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連歌の現代的意義と歴史

2021.01.10 12:32

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza10.htm  【講座10>連歌・俳諧・俳句・連句】 より

さてこれまで私は「連句」という言葉を使い続けて来ましたが、これと似たものを指す言葉に「連歌」「俳諧」「俳句」という言葉があります。紛らわしいので解説しておきましょう。

○連歌

 今「連句」と呼んでいる文芸形式は、もともとは「連歌」と言っていました。この形式が発生した古代から中世にかけてはずっと連歌。室町時代も後半から俳諧が盛んになりますが、それも形式は連歌と変わらず、作品を記録する懐紙(かいし-お茶の席なんかで使う懐紙と名前は同じですが、紙質・大きさは全然違います。ずっと大きく厚い。但し今紙屋さんに行って「懐紙下さい」と言ってもお茶の懐紙しか出て来ません。連歌・俳諧用の懐紙なんて今はないらしく、厚手で墨が裏に染みない大きめの和紙を使うしかないみたいです)には「俳諧之連歌」と書いていました。

 俳諧をも含む形式に対する名称、という意味では、「連歌」=「連句」と言っても間違いとは言えない。しかし今の連句を連歌と呼ぶのは若干問題もあり、普通は中世までの作品と江戸時代に将軍家や大名家で行なわれていた純正連歌を指します。

○俳諧

 「俳諧」という言葉は古今集の部立の名前にも使われており、これはもともとは文学形式に対する呼称ではなく、滑稽・諧謔・ユーモア・機知・風刺といった内容を指す言葉でした。その意味で平安時代までの連歌はほぼこの俳諧を内容とするものだったのですが、中世特に兎玖波集が准勅撰集になった南北朝頃に連歌の社会的地位が上昇したことから、連歌も和歌と比肩するれっきとした文学であると考えられるようになり、内容的に優美とか幽玄とかを目指すようになってしまいました。兎玖波集の中には俳諧の部があり、それ以外は優美な純正連歌だというわけです。

 これが次の新撰兎玖波集となると、もう俳諧の部さえなくなってしまう。そういう風潮に対する反動として、俳諧の連歌だけに興味を示す人たちが出て来た。そして江戸時代になると、将軍や大名は連歌を武士の文芸として保護しましたが、庶民の間では俳諧の連歌が盛んになって行く。

 その二つは基本的に同じものなんですが、内容・作法・流行した階層が違うことから、上級武士達が保護したものを連歌、庶民の間で流行したものを俳諧と呼んで区別しています。

○俳句

 この言葉は既に江戸時代に、わずかながら使われていました。それは俳諧の句という意味。俳諧は発句から始まって脇句・第三、以下の平句、最後の挙句から成りますが(連歌も同じですね)、その一つ一つの句が俳句だということになるわけです。

 但しそういう用例は余り多くはなく、しかも明治に入って正岡子規が脇句以下を否定、発句だけを独立させて俳句と呼ぶようになって現在に至り、現在の俳句人口は相当な数に上ります。そこで現在の多くの人が「俳句」という言葉から思い描くのは、江戸時代に行なわれていた俳諧の中の発句と、明治以後の脇句以下を伴わないいわゆる俳句なのですね。

○連句

 連歌と俳諧の項で説明した通り、連歌も俳諧もやり方は基本的に同じです。ただ江戸時代においては両者を区別する必要があり、ともに文学史上のテクニカルタームになってしまっている。そこで現在連歌と俳諧を含む名称、及び現代人がかつての連歌や俳諧と同じ形式で作品を作る場合の呼び名として、「連句」という言葉を使っているというわけです。

 以上なんですけど、わかってくれた?ま、これから連歌・俳諧の歴史を粗々説明しますから、その中での使い分けを見ればわかってもらえると思うんだけど。簡単に言えば、連歌・俳諧は歴史的名称、俳句は近代に成立した連歌・俳諧或いは連句とは全く違った性格の文芸に対する呼び名、連句は連歌・俳諧を合わせた上それらの方法に倣って現代において創作されつつある文芸の総称、という具合になるかと思います。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza11.htm 【講座11>連歌の起源】 より

 「連句の起源」でもありますね。以下資料を挙げて解説します。

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[資料編]*************************

 Ⅰ 連歌の起源

一、問ひて云はく、連歌はいづれの代より始まるにや。つたはれる様もこまかにうけ給はり侍るべし。

 答へて云はく、古今仮名序に貫之の書ける、天の浮橋のえびす歌と云ふは則ち連歌なり。まづ、男神発句に、

  あなうれしゑやうましをとめにあひぬ

とあるに、女神の付けてのたまはく、

  あなうれしゑやうましをとこにあひぬ

と付けたまふなり。歌を二人していふを連歌とは申す也。二はしらの神の発句・脇句にあらずや。此の句、三十一字にもあらず短く侍るは、疑ひなき連歌と翁心得て侍るなり。古の明匠たちにも尋ね侍りしかば、まことにいはれありとぞ仰せられし。

 又、連歌とて云ひおきたるは、さきに申しつるやうに、日本紀に、景行天皇の御代、日本武尊の東の夷しづめに向ひ給ひて、この翁がこの比すみ侍る筑波を過ぎて、甲斐國酒折宮にとどまり給ひし時、日本武尊御句に、

  ニヒハリツクバヲスギテイクヨカネツル

  珥比磨利菟玖波塢須擬底異玖用加禰菟流

すべて付け申す人のなかりしに、火をともすいとけなき童の付けていはく、

  カヽナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ

  伽・奈倍底用珥波虚々能用比珥波菟塢伽塢

   ↑化けると思います。偏が「簽」の竹冠を抜いたやつで、つ

   くりが「式」という字です。

と申し侍りければ、尊ほめ給ひけるとなん。其の後、万葉集に入りたる家持卿の、

  佐保川の水せき入れて植ゑし田を

といふに、

  刈るわさいねはひとりなるべし

と付け侍る。 (二条良基『筑波問答』)

[解説編]*************************

 連歌の起源と題して良基の連歌論書『筑波問答』の一節を挙げました。

 この本は筑波から出て来た老人が京のとある貴族の屋敷の庭が気に入って入り込み、その家の若い貴族と話していると、この老人連歌の事に甚だ詳しいことがわかり、そこで若い貴族が質問し、老人がそれに答える、という設定になっています。最初の「問ひて云は

く」が若い貴族の質問、「答へて云はく」以下が老人の答えです。

 もちろんこれは良基が設定したもので、答えの内容が良基の認識を物語っているとみて間違いありません。

 それによると、ここで良基は、初期の連歌の例を三つ挙げています。一つは古事記や日本書紀に見えるイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みに当たっての言葉の掛け合い。

  あなうれしゑやうましをとめにあひぬ(イザナギ)

  あなうれしゑやうましをとこにあひぬ(イザナミ)

というもの。

 実は古事記では天の御柱を回って声を掛け合った時、イザナミの方から声を出してしまったため、生まれた子供は骨のないヒルコだった。そこでなぜそんな子供が生まれたのか、これはきっと女が先に声をかけたからだ、と考え、もう一度柱を回って、今度は男の方

