祟神天皇からガド族に交替
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https://ameblo.jp/ohdoh/entry-10164282781.html 【(日本人は失われた十部族) 祟神天皇からガド族に交替】 より
祟神天皇からガド族に交替
(『聖書は日本神話の続きだった!』より)
ここまで語ると、祟神(ルビ:すじん)天皇についても触れておかねばならない。
日本には「ハツクニシラススメラミコト」と呼称される天皇が二人いた。初代の神武天皇と第10代の祟神天皇である。これは「初めて国を開いた天皇」という意味であるから、二人いるのはおかしい、ゆえに初代の神武天皇以降、第9代までは架空の人物であったとする説がまことしやかに語られてきた。
だが、これは誤りで、真実は、天皇家をめぐって権力闘争があり、天皇家の家系が入れ替わった。勝利した祟神天皇が、自らの権勢を誇る意味も込めて「ハツクニシラス」と自称したのである。
その根拠は、
⑴ 神武天皇がエフライム族の系統であるのに対し、祟神天皇は「失われた10部族」のうちのガド族の系統の魂と推定される。
祟神天皇は名前を「ミマキイリヒコ」といい、第11代垂仁天皇は「イクメイリヒコ」、第12代景行天皇は自らは違うが、皇后に「ヤサカノイリヒメ」がおり、皇子に「イオキイリヒコ」がいて、祟神天皇以降、「イリ族」が続く。
『旧約』の「民数記」によれば、「ガドの子孫は、その氏族によれば、ゼポンからゼポンびとの氏族が出、・・・エリからエリびとの氏族が出、・・・」(26-15)とある。このガドの子孫の「エリびとの氏族」が第10代祟神以降の「イリ族」となっているものと考えられる。
ちなみに、「日本」や「ジャパン」という呼称もガド族の「ゼポンびと」から出ているものと思われる。ゼポンとは英訳の聖書より訳したもので、ユダヤ人はゼを発音することができないという。このため、ジェポン、ジャポン、ニッポンとなったのではなかろうか。
また、天皇のことを「ミカド」というが、「ミ・ガド」とはヘブライ語で「 ガド族の出自」という意味である。これがミカドになったものと思われる。同様に、古代の朝鮮半島の任那(ルビ:みまな)に日本府があったというが、この任那は「ミ‧マナセ=マナセ族の出自」と解せられる。
⑵ 祟神天皇が大和朝廷の初代天皇でないことは、その巨大な天皇陵を見ればすぐに分かる事である。
周囲に膨大な濠をめぐらし、全長242メートルに及ぶ完成された前方後円墳は、国を初めて統一した初代の天皇には無理であろう。何代か経た後の、国としては安定期に入った後の天皇であったからこそ可能であったものと思われる。
⑶ 祟神天皇は当初、大元の神から見て、歓迎されなかった。これは、彼の就任後、疫病が流行り、大地が荒廃したことで分かる。
このため大田田根子(ルビ:おおたたねこ)に大物主神を、また市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)をまつらせて鎮めている。
このように災厄が続いたことは、本来、エフライム族が継承する予定であった天皇家が、祟神天皇によって断絶したことを表している――ただし、その後、大物主神らを祀ることでガド族への交代が許容されたと考えてよい。
⑷ 祟神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較すると、ダビデ王を想起させる。その理由は沢山あって、
①祟神天皇の代に悪疫が三年続き、人口の半分が死んだが、ダビデ王の時代にも3年間の旱魃があり、その後の悪疫で7万人が死んだ。両方の王は、その惨状に責任を感じ、神にお伺いを立てている。
②ダビデ王の軍隊はエドムのシア山で戦った。一方、祟神天皇の軍隊はイドミの山城で戦った。
③『旧約』によれば、約束の地にイスラエル人が定着してからは、あまり活動実績のない王の時代が500年以上も続き、その後、ダビデが王位についている。一方、日本神話でも神武天皇の死後500年以上、あまり活動実績のない王が続き、その後、祟神天皇が王位についている。ちなみに、この類似性は、神武以降9代までの天皇が架空ではないことを意味している。
④ダビデ王の死後、息子のソロモンが王位を継承し、最初のヘブライ寺院を今のエルサレムに建てた。一方、祟神天皇の死後、息子の垂仁天皇が継承し、最初の神宮を伊勢に建てた。⑤また、ソロモン王はハマトに穀倉を建てた。一方、垂仁天皇は久米の村に穀倉を建てた。
――このように、祟神天皇とダビデ王周辺の出来事は酷似している。ダビデは、全イスラエルの王となる前はユダ族の王であった。ユダ族は「失われた10部族」ではないから、この点でもエフライム族とは違っている。天皇家の交代があったとする次第である。
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スサノオまでは日本神話が、ヤコブ以降は聖書が先行
以上、結論として大和民族・弥生人は「失われた10部族」の魂を持つものとして、ユダヤ人と同祖であるという関係にある。
第1部の「聖書は日本神話の続きだった」という話と合わせると、イザナギ・イザナミの争いとスサノオの行動部分までは、日本神話が聖書に先行して、聖書の前提を語っている。
一方、ニニギ以降の天皇家の出来事は、聖書のヤコブ以降の出来事を、多少、形を変えてなぞるように再現した形となっている。つまり、『旧約』の出来事が日本の天皇家に関する部分より先行することで、日本の大和朝廷・弥生民族が「失われた10部族」であったことが確認できる。
まことに複雑であるが、日本人とユダヤ人を使って、元の大神が仕組んだ「3000年超に及ぶ仕組み」であったということになろう。
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日本の神道はヤハウェではない
ちなみに、日ユ同祖だというと、「では,日本の神道はヤハウェを祭っているのか」とか、「神社では羊が殺されて捧げられているのか」という疑問がある。
これはそうではなく、日本にやってきた「10部族」は、すでに北のイスラエル王国の時代から農耕神である男性神・バアル信仰に染まっていて、ヤハウェ神は相対化されていた。
また、弥生渡来人が日本に来てからは、土着の民である縄文人や出雲系の女を妻とすることが多かったので、彼らの信仰を取り入れた独自の神道や習慣が形成されたと見るべきである。
実際、「神」という日本語はアイヌのカムィという語が元であろうし、イザナギが、「一日に1500の産屋(ルビ:うぶや)を建てよう」と言った「産屋=お産小屋」はアイヌの習慣である。
神道で使う御幣(ルビ:ごへい)や垂(ルビ:しで)はアイヌの「イナウ」という削りかけが原型だとされているし、日本の典型的な八百万の神は、先住民族たるアイヌの自然観を取り入れたものだと明言できる。
さらに単純な日ユ同祖と違うのは、大和民族の正統であるエフライム族は、かってはユダ族に対立してイスラエルの指導的役割を担っていた。ためにイスラエルは一時期、「エフライムの家」とも呼ばれていたほどである。
また、エフライムの父であるヨセフは、『旧約』の中で唯一、欠点の書かれていない人物である。
父に愛されたことにより、兄弟から嫉妬といじめで死の境界にまで行きながら、ついにはエジプトの王という、当時の世界の頂点にまで昇りつめた。
ためにかってはいじめた兄弟たちがひざまずいた。
そのヨセフの子のエフライムが、祝福を受けて繁栄の地を与えられ、日本の弥生渡来人となったのである。
ちなみに弥生人は3波にわたって日本に来たというが、そのうちの2波は「失われた十部族」であることは間違いないと考える。