名城では「ガジャガー」と呼んで拝んでいる。
熊本之殿 (クマムトゥヌトゥン)
前回、1月10日に豊原集落訪問時にここは訪れている。豊原北当銘原の報得川の近くの林にあり、「琉球国由来記」にはコマ本ノ殿とある。字豊原ではトゥヌモー等と呼ばれている。屋号 大慶留が管理しており、字豊原でも字の行事等で拝んでいる。
和君之殿 (ワクンヌトゥン)、和君之泉 (ワクンヌカー) (未訪問)
ここは探したのだが、見つからなかった。地図も写真もなく見つけるのは難しいとは思っていた。為朝伝説の地ということで来てみたかったのだが、残念。この近くを通る際には再度探してみよう。
伊田慶名森 (イタキナムイ) 南東の字大里伊田慶名原にある拝所で、琉球国由来記には「ワコン之殿」とある。和君之泉 (ワクンヌカー) というカーもある。和君とは日本人の主君という意味。ここも為朝伝説の地だ。1156年の保元の乱で敗れた源為朝が流刑地の伊豆大島から1165年に沖縄の今帰仁の運天港にのがれ、その後、この大里に移ってきた。この時に大里按司の妹と結ばれ、後の舜天となる尊敦が生まれる。この伊田慶名森 (イタキナムイ) はその源為朝らが住んだ場所との伝承があり、近くのイタキナムイにはヤマトウンチュープリと呼ぶ岩の根元に墓があったという。舜天は1187年には天孫子25世大里思金松兼王を1186年に滅ぼした利勇を討ち、舜天王統を起こした。
この与座にはかなり多くの文化財があるので、いつもより早めに出て、8時間かけて回ったのだが、それでも時間が足りなかった。少しづつだが、日も長くなってきており、6時までは見て回れるようになってきた。今日は先日までの寒波の影響もなくなり、汗をかくほど温度が高くなってきている。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編 (2013)
- 古代琉球王朝の発祥地 : ふるさと与座村の歴史散歩 (2000)
- 沖縄戦国時代の謎―南山中山北山久米島宮古八重山 (2006)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)