から声をかけたことになっているところ。すると淡路島を始めとする日本の国土が生まれたというもの。

 意味は要するに、「おおっ、嬉しいなあ、いい女に会った」「あらっ、嬉しいわあ、いい男に会った」ということ。

 もう一つはこれも古事記・日本書紀にある話で、ヤマトタケルノミコトが父景行天皇の命令で東国征伐を行ない、常陸国新治郡筑波から甲斐国酒折宮に辿り着いた時、ミコトが

  ニイバリツクバヲスギテイクヨカネツル(新治の筑波を過ぎて、

  一体幾晩寝たことだろう)

と詠んだのに誰も答えられなかった時に、そこにいた童(古事記では御火焼ミヒタキの翁)が、

  カガナベテヨニハココノヨヒニハトヲカヲ(日々を並べると、

  夜としては九夜、日としては十日でございます)

と答えたというもの。

 三つ目は万葉集にある、ある尼と大伴家持のかけあい。例文の筑波問答ではどちらが家持のものかわかりにくくなっていますが、万葉集ではまず尼が、

  佐保川の水を堰き入れて植えし田を

と詠みかけ、家持が、

  刈る早稲は一人なるべし

と続けたことになっています。

 この万葉集の例は若干意味がとりにくいのですが、尼の前句は、「この田は佐保川の水を塞き止めて水を流し、私が苦労して植えた田なのですよ」という表面の意味に、「そのようにこの娘は私が手塩にかけて育てた大事なむすめなのですよ」という裏の意味を含む

もの。家持の方は、「その早稲を刈って食うのは一人でしょうよ」そして「あなたの大事な娘といっても、いつかは一人の男のものになってしまうのですよ」というような意味だろうと考えられています。

 さて良基はこの三つの例のうち、二番目のヤマトタケルノミコトの例が従来連歌の初めと言われて来たが、自分はもっと前の、イザナギ・イザナミノミトコの例だと思う、と述べているようです。これは連歌の社会的地位の向上のために、その由来を神代の昔からと考えたかった良基としては当然のことでしょう。とはいえ、この掛け合いが歌と呼ぶべきものとは思えません。

 それに対してヤマトタケルの例は、いつごろからかわかりませんが古くから連歌の始まりと考えられていたらしく、ここから、和歌の道を「敷島の道」と呼ぶのに対して、連歌の道を「筑波の道」と呼び慣わすようになりました。良基も連歌最初の撰集を「菟玖波集」と名付けたところを見ると、これを最初と見るのが穏当と考えていたのだろうと思われます。

 しかし現代においては、その説は支持されていません。ヤマトタケルと童または御火焼の翁の例は、477・577という歌体になっており、この577という形は、記紀万葉に他にも例のある片歌という歌体であり、要するに片歌の唱和の例と考えられています。

 尼と大伴家持の例もこれが初めての連歌の例と考えられているわけではなく、二人がこういう歌を作ったのは、当時こういうやり方で歌を作ることが他にも行なわれており、その中からたまたま家持の例が残ったまで、ただ現存最古という意味では、これがそれだと

考えられています。

 これが現代の連歌学者達の見方ですが、私はまだよくわかりません。現代の連歌学者達が万葉集の例を現存最古の連歌の例と考えるのは、575と77の組み合せという後世の連歌と同じ形である、ということを大きな根拠としているようですが、二人で一首の歌を

作るのが初期の連歌の姿と考えていいならば、ヤマトタケルの片歌の唱和も、そういうものと見ることが不可能ではない。

 カタという言葉は古来完全を意味する「マ」に対して、完全でない、どこかが欠けているという意味を表していました。すると片歌とは、それだけでは完結しない不完全な歌、という意味になる。そして片歌が二つ集まった形、すなわち577577という歌体も万葉集にはあり、旋頭歌(セドウカ )と呼ばれていました。

 ヤマトタケルが477の歌を詠んだ時、これは片歌だからこれだけでは完結していない、もう一つ片歌が加わって初めて一つの旋頭歌になる、と考えて誰かがそれを詠むことを期待していたとするならば、それは「佐保川の水を堰き入れて植えし田を」と詠んでそれ

に続く77を誰かが詠むことを期待していた尼と同じ心理だったのではないか。

 そう考えれば、ヤマトタケルの片歌の唱和を連歌の起源と見る古来の説もあながち否定できないのではないか、などとも考えるのですが、まだ大伴家持の例を現存最古の例と考えた現代の説の根拠を十分確かめていないので、これはあくまでも素人考えにとどまりま

す。

 とはいえ仮に家持の例を現存最古の例と考えても、それが作られたのは8世紀の半ば以前。今から1200年以上も前のことになります。この国で、一つの歌を複数の人間が合作するという習慣がそれほど昔から行なわれていたことには、やはり注目すべきでしょう。

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 どうでしたか?これくらいが1回分の長さです。後は来週のお楽しみ。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza12.htm 【講座12>平安時代の連歌】より

自由連句で遊びながらこの講座で勉強して下さい。私はレポートは要求しません。この講座に参加した成果は、連句の実作で見せてもらえるからです。今回は平安時代の連歌。これも資料編と解説編に分けています。

[資料編]*************************************************

 Ⅱ 平 安 時 代 の 連 歌

<A>

    内に侍ふ人を契りて侍りける夜、遅く詣で来ける

    程に、うしみつと時を申しけるを聞きて、女の言

    ひ遣はしける

 人心うしみつ今は頼まじよ

                     良岑宗貞

 夢に見ゆやとねぞ過ぎにける(拾遺集1184)

<B>

 奥山に舟漕ぐ音の聞こゆなり

 なれる木の実やうみわたるらん      紀 貫之

  (菟玖波集1884)

<C>

    田の中に馬の立てるを見て     永源法師

 田に食む駒はくろにぞありける

                     永成法師

 苗代の水にはかげと見えつれど(金葉集653)

<D>

    和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食は

    れて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼

 ちはやぶるかみをば足に巻くものか

                     和泉式部

 これをぞ下の社とは言ふ(同658)

<E>

    柱を見て               成光

 奥なるをもやはしらとは言ふ

                     観暹法師

 見渡せば内にもとをば立ててけり(同664)

<F>

  またある時に、

    奈良の都を思ひこそやれ

 と言はれ侍りけるに、大将殿有仁

    八重桜秋の紅葉やいかならむ

 と付けさせ給へりけるに、越後の乳母、

    時雨るる度に色や重なる

 と付けたりけるも、後まで賞め合はれ侍りけり。

  (『今鏡』「御子たち第八」「花のあるじ」)

<G>

  同じき御時(永万元年一一六五頃)の事にや、いろはの連歌ありけるに、たれとかやが句に、

   うれしかるらむ千秋万歳

 としたりけるに、此次句にゐ文字にや付くべきにて侍る。ゆゆしき難句にて人々案じ患ひたりけるに、小侍従付けける、

   ゐは今宵明日は子の日と数へつつ

        (『古今著聞集』「和歌第六」)

[解説編]**************************************************

 ここには平安時代の連歌作品から、AからGまでの7例を抜き出しました。この時期の連歌は概ね言い捨てにされていたらしく、余り残っていないのですが、拾遺集・金葉集という二つの勅撰集と、後世の菟玖波集や説話集の中に書き留められています。ほかに金葉

