Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

蛙はなぜ水に飛び込んだのでしょう?

2018.01.13 14:44

https://ameblo.jp/teyandeiberaboume/entry-12020673449.html  【古池に蛙は飛び込んだ】 より

先月、新幹線で名古屋に行くので、本でも持って行こうと本屋に立ち寄った。学生時代、一人旅には、缶入りのピースと文庫本一冊が定番だった。

表題のタイトルに惹かれて買い求めたのは「古池に蛙は飛び込んだか」(中公文庫)である。 

昔この有名な芭蕉の句を詠んだ時、心に触れるものがある一方で、字面を見れば蛙が古池に飛び込んだ、いうことで、それでどうした!という思いもした。

著者の意見は、当時のこの俳句が出来た経緯をみれば、古池は実在しない、芭蕉の心象風景だという。

先に「蛙飛び込む水の音」が出来、弟子が「山吹や」と言ったのを否定し「古池や」にしたらしい。それまで蛙は鳴き声を詠うものとされていたのを、飛び込む音、にした。

それに対し、蛙にはつきものの山吹を上五にしようという弟子の勧めは、伝統を皮肉るものである。芭蕉はそれを否定し、さらに飛躍した「古池や」としたという。

この場合、「古池に」ではなく、「古池や」と切れ字にしたのが解釈上重要だということらしい。切っているのだから、上五は中、下と別物ということである。

この本を読んで驚くのは、この一句を巡って様々な解釈があること、中には古池を探し回った人もいるらしいこと、飛び込んだ蛙は何匹かまで議論の対象になっていることなどである。(当時芭蕉が住んでいた周辺には、蛙がうじゃうじゃいて、それこそポチャン、ポチャンと飛び込んでいたらしい)まことに俳句の世界は難しい。

著者は、この解釈で、芭蕉の他の句もすべて説明しているので、これ以上紹介することはない。しかし、心象風景であれ何であれ、やはり古池に蛙は飛び込んだのだと私は思う。(当然のことだが、蛙は一匹である。)そうでなければ、なぜ「古池や」としたかがわからない。

蛙が飛び込んでポチャッと音がした、その静けさには古池が相応しいと思うのである。


蛙はなぜ水に飛び込んだのでしょう?

「古池や蛙飛び込む水の音」が禅問答の答えを織り込んだ句という解釈を踏襲しながら考察すると 水は羊水を暗示しているのではないでしょうか?  水のシンボリズムは愛ですし。

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11589331  【父母未生以前の本来の面目】

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11587787  【古池・カエル・水の音】

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11582138   【かわず飛び込む水の音】


https://mbp-japan.com/hyogo/officekishii/column/2864480/ 【シンボリズムの森 「水-1」】 より。

「水」について書き始めて、思わず「しまった!」。なぜなら「水」なんてものは、本当にさまざまな象徴的な意味を含んでいるので、そう簡単にまとめられるものではないのです。

そこで、とりあえず今回は「水-1」として2回ぐらいで何とかまとめてみます。

さてこの季節「水」と言えば「雨」。

梅雨に入ると気持ち的にはどんよりしますが、しかし草花にとっては「恵みの雨」。

雨空の下、ちょっと見ない間にぐんぐん新芽が伸びて茂ってくるのもこの季節です。

そう考えると「水」の一つの意味は「生命力」。

植物だけでなく人間も、水なしには生きていけません。

身体自体に含まれる分量は成人ならなんと60%とか。70kgの体重のあなたなら42kg(リットル)が水だとか。もっとも私のように「水ぶくれした」身体の場合、もっと多いかもしれませんが(-_-;)。

形容詞としても「みずみずしい」とか「潤いがある」というような表現は新鮮な生命を感じさせますね。女性が乳液や化粧水で肌の保湿力を高めようとするのも納得です。

さらにそういう生命力を与える役割として、女性的・母親的なイメージもあります。植物に水をあげる時「早く大きくなってね」という気持ちであげますが、そういう時「水」は「母性的な愛情」とも言えます。

ただし、「母性・父性」となるとあくまでも「相手を成長させるための愛情」でなければいけません。植物でも子供でも「相手が必要とする量」の愛情を「相手が必要とするタイミング」で提供するのが親の役目。ただ一方的な愛情や気まぐれな猫っ可愛がりでは、植物を枯らしたりに「根腐れ」を起こさせることも有ります。

