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暮らしの道場

“破れる” 美しさ

2021.01.12 16:26

ダンスや演奏、パフォーマンスの映像を観ていて、

“卓越した技術 = 感動” ではないことを、あらためて感じる。




容姿も技術も演技・表現力も抜群に素晴らしく、

非の打ち所がないと

惚れ惚れするようなダンスを観た後に


まだそこまでの完全さには至っていない、

伸び代がある人のダンスを観た。

(それでもすでに、プロ級の腕前なのだけど…。)



私は、後者の方に

前者以上の感動を覚えた。



それは


そのダンスに、自分の全てを掛けて、

さらけだして、超えていこうとするような

“破れるような美しさ” を見たから。



完全に磨かれた球体が、返す光よりも

未だ断面が残っているからこそ、光の反射が鋭く射抜いてくるような


未完成だからこその、輝きが

心を打った。





未熟であることの素晴らしさを

いま 初めて感じられたような気がする。





わたしは、“道” という言葉をよく心に思う。

“武道” という道についても、人生についても。


それは、“結果” や “完全性” を急ぐ気持ちの裏返しである。

そういう自分だからこそ、

永遠に “過程” のままである、“道” という在り方を、知りたかった。



「自分の未熟さが許せない」

と、どれほど思ってきただろう。

表現者としても、人間性においても。


いまは少しずつ、受け入れられるようになってきた方で

昔は、もっと強烈だった。



『人は、いつまで経っても未熟なのだから

その時の精一杯であれば良い。

それが魅力であり、輝きなんだよ』


それこそ、谷代師範の教えでもあるのに

“完全でなければ恥だ” という観念を、うっすらと、まだ拭えずにいた。



それは結局のところ

“他人から見て自分がどう見えるか”、

認められるか?恥ずかしくないか?

で己を厳しくジャッジし、

比較・優劣を通して自分をはかり、

“ありのままの自分” を突き放していた

苦しさ、悲しさだったと思う。




未熟な今でも、美しかった。

未熟だからこそ、美しかった。





芸術を観る時


どこから見てもスムーズで美しいダンスよりも

ミスタッチのないピアノ演奏よりも

素早く息の合ったアクションパフォーマンスを見せられることよりも



“人間の、今、咲く姿”


その瞬間に、心震える。

生々しい、“真実” に触れた心地がするから。




だから

芸術は生命そのものだ。







『“ナイス” な芝居をするな。

荒削りでタッチング(魂を直接 鷲掴みにされるような演技)で在れ』


昔、わたしの演劇の師が、ずっと伝えていた言葉である。


「お上手ですね」と言われるような芸術、

それが何だ?というわけだ。



キレイに上手にまとめて見せることよりも、

タッチングであることの方が、怖い。


それは

等身大の、ありのままの

いまこの瞬間の自分を

さらけ出して立つことだから。




そして

『手の届かないところに、手を伸ばせ』


これもまた、師から教わった言葉。




技術力と感動は

イコールではない、けれど


技術を疎かにし、精神論のみで良しとしているならば

それは論理に包んで実態を隠し、安全圏にいるだけであって


輝きは、生まれない。






芸術は

超えてゆくから 美しいんだな