集の撰者源俊頼の家集である『散木奇歌集サンボクキカシュウ』と歌論書『俊頼髄脳トシヨリズイノウ 』(別名「俊頼無名抄トシヨリムミョウショウ 」「俊秘抄シュンピショウ」)にもあったと思います。

 さてAからGのうちAからEまでの5例は、前代の尼と家持の例同様、形としては二人で一首の短歌を作った、とも見られる例で、これを後世の長い連歌と区別するために、「短連歌タンレンガ」と呼んでいます。平安時代の中頃までは、この短連歌が主流、というより長いのはまだ詠まれていなかったのだろうと思われます。

 作品は一読理解出来そうなわかりやすいものですが、若干解説しましょう。

 まず<A>の付句の作者良岑宗貞とは、やがて出家して僧正遍照と呼ばれることになる人。いわゆる六歌仙の一人ですね。

 その宗貞がある時、宮中に仕える女房(女官のことです。「女房」が現在のように「妻」の意になったのは、平安時代もかなり遅くなってからだろうと思われます。「房」とは部屋のことで、宮中に部屋を賜って仕えている女官のことを「女房」と呼びました)と恋仲になって、デートの約束をしました。

 ところが約束の時間にだいぶ遅れて女の部屋に行ってみると、ちょうど時を告げる役人が、「うしみつーーー」とか行って歩いている時だった。古代の時制については、ご存じの人が多いと思いますが、一日を12に分けて、その一つ一つに十二支を配していた。「丑」とはその二つ目で、今の午前1時から3時。それをさらに4等分して、「丑一つ」とか「丑二つ」とか言っていたので、「丑三つ」とは午前2時から2時半に当たります。「草木も眠る丑三つ刻」という言い方はご存じですね。

 で当時はこういう風に時を告げる役人がいて、決まった時刻に宮中の各殿舎を回って、「うしみつーーー」とか言って歩いていたわけです。宗貞が女の部屋を訪れたのは、ちょうどその時だった。

 付句の内容から宗貞は、丑の前の子の刻、すなわち今の午後11時から午前1時の間に行くと言っていたらしく、その時間を少なくとも1時間はオーバーしていたわけです。

 そこで女は、「人心うしみつ今は頼まじよ」と言って来た。「人心」はあなたの心。「うしみつ」は時刻の「丑三つ」に、「憂し見つ」、つまり薄情なのがわかった、という意味が掛けてある。で、「あなた、私のことなんか全然本気で思ってなかったのね。わかったわよ。もうあんたなんかあてにしませんよ!!」と言って来たわけです。

 そこで宗貞は「夢に見ゆやとねぞ過ぎにける」と付けたわけです。付けたと言っても、これは和歌の贈答に近いですね。ただ「ねぞ過ぎにける」の「ね」に、「寝」と「子」が掛けられているのがミソ。「あなたのことを夢に見るかと思って寝過ごしてしまいました。だから約束の子の刻を過ぎて、丑の刻になってしまったんですよ」というわけです。

 「うしみつ」に「ね」という時刻の掛け詞で応じたわけで、見事に「決まったね」、という感じですね。これで相手の女がどうしたか、二人はその後どうなったか、全くわかりませんが、多分女としても無下に追い払うわけには行かなくなった、と考えてよいのではないかと思います。

 さて遍照を始めとする六歌仙の歌風を批判して、その時代にしては斬新な、いわゆる古今風を生み出した中心人物が紀貫之でしたが、この貫之の連歌が菟玖波集に採られています。それが<B>。

 前句作者は菟玖波集には記載がありませんが、その菟玖波集が資料にしたと考えられている俊頼髄脳には「躬恒」となっています。凡河内躬恒オオシコウチノミツネは貫之と並ぶ古今集撰者の一人。古来二人の優劣が論争されて来ましたが、源俊頼は躬恒を高く買っていたようです。

 それはともかく、前句の内容は「奥山で舟を漕ぐ音が聞こえるけど、ナーニ?」という謎掛け。

 それに対する貫之の付けは、「熟み」と「海」を掛け詞にして、「木の実があちこちで熟してるんじゃないの?だから「うみわたる」「海を渡る」」というもの。

 <C>は馬の毛色による応酬。前句が「くろ」に田の「畔」と馬の毛色の「黒」を掛けたのに対して、付句は水に映る姿の意味の「影」と馬の毛色の「鹿毛」を掛けたもの。

 <D>は平安時代を通じて最も魅力的な女流歌人、和泉式部の連歌。藁沓で足を怪我して紙を巻いていた和泉式部を、神主忠頼が「紙」と「神」を掛け詞にして「畏れ多くも神様を足に巻いていいものか」と咎めたのに対して、和泉式部は「かみ」のもう一つの意味、上下の「上」を掛けて、賀茂神社には上社と下社があるので、「これを下の社と言うんですよ」とやり返したもの。

 <E>は全くの駄洒落で、「奥にあるのにどうして柱(端)と言うんだい?」という前句に、「だって家の内に戸(外)が立ってるじゃないか」と付けたもの。

 もったいらしく解説をしてみましたが、別にこんな解説がなくとも理解出来るやさしい内容で、一読哄笑を誘うものばかりですね。この哄笑性が、この時代の連歌の大きな特長だろうと思います。それと同時に、中世の連歌が失ったこの哄笑性を、やがて復活させるために俳諧が生まれた、或いは名前を変えて再生した、と考えられるところですが、それはまだ後のこと。

 ところで世の中にはこういうものを「単なる言葉遊び」と片付ける人がいるだろうと思います。平安時代にもそういう人が多かったから、和歌に較べて連歌が一段低く見られていたのでしょうが、これらに使われた「掛け詞」の技法は和歌においても常套の技法だったのであり、そもそも言葉で遊ぶとは言葉を持つ人間にしか出来ず、しかも精神的余裕がなければ出来ない高尚な営みなのであって、それは文学にとって極めて大事な要素であるはずです。従ってこれらを「単なる言葉遊び」などと言って片付けてしまう人は、残念ながら文学とは縁なき衆生と考えざるをえません。

 それはともかく何気なく解説して来た例の中で、<C>や<E>の例は、後の長連歌発生のためには見逃せない例でした。つまり、短連歌が常に575と77の(この順番の)組合せだったら、いかにも二人で一首の短歌を作るという感じで、そこから長連歌が発生したかどうか、と思われますが、これらは逆に77に575を付けた例。こういうものが作られる中から、更にその後を続ける長連歌が発生して行ったのだろうと考えられます。

 果たして院政期に入ると、次の<E>のような例が出て来ました。これは『今鏡』という歴史物語の中に記録されたものですが、誰かが「奈良の都を思い遣っています」という短句を詠み掛けたのに対して、大将有仁という人が、「奈良の都の八重桜は、秋に紅葉する頃はどんな様子でしょうね」と付けました。前句が空間的な意味で、京の都から奈良の都を思い遣るという内容だったのに対して、その奈良に縁のある八重桜を持ち出して、今度は時間的に、春から秋を思い遣るという内容で付けたわけです。