相手を十分理解して、相手の成長ために「必要な量」と「必要とするタイミング」で提供する力量が親の必須条件かもしれません。

「水」のシンボリズムはまだまだ深いですよ、次回へ続く。


https://mbp-japan.com/hyogo/officekishii/column/2864492/ 【シンボリズムの森「水ー2」】よりグ

しまった、厄介なものを取り上げてしまった、と思いつつ、「水」の第2回目。

「水」なんて普遍的なものは、たくさんの象徴的な意味があって、なかなか簡単にまとめきれないのですが、その中で前回は「生命力としての水」と「愛情としての水」を取り上げました。

今回はまず「浄化としての水」。

これは思い当たりますよね、日々の洗い物・トイレから入浴まで「汚れを落とす」という時に水を使うのはまずファースト・チョイスでしょう。

それをもう少し膨らませると、宗教的な意味でも「みそぎとしての水」や「ガンジス川での沐浴儀式」「キリスト教の聖水の儀式」まで様々に「穢(けが)れをはらう」目的で水が使われますね。もっとも「ガンジス川の沐浴儀式」では、インド政府がガンジス川の水質調査をしたところ、場所によっては基準値の23倍の糞便性大腸菌が検出されたとか。宗教的な意味と衛生的な現実とは必ずしも一致していないので、あくまでも精神的な浄化でしょうね。

では「けがれ」と何か?と考えていくと、これまたいろいろと頭に浮かびますがなんといってもやはり「死」が一番の穢れでしょう。ですが同時に「水」に飲み込まれると人間は死んでしまうのですから、「死」と「生」という両義的な意味もあるし、場合によっては「死と再生」という意味合いも含まれていると思われます。

というわけで、飲み水からみぞぎの水、宗教の聖水まで、様々な「水」を見てきましたが、ところがどっこい「水」はもっともっと意味があるのです。

というわけで、2回目で終わるはずが、なんと次回は「水ー3」!

しつこくて、すいません m(__)m


https://mbp-japan.com/hyogo/officekishii/column/2864544/ 【シンボリズムの森 「水ー3」】より

さて「水」のシンボリズムについてつらつら考えてきたら、なんと3回目になってしまいました。

それだけ「水」と言うものは私達にとって身近であり、欠かせないものだったということもできるでしょう。

今回取り上げるのは、水によって表現される心理的な意味です。

例えば、海を思い浮べてください。大海原にあなたは漕ぎ出ているとします。どこまでも広がる水平面は見渡すことはできますが、足元に広がる深海の風景は仮に船の上から水面下を見通そうとしてもほとんど何も見えません。ところが一度海の中にもぐってみれば、ビックリ!こんなに豊かな魚や生き物がいたのかと思うぐらい、多種多様な生き物がそこにはいるのです。

つまり「意識的に見ようとしても見えないが、見えないからと言って何も存在しないわけではない。むしろ表面からは見えない部分に驚くほどの多種多様な生命力が溢れている」のです。これが「水」の大きな象徴的意味でもあります。これを心理学の言葉で言えば「無意識」と言うことになります。

つまり「明るく光の当たるところでは意識できない」部分なのです。

では無意識とは具体的に私たちにとってどういうものか?わかりやすいのは「意識的にコントロールできないもの」という定義です。「意識的にコントロールできないもの?」と言えば、要するに「頭でどうこうできないもの=精神的なものの対極」のもの、簡単に言えば身体に由来するような感情や欲求などのエネルギーだと思います。つまりものすごく簡単に言えば「水」=「無意識」=感情的なエネルギーと言ってもいいかもしれません。

これが「水」のもう一つの大きなシンボリズム、つまり感情の発露を「水」に例えられるのです。悲しみの涙は言うまでもなく、「みずみずしく、生き生きとした」とか「しめっぽい」とか「(快感に)溺れる」とか「(怒りや恐怖などの感情に)飲み込まれる」とか、一度あふれ出すとコントロールできないぐらいのエネルギーを持っているけれど、上手く付き合うことで私たちの生を豊かにいろどってくれるもの。その水の中には、多種多様な内容物が含まれていて、それによって乾いた生をいやしてくれる。

確か「もののけ姫」の中の1シーンに、森の中にひっそりとたたずんだ泉がありました。傷ついた動物や人間がその泉の水に浸ることで傷が癒されていく「再生」の泉。その泉はきっと地下深くに流れる地下水がこんこんと湧き出ることによって出来上がっているのでしょう。

胎児が母親の羊水に守られて生まれてくるように、こういう母なる大地に守られた「生命力」や「愛情や癒し」や「浄化」や「生を豊かに彩る無意識の感情の力」が、私たちを育てる「水」のもつシンボリズムなのだと私は思っています。