 これだけでもなかなか見事な付けだったわけですが、この時には更に、越後の乳母という人が、「時雨るる度に色や重なる」と付けた。「時雨」とは秋の終わりから冬の初めにかけて、さあっと降ったかと思うとすぐにやむ雨ですが、和歌の世界ではその時雨が、木々の葉を染めるのだと考えられていました。

 そこで、八重桜というからには、その時雨が降るたびに一重、二重、三重・・・と紅葉の色が深くなって行くのだろうか、と付けたわけです。

 これが現存最古の長連歌の例ですが、おそらくこの頃にはもっと多くの長連歌が行なわれるようになっていたのでしょう。これは三句だけで、この後も続けられたかどうかわかりませんが、次の例はもっと長かったのが確実な例です。

 永万元年と言えば保元・平治の乱も終わった平氏政権の時代。その頃「いろはの連歌」が行なわれたという。「いろはの連歌」とはイロハの一字ずつを順に句の頭にして句を連ねて行ったはずのもので、ここにはその中から「うゐのおくやま」の「う」と「ゐ」の部分しか抜き出されていませんが、仮にここまでで終わったとしても、「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐ」の25字分、すなわち25句は続けられたはずです。

 こうして連歌は、短連歌から長連歌の時代へと遷って行きました。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza13.htm 【講座13>中世の連歌】より

 中世(鎌倉・室町時代)といえば連歌の最盛期、どうしても出すべき例が多いので長文になってしまいます。フロッピーでDLしている方は残りバイトにご注意、なんてほどでもないか?

 とはいえ文豪MINI5シリーズで文豪用の初期化をしたフロッピーを使ってDLする場合、最大255行しか受信出来ないのでした。ほかの会社のワープロでも似たようなことはあると思いますので、やっぱり注意して下さい。

 なお文豪MINI5シリーズの場合、本体内蔵のCP/Mで初期化したフロッピーを使えば、その制限はなくなりますが。

[資料編]**************************************************

 Ⅲ  中 世 の 連 歌

    後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに

 乙女子がかつらぎ山を春かけて

 霞めど未だ峯の白雪          従二位家隆

                  (菟玖波集一一)

    後鳥羽院の御時、三字中略、四字上下略の連歌に

 結ぶ契りの先の世も憂し

 夕顔の花なき宿の露の間に      前中納言定家

                    (同二六八)

    後鳥羽院御時、源氏巻の名国の名百韻連歌奉りけ

    る中に

 いつも緑の露ぞ乱るる

 蓬生の軒端争ふ故郷に         源家長朝臣

                   (同一二七八)

  文和千句第一百韻

    賦何人連歌 文和四年四月二十五日 於二条殿

 名は高く声は上なし郭公      侍(救済)

 茂る木ながら皆松の風       御(二条良基)

 山陰は涼しき水の流れ来て     文(永運)

 月は峰こそはじめなりけれ     坂(周阿)

 秋の日の出でし雲間と見えつるに  素(素阿)

 時雨の空も残る朝霧        暁(暁阿)

 暮ごとの露は袖にも定まらで    木(木鎮)

 里こそ変はれ衣打つ音       成(大江成種)

          - 以下略-

  水無瀬三吟百韻

    賦何人連歌      長享二年正月二十二日

 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇(飯尾)

 行く水遠く梅匂ふ里        肖柏(牡丹花)

 川風に一むら柳春見えて      宗長(柴屋軒)

 舟差す音はしるき明け方      祇

 月は猶霧わたる夜に残るらん    柏

 霜置く野原秋は暮れけり      長

 鳴く虫の心ともなく草枯れて    祇

 垣根を訪へばあらはなる道     柏

          - 以下略-

  天正十年愛宕百韻

    賦何人連歌 天正十年五月廿四日於愛宕山威徳院

 ときは今天が下しる五月かな     光秀(明智)

 水上まさる庭の夏山         行祐

 花落つる池の流れを塞き止めて    紹巴(里村)

 風に霞を吹き送る暮れ        宥源

 春も猶鐘の響きや冴えぬらん     昌叱

 片敷く袖は有明の霜         心前

 うら枯れになりぬる草の枕して    兼如

 聞き慣れにたる野辺の松虫      行澄

          - 以下略-

[解説編]**************************************************

 ここには連歌の最盛期であった中世の作品を挙げました。最初の3例が菟玖波集に採られた後鳥羽院時代のもの。その後に百韻三種。一つは二条良基と救済らによって詠まれた文和千句の第一百韻。次が連歌史上最高の名作水無瀬三吟百韻。最後は明智光秀が本能寺襲撃のほんの数日前に張行した天正10年愛宕百韻です。

 さて院政期頃から長連歌が行なわれ出したことは前に書きましたが、中世における連歌の最も代表的な形式である百韻が誕生したのは、後鳥羽院の時代だろうと考えられています。

 百韻の「韻」とは、本来漢詩の技法であり、韻を踏まない日本の詩歌にはそぐわない用語で、百韻というのは要するに、575の句を長句、77の句を短句と呼ぶ、その句を百連続させたもの、つまり575の長句50句と、77の短句50句計100句から成る作品に対する名称なので、より正確には「百句」と呼ぶべきですが、百韻と呼び慣らわされて来たので、敢えてその習慣に異を立てるまでもないでしょう。

 後鳥羽院は平家が安徳天皇を奉じて西海に去った後、思いがけず帝位に就いた人でしたが、並々ならぬ芸術家としての才能を持ち、歴代の天皇の中でも最高の歌人でした。自ら撰集を下命した新古今集にある、

 見渡せば山本霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけん

とか、承久の変に破れて隠岐の島に流された時に詠んだと伝えられる、

 我こそは新島守よ沖の海の荒き波風心して吹け

といった歌が特に著名ですね。和歌に対する思い入れは深く、新古今の撰集に当たっては、その完成を祝う竟宴が終わってからもたびたび歌の切り入れ切り出しを命じて、同じく和歌に対しては絶対的な自信を持ちプライドの高い定家を嘆かせ、最終的には隠岐島で普通の新古今集より400首ほど少ない精選本、いわゆる隠岐本新古今集を作ったほどでした。

 しかしこの天皇連歌も大好きで、定家・家隆をはじめとする新古今時代の錚々たる歌人たちを御前に召し集めて連歌会を催し、よい句を出した者には賞品(これを賭物カケモノと言います)を与えていたそうです。

 さて例示した3種の連歌のうち、最後の「源家長朝臣」の作の詞書に、「百韻連歌」という字が見えます。少なくともこの時代には百韻が行なわれていたことを示す事例ですが、おそらくこの形式はこの時代に始まったと考えてよいのではないかと思われます。

 和歌における百首という形式は、既に拾遺集の時代には行なわれており、曾祢好忠や源重之、また彼らからの影響を受けたと思われる和泉式部のあたりから見え始め、特に金葉集の撰者源俊頼が中心になって行なわれたとされる堀河院御時百首和歌は後世の規範となりましたが、その形式は新古今時代いよいよ盛んに行なわれ、その時代の代表的な歌合である『六百番歌合』『千五百番歌合』も、百首和歌の組み合せによって行なわれたものでした。この百首和歌の盛行が、連歌の百韻成立に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。

 さてこの時期の連歌を前代のものと較べて驚くことの一つは、極めて和歌的な優美な作品になってしまった、ということだろうと思います。家隆の例は、「白黒賦物」とあるように、白いものと黒いものを交互に出す、というルールによって詠まれたもので、前句の「かつら」が黒なので、付句では白い「白雪」を出した、というものですが、「霞めど未だ峯の白雪」という句は、新古今時代の和歌の下句と言われても何の違和感もないものでしょう。それは次の定家のでも家長のでも同じですね。

 後鳥羽院は定家達新古今時代の代表的歌人達を、和歌的優美な句を詠む連衆という意味で、万葉集の歌聖柿本人麻呂にちなんで柿本衆、または有心衆と呼び、和歌には縁のない漢詩人達を、それに対して栗本(こんな名前の人はいなかったので、要するに柿でないから栗だとしたまで)衆とか無心衆とか呼んで、付句を競わせたそうです。定家たちが和歌的優美な句を詠んだのは、そのせいでもあったようです。

 もう一つこの時期の連歌の特徴として、賦物フシモノ中心のルールで行なわれていたことも挙げておかなくてはならないでしょう。賦物とは、たとえば家隆の例では「白黒」。これが百韻だったのかどうかはわかりませんが、とにかくこの連歌では、白いものが出たら付

句には黒いもの、その付句には白いものを出さなければならない、ということになっていたのでした。

 次の定家の例は「三字中略」と「四字上下略」の組み合わせ。三字中略とは三字から成る語で、そのうち真ん中の字を略すと別の二字語になるもの。定家の例の前句では、「結ぶ契り」の「契り」という三字の語の真ん中を略すと、「ちり(塵)」になりますね。四字上下略は四字の語の上下を略すもの。「夕顔」の上下、「ゆ」と「ほ」を取ると「ふか(鱶)」になります。

 また家長の例では「源氏巻の名国の名」となっていますので、そこでは源氏物語の巻名と日本の中の国名が交互に詠み込まれることになっており、引用した前句の「いつも緑の露ぞ乱るる」の「いつも」には「出雲」という国名が、付句の「蓬生の軒端争ふ故郷に」には「蓬生ヨモギウ 」という源氏の巻名が掛けられています。

 このようにあらかじめ決められた各句に詠み込むべき語が「賦物」であり、前回あった「いろは連歌」の「いろは」も賦物ですし、PC-VAN[おじさん広場]のフォーラム8「テレCOM談話室」で去年行なわれた猫連句や愚痴連句の「猫」や「愚痴」も一種の賦

物といえます。

 こうした賦物の中で一番一般的なのは、「山何」とか「何人」といったもので、この何の部分に当て嵌まる語を詠み込むというもの。引用した3種の百韻はたまたま「何人」ばかりになってしまいました。たとえば「文和千句第一百韻」の場合、その発句「名は高く声

は上なし郭公ホトトギス」の「上」を「何」に当て嵌めると、「上人」(「うえびと」-殿上人テンジョウビト のことをこうも言った)となりますし、次の水無瀬三吟の場合は、「雪ながら山もと霞む夕べかな」の「山」を「何」に当て嵌めると、「山人ヤマビト 」になりますね。

 連歌は懐紙カイシ と呼ばれる紙に書くことになっていましたが、その際最初の紙を二つに折った表(これを「初表ショオモテ 」と呼ぶ)の右側3分の1の真ん中辺りに、この賦物を書くことになっており、この、たとえば「賦何人連歌」というようなのが、その巻の正式な名称ということになります。「水無瀬三吟百韻」などというのは、あくまでも便宜的な通称というべきものです。

 これは俳諧の連歌、すなわち連句でも同じで、連句の場合は最初に「俳諧之連歌」などと書かれました。たとえば「「市中は」の巻」とか「「狂句こがらしの」の巻」などという呼び名も便宜的な通称というわけ。同時に連句の場合は、各句を俳諧の句とする、という

賦物によって巻かれて行く連歌、と考えられていたわけです。

 但し俳諧はともかく、連歌の世界ではこの賦物によって一巻を統一しようとしたのは恐らく鎌倉時代までのこと。南北朝頃にはもう賦物は連歌の進行には殆ど意味を持たなくなり、百韻の中で賦物を取るのは発句だけ、それも発句が出てから、その中に出て来る語にふさわしいと思われる賦物を題にするというだけで、脇句以下では全く考慮されないようになってしまいました。

 賦物に代わって一巻の進行に大きな意味を持つようになったのが「去り嫌い」というルール。ある語が出るとその後何句は同じ語を使ってはいけないとか、次の句にこういう語を使ってはいけない、とかいったルールでした。いつごろからそうなったか、正確にはわかりませんが、良基時代以降の連歌は概ね去り嫌い中心になっています。

 そういうわけで後鳥羽院の時代に百韻という形式が確立したわけですが、その頃の連歌で百韻が丸ごと残っているという作品はありません。漸く残り出すのが良基の時代、つまり南北朝時代からで、それは連歌が極めて多くの人に愛好されていたにも関わらず、まだ記録するほどの価値はないもの、と意識されていたことを意味するのでしょう。

 同時にそれは、社会的地位などというものは余り高くない方が、文学としてのエネルギーは持っているということをも物語っているのかもしれません。かつて河原乞食の所業であった近世の演劇が、近代に入って伝統的な由緒正しい演劇と目されるや、新しい創造のエネルギーを失ってしまったことなどを思い浮べますね。物語だって源氏物語が書かれた頃は、要するに女子供の慰み物だったわけですから。

 それはともかく、良基が連歌の社会的地位向上のために果たした役割の大きさは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。彼は菟玖波集を編纂しそれを准勅撰集とすることによって連歌をそれまでの第一文学、和歌と比肩し得る文学とすることに成功し、応安新式の制定によって、混乱していたルールを統一し、『連理秘抄』や『筑波問答』といった連歌論書を書くことによって連歌の理論化と普及啓蒙に努めました。

 その際注目すべきは、地下(ジゲ-「堂上ドウジョウ 」の対で官位を持たぬ、或いは持っていても身分の低い人を指す)の連歌師救済(グサイまたはキュウゼイ)を師とし、彼と協力して上記のような活動を行なったことでした。

 自分自身は摂政・関白・太政大臣といった最高貴族としての地位にありながら、彼はいつでも野にいる遺賢を取り立てることが得意でした。連歌の世界では救済でしたが、和歌の世界ではこれまた一介の遁世者である頓阿を師として、『愚問賢注』という問答体の歌

論書を書きました。自らの問いを「愚問」と呼び、頓阿の答えを「賢注」と名付けたのです。

 足利義満とともにまだ少年だった世阿弥を見出だし、後の能役者兼作者として花開く古典的教養を身に付けさせたのも良基でした。

 話が横に逸れましたが、資料として引用した文和千句は、良基のそのような活動によって、連歌が記録するに値するものという価値観を、同時代及びそれ以後の人々に植え付けることに成功したからこそ残った、記念すべき作品と言えるでしょう。

 その後良基と救済からは非難された救済の弟子周阿が第一人者となった、一般に沈滞期と呼ばれる時代、それを克服し連歌の中に深い思想を追求した心敬を始めとする七賢の時代がありましたが、資料にはその心敬の教えをも受け、中世を通じて最も代表的な連歌作者となった宗祇が、その高弟肖柏・宗長と三人で巻いた名作、「水無瀬三吟百韻」を引きました。

 実を言うとこの百韻の場合、三人のうちで宗長がまだ若干技量が劣り、宗長の所に来るとそこで作品が滞るような感じがあって、これよりももう少し後で同じ三人が巻いた『湯山三吟百韻』の方が作品としては優れている、という意見があります。

 しかし後鳥羽院の新古今の名歌「見渡せば山本霞む~」を踏まえて早春の雄大な景を詠む宗祇の発句、その発句にある山の雪溶け水の流れる里を詠んで発句にはなかった嗅覚イメージ梅の匂いを付けた肖柏の脇句、そこに柳の葉を翻す川風を詠んで発句・脇句の静かな世界に動きを添えた宗長の第三、更に舟を棹差す「音」を出した四句目と、穏やかにかつ格調高く展開して行く表八句を見れば、名作という従来の評価にやはり誤りはなかった、と思わざるをえません。

 最後の「天正十年愛宕百韻」は、作品としての出来よりも成立の事情が目を引く事例として挙げました。この百韻を張行したのは明智光秀。その発句

  ときは今天が下しる五月かな

は、「とき」に「時」と「土岐」が掛けてあり、「天が下しる」の「しる」とは治めるとか領有する、支配するの意。要するに光秀は、土岐氏の一族である自分が天下を治める五月が来たと詠んだのであって、この百韻は光秀が既に決意していた信長襲撃の戦勝を祈願して巻かれた百韻だったようです。本能寺の変はこの数日後、6月2日のことでした。

 さてこの百韻に加わっていたことでまもなく窮地に立たされたのが、宗祇以後の連歌壇の第一人者でこの百韻の第三を詠んでいる里村紹巴サトムラジョウハ 。光秀が滅んだ後、秀吉に追及された紹巴は、「天が下しる」の「しる」は本来「なる」だったので、光秀が勝手に

直したものだろうと申し開きをして何とかことなきを得たそうです。紹巴はこの後秀吉に仕え、里村家は近世に入ってから連歌の宗匠家として栄えて行きますが、この時紹巴が秀吉に誅殺されていたら、以後の連歌の歴史も多少変わっていたかもしれません

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などと締め括ってみましたが、実は私は近世の連歌の歴史をほとんど知らない。近世に入ると将軍家を始め各大名家ではそれぞれ連歌師を抱え、正月とかしかるべき時に興行していたらしいのですが、私はまだそういう作品を見たことがありません。

次は中世の俳諧ですが、今回のが長いので皆さんにじっくり読んでもらうため、若干時間を空けてからUPすることにします。出来れば続きが読みたくなったら催促して下さい。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza14.htm  【講座14>俳諧の発生と展開】 より

[資料編]**************************************************

  Ⅳ 俳諧の発生と展開

 ○竹馬狂吟集(一四九九)より

<A>足なくて雲の走るはあやしきに

   何をふまへて霞たつらん

<B>王も位をすべるとぞ聞く

   縁までも油みがきの院の御所

<C>暗き夜に小便所をやたづぬらん

   そこと教へばやがてしと(尿・師と)せよ

<D>あながち(強ち・穴勝ち)なりと人や笑はん

   生まるるもまた生まるるも女ヲナゴにて

 ○新撰犬筑波集より

<E>霞の衣すそは濡れけり

   佐保姫の春立ちながら尿シトをして

<F>月日の下に我は寝にけり

   暦にて破れをつづる古ぶすま

<G>命知らずとよし言はば言へ

   君故に腎虚せんこそ望みなれ

<H>誠にはまだうちとけぬ仲直り

   めうとながらや夜を待つらん

<I>ふぐりのあたりよくぞ洗はん

   昔より玉磨かざれば光なし

<J>人を突きたるとがは逃れじ

   あはれにも越ゆる蚊遣りの死出の山

 ○守武千句(俳諧之連歌独吟千句-天文九年一五四〇成

  立)より

  飛梅やかろがろしくも神の春

   われもわれものからす鴬

  のどかなる風ふくろふに山見えて

   目もとすさまじ月のこるかげ

  あさがほの花のしげくやしをるらん

   これ重宝の松のつゆけさ

  むら雨のあとにつなげる馬のつの

   かたつぶりかと夕暮の空

      -以下略-

[解説編]**************************************************

 中世に入って百韻の形式が確立するとともに、連歌はその表現を洗練させて行き、その傾向は良基・宗祇の時代を通して一層進められましたが、誰もが良基や宗祇のような優美な作品を詠んでいたわけではありません。むしろ圧倒的多数の人々は、菟玖波集や新撰菟玖波集といった公的な撰集には採られるべくもない、庶民生活に密着した作品を詠んでいたのだろうと思われます。

 その多くは記録されることもなく詠み捨てられていたのだろうと考えられますが、新撰菟玖波集の数年後、15世紀の最末期に成立した『竹馬狂吟集』、更にその数十年後に山崎宗鑑によって編纂されたと伝えられる『新撰犬筑波集』(正式には「俳諧連歌抄」)に、そうした作品の一部が伝えられています。ここには前者から4つ、後者から6つ、比較的わかりやすいと思われる付合を抜き出しました。

 <A>は「雲が走る」という表現に対して、「足がないのに雲が走るってのは変だなあ」と無邪気に疑ってみせた前句に、「それじゃあ霞は何を踏んで立つんだい」と、これまた無邪気に切り返したもの。

 <B>は「王も位をすべる」、即ち退位することがあるものだという幾分政治的な内容をも持つ前句に対して、それは院の御所は縁まで油で磨いてあるからだよと即物的に応じたもの。

 <C>は暗い夜に小便所を尋ねるという卑近な前句に対して、「尿」と「師と」の掛け詞で、「そこと教えたらすぐにオシッコしなさい」、同時にこんな些細なことでも、教えを受けたのだから「師と」して尊敬しなさいと答えたもの。

 <D>の前句は「あんまりだと人が笑うんじゃないか」というかなり汎用性のある内容。付句作者はその「強ち」という言葉を「穴勝」にすり替えて、いささかHに付けました。

 実は両集を通して量的に目立つのは、このような猥褻なもの。しかしこれはかなり綺麗に付けた方で、露骨に性器の名前を出すものも多く、<I>がその1例です。また説明していると時間がかかると思って抜き出しませんでしたが、時代色を反映して男色関係の作品が目立ちます。中世俳諧の実態を知るためには例示した方がよいのですが、私が気持ち悪い。それから現在差別語とされている語を話題にして笑いの対象にするといったものも目立ち、これまた実際にある以上取り上げてもよいと個人的には考えますが、気にする人

もいると思うので取り上げませんでした。両集とも新潮古典集成の一冊として出ていますので、全部見たい方はそれをご覧下さい。

 さて『新撰犬筑波集』に移って<E>はその巻頭の付合。霞を「霞の衣」と言う「衣」の縁で「裾」を出し、その裾が濡れたとする前句に対して、付句は裾が濡れた理由を、春の女神である佐保姫が、立春の今日「春立つ」の縁で立ち小便をしたからだ、ととりなしたもの。猥褻、と言うよりは大らかな付け味なのだろうと思いますが、ともかく春の女神に対していささか失礼な付句ではありますね。但し女性が立ち小便をするというのは当時としては別に珍しいことではなかったそうで、女神をお転婆娘にしたというわけではないよう

です。

 <F>は「月日の下に寝た」という前句の「月日」を暦の月日に取り成して、旅寝を思わせる前句の世界を、破れた衾を暦でつづった貧しい人の姿に転じたもの。

 <G>については余り説明する必要はないですね。<H>もそうだと思いますが、夫婦喧嘩は夜になって解決するものだという付合です、と一応説明してしまった。

 <I>はさっき書いたように男性性器「ふぐり」を出した前句に、「玉磨かざれば光なし」という金言で応じたもの。

 <J>はいささか殺伐な前句に、それは蚊のことだったのだと無難に応じたものでした。

 『竹馬狂吟集』は中世最初の俳諧撰集として注目すべきものですが、撰者不明、また余り流布しなかったので、多くの写本版本となって流布した『新撰犬筑波集』の撰者と伝えられる山崎宗鑑が、次の荒木田守武と並んで、後世俳諧の祖と目されることになりました。

 その守武は伊勢神宮の神官。古くから伊勢神宮は連歌の中心地の一つで、そこの神官の間では連歌が愛好されていました。守武もそこの神官として純正連歌の詠み手としても活躍しましたが、ある時思い立って数年がかりで、全て俳諧の句だけを千句詠み通したというのが「守武千句」(正式には「俳諧之連歌独吟千句」、別名「飛梅千句」)。守武の目論見通り面白い作品であるかどうか、問題はありますが、試みとしては確かに画期的でした。

 なお「千句」とか「万句」とかいうのは、連歌でも俳諧でもあくまでも百韻を基本としたもので、百韻10巻をまとめたものが「千句」、100巻まとめたものが「万句」です。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza15.htm 【講座15>『奥の細道』と歌仙】より

[資料編]**************************************************

  『奥の細道』と歌仙

 ○『奥の細道』発端

   月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

  舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者

  は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せる

  あり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、

  漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の

  破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞

  の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心

  を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、

  三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住め

  るかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、

    草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

  表八句を庵の柱に掛け置く。

 ○『奥の細道』須賀川の条

   須賀川の駅に等窮といふ者を尋ねて、四五日とどめら

  る。まづ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途

  の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸

  (はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

    風流の初めや奥の田植歌

  むげに越えんもさすがに」と語れば、脇・第三と続けて、

  三巻となしぬ。

 ○歌仙「風流の」の巻

 (初表)               作者 分類

 発句 風流の初めや奥の田植歌      翁 夏

 脇句  いちごを折つて我がまうけ草  等窮 夏

 第三 水せきて昼寝の石や直すらん   曽良 雑

 平句  びくに鰍の声生かすなり     翁 秋

 〃  一葉して月に益ヤクなき川柳     等 秋月定

 〃   雇ユヒに屋根葺く村ぞ秋なる    曽 秋

 (初裏)

 平句 賎の女メ が上総念仏に茶を汲みて  翁 雑

 〃   世の楽しやと涼む敷物      等 夏

 〃  ある時は蝉にも夢の入りぬらん   曽 夏

 〃   樟クスの小枝に恋を隔てて     翁 雑恋

 〃  恨みては嫁が畑の名も憎し     等 雑恋

 〃   霜降る山や白髪おもかげ     曽 冬

 〃  酒盛りは軍を送る関に来て     翁 雑

 〃   秋をしる身ともの読みし僧    等 秋月出

 〃  更くる夜の壁突き破る鹿の角    曽 秋

 〃   島のお伽の泣き臥せる月     翁 秋月

 〃  色々の祈りを花に篭りゐて     等 春花定

 〃   かなしき骨をつなぐ糸遊     曽 春

 (名残表)

 平句 山鳥の尾に置く年や迎ふらん    翁 春

 〃   芹掘るばかり清水つめたき    等 春

 〃  薪引くそり一筋の跡ありて     曽 冬

 〃   をのをの武士の冬篭る宿     翁 冬

 〃  筆とらぬ者ゆへ恋の世にあはず   等 雑恋

 〃   宮に召されし浮名恥づかし    曽 雑恋

 〃  手枕に細きかひなをさし入れて   翁 雑

 〃   何やら事の足らぬ七夕      等 秋

 〃  住み替へる宿の柱の月を見よ    曽 秋月

 〃   薄あからむ六条が髪       翁 秋

 〃  切り樒枝うるささに撰り残し    等 雑月定

 〃   深山つぐみの声ぞ時雨るる    曽 冬

 (名残裏)

 平句 さびしさや湯守も寒くなるままに  翁 冬

 〃   殺生石の下走る水        等 雑

 〃  花遠き馬に遊行を導きて      曽 春花

 〃   酒のまよひのさむる春風     翁 春

 〃  六十の後こそ人の正月ムツキ なれ   等 春花定

 挙句  蚕飼コガヒする屋に小袖重なる   曽 春

      元禄二年卯月廿三日

[解説編]**************************************************

 前回資料には「俳諧の発生と展開」と題しながら、『竹馬狂吟集』『新撰犬筑波集』『守武千句』の簡単な解説だけでその後の展開に触れませんでしたが、これは去年の公開講座でもほとんど触れられなかったところですので悪しからず。時間があっても、要するに近世に入って貞門派→談林派→蕉風という展開があったことをなぞるだけの予定でした。

 が今回はなぞっておきますか。

 ええ近世に入って世の中が落ち着いて来ますと、教育が普及して識字率が徐々にアップ。それまでは文学とは縁がなかった町人・農民の間にも文学に関わろうとする欲求が生まれて来ました。

 その欲求にまず答えたのが松永貞徳という連歌師。貞徳は自分の本領をあくまでも正統連歌にあると考えていましたが、初心者を連歌に導くためには初めから優美な純正連歌など無理な話。そこで連歌に入る階梯として俳諧に目を付け、弟子達を指導した訳です。後に俳諧として生温いと批判されるようになりますが、この人が俳諧人口を増やした功績は大きい。

 で貞徳一門の微温的俳諧にあきたらず、俗言を大幅に取り込んで自由奔放の俳風を生み出し、短期間ではあったけれども一世を風靡したのが西山宗因を盟主と仰ぐ談林派。その弟子の中で特に著名なのが井原西鶴でした。

 この人の俳諧はみんなで集まって座を楽しむのではなく、大向こうの受けを狙うパフォーマンス俳諧。愛妻の死を惜しんだ記念興行で一日一昼夜、すなわち24時間のうちに1000句を詠んで以来矢数俳諧と言ってスピードを競う連句の第一人者となり、数多(だったかどうかは不明)の挑戦者を退け、ついには多くの聴衆の面前で一日一昼夜2万3千500句独吟という後にも先にもありえない大記録を達成してしまいました。

 しかし本来俳諧は、或いは連歌・連句というものは、複数の人間が座に集まって詩心の交響を楽しむのがその本質。一人で大向こうの受けを狙う西鶴は、やがて小説の世界で日本初のベストセラー作家にはなっても、俳諧の世界の第一人者とはなれなかった。

 この西鶴を「西鶴が浅ましく下れる姿」と批判して、貞門とも談林とも違う新風を打ち立て、近世俳諧の第一人者になったのが松尾芭蕉というわけでした。

 でここには、『奥の細道』から連句に進みやすい部分を二ヵ所抜き出し、そのうち須賀川の条で話題にされている等窮邸での歌仙「風流の」の巻を例示しました。これは『連句への招待』(和泉書院)でも例示されているもので、「分類」の欄は同書を参照しました。季と雑は説明するまでもないと思いますが、そのほか恋と月花の定座・出所も表示しました。

 さて芭蕉の奥の細道の旅は元禄2年(1689)。去年はちょうど300年目(元禄2年を1年目と数えれば、正確には一昨年が300年目なのでしょうが)ということで東北各地では記念行事が、また出版界でも関係書の出版が相次ぎました。

 300年経って今なお東北諸地方の振興や出版界の売り上げに貢献出来るほど芭蕉の人気は根強いわけですが、現在における芭蕉の評価は主に今言うところの俳句、また『奥の細道』を始めとするいくつかの紀行文に負う所が大きい。

 しかし『奥の細道』に散りばめられたいわゆる「俳句」はあくまでも近代以後の呼称で、芭蕉の時代には「発句」だったのだし、芭蕉自身はその「発句」よりも俳諧こそ「老翁が骨髄」と言っていたという。芭蕉を正当に評価するためにはその俳諧、すなわち連句に注目する必要があります。

 『奥の細道』に散りばめられたいわゆる「俳句」は、少なくとも現代の俳人が旅に出て俳句を詠むのとはかなり違った意識で詠まれていたはず。それは『奥の細道』を少し注意深く読めばすぐに気付くことです。

 たとえば「月日は百代の過客にして」と始まるあの有名な冒頭部分、出発に先立って深川の芭蕉庵を引き払い門人杉風サンプウ の別荘に移ったというところに、

    草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

という句がありますが、その後を「表八句を庵の柱に掛け置く」と締め括っています。

 「表八句」とは百韻連歌を書く懐紙四枚のうちの最初の一枚、初折の表に八句書いたところから名付けられたもの。この時実際に八句詠んだのかどうかはわかりませんが、とにかく芭蕉としては、発句だけを詠んだのではない、少なくともこの句を発句として巻いて行く八句の最初の句としてこの句は詠んだのだと主張しているわけです。

 次の須賀川の条はもっと明白で、芭蕉を迎えた等窮に「白河の関いかに越えつるや」と問われた芭蕉は、その答えの中で

    風流の初めや奥の田植歌

という句を詠み、それを発句として三巻の歌仙を巻いたと述べています。この時実際に三巻詠んだのかどうか、本当は一巻だけだったようですが、その一巻は次に引いたように、丸ごと歌仙として残されています。

 『奥の細道』に散りばめられた発句の全てが、このように実際に巻かれた歌仙の発句として使われたわけではないのでしょうが、それでもこのほかにもいくつかの発句が歌仙とともに残されています。発句しか残っていないものも、機会があれば歌仙の発句として使わ

れる可能性のあるものとして詠まれたのだろうと考えられるのです。

 発句の近代以降の俳句との違いは、俳句が脇句を予想しない、時には読者すら予想しない孤立した一編の詩であるのに対して、発句は常に脇を予想する、要するに誰かの応答を期待して詠まれたというところで、当然のことながらその表現は他者によって理解可能なものでなければなりませんでした。今なお芭蕉の句が口ずさまれ、土地起こしの起爆剤として利用されているのも、発句の持っていたそういう性格によるもの、などと言ったら勿論言い過ぎですが。

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 以下「風流の」の巻を利用して連句の巻き方を解説して行くことになるのですが、長くなるので次回。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza16.htm 【講座16>連句のルール(1)懐紙式】 より

 一通り連歌から俳諧の歴史を辿ったので、次に連句のルールを解説することになりますが、これまでのように資料編と解説編を分けるというのが難しいので、ここからは資料を折り込みつつ説明するということになります。なお「資料」というのは去年私が公開講座で使った資料という意味です。

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 まず連歌も俳諧も懐紙カイシ というものに書きます。実物を見たことは余りないので懐紙そのものについて詳しい説明は出来ませんが、とにかくそれを百韻では4枚、歌仙では2枚使います。全て半分に折って、折り目を下にして、表に出た部分に句を書いて行くことになります。

 そうすると1枚に二つの面が出来ることになり、それぞれ表・裏ということになります。各懐紙の裏表に何句ずつ書くかをまとめたのが次の表。

懐   紙       初 折    二の折     三の折    名残折

名  称\句数     表 裏     表 裏     表 裏      表 裏

百韻\100     8 14   14 14   14 14    14 8

歌仙\36       6 12                  12 6

 連句の形式にはほかにも44句の世吉ヨヨシ とか、64句の易とか色々ありますが、連歌の時代は百韻、俳諧の時代は歌仙が主流で、それらが時間の関係で完結出来ない時に、百韻の半分の五十韻、歌仙の半分の半歌仙というのが、これは今でも使われることがあります。

 また歌仙の時代になっても百韻時代の習慣が残り、最初の八句を「表八句」と呼んだことは前回の『奥の細道』に出て来ましたね。あと発句・脇句・第三の三句だけで終わらせてしまう「三つ物ミツモノ」というのも、年初の歳旦帖というのでよく使われていたそうです。もっともその二つはあくまでも完結しない形ですから、最後が挙句になりません。

 以上の説明のうち「懐紙」という紙についてですが、今「懐紙」というとお茶をやってる人なんかが使うものがあります。文字通りのふところ紙で、着物の懐にしのばせておいて、お茶受けのお菓子なんかを載せるやつですね。まあ和紙で出来たティッシュペーパーと考えればよろしい。薄っぺらい紙です。

 しかしそんな薄い紙に墨で書いたら裏何枚分かに裏写りするに決ってまして、連句で使う懐紙はもっとずっと大きくて厚い紙です。今紙屋さんに行っても知りませんから、大きくて少し厚手、といって色紙みたいに厚いと折れませんからその辺は考慮して、適当な厚さの和紙を買って来て使うしかないのだと思います。

 江戸時代以前に使われていたのがどんな紙だったか、学生時代には触ったこともあったのですが、最近は写真でしか見ない。昔もうちょっと勉強しておけばよかったと反省していますが、まあ別に和紙を使わなくてもいいでしょうし、パソ通連句だったら紙はディスプレイですから、紙質にこだわるまでもない。

 次に紙の数え方として、今普通に使われるページではなく、1枚を基準にした数え方をするということについてですが、これは江戸時代以前の日本ではそれが当たり前でした。連句でなくても、本の中のあるページ数を指定する時は、何枚目の裏とか表とか言ったの

ですね。いつからページを使うようになったのか、まだ調べてません。

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 今回は短いですがここまで。次が長いですから。