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Okinawa 沖縄 #2 Day 71 (19/01/21) 旧高嶺村 (4) Kuniyoshi Hamlet 国吉集落

2021.01.20 11:25

旧高嶺村 国吉集落 (くによし、クニシ)

今日は旧高嶺村の5つの字の内4番目の国吉集落を訪れる。


旧高嶺村 国吉集落 (くによし、クニシ)

字国吉は糸満市のほぼ中央部、南山城跡の南西側のカルスト地形が発達する石灰岩台地に位置する東西に細長い字で、集落は丘の南斜面に立地する。北は字照屋、字大里に接し、東は字新垣、南から西にかけては字真壁、字真栄里に接している。主な産業はサトウキビ栽培を主体とする農村集落。

人口グラフを見ると少し気の毒な推移をしているように思える。1903年で506人であったのが現在では522人と100年前と変わらない。1996年には安里門原に建設された新垣住宅への入居によるのだがその後すぐ2001年に人口集計区を国吉から新垣にしたために元に戻ってしまった。2004年に再度増加したのだが、この理由についてはわからなかった。おそらくどこかに新しい住宅街が造られたのだろう。高嶺団地が集落の北、丘陵地の北斜面にあったので、そこへの入居が要因かもしれない。

しかし、その後は人口減少が続いている。

字国吉は旧高嶺村では常に人口の少ない地区だ。

集落内の残っている沖縄の赤瓦の民家がいくつもある。

ただ、空き家や空き地が目立っている。多くの空き地には神屋が建っている。想像するに、この場所に門中本家があったのだろうが、家が絶えたのか、他の地域に移っていったのか、村かその門中の分家が神屋を維持しているのか、新たに建てたのかだろう。


糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編に記載されている文化財


国吉集落文化財訪問ログ


村屋 (国吉公民館)

現在の公民館は1993年 (平成5年) に建設されたもので、正式には国吉構造改善センター。公民館の前は広場になっており、以前はタキナジョーと呼ばれていた広場だった。


かつての村屋 (ムラヤー) は現在の公民館の北西隣、お宮の前にあった。


お宮 (上之殿 ウィーントゥン) 

村屋の近く、集落の後方の丘陸上にある拝所で、かってここは野呂殿内 (ヌンドウンチ)であったという。現在はお宮と呼ばれるが、上之殿 (ウィーントゥン) とも呼ばれる。綱引き等のムラの重要な行事の時に拝まれ、戦前まではここにあった小さな建物の前で旧暦6月25日に踊りが披露された。現在のお宮は、コンクリート製の石段を上った所の正面奥にコンクリート造りのが建ち、その中には3個の石 (ウミチムン) が3組あり、それそれの前には石の香炉が置かれている。ムラが拝む香炉は向かって右の2つで、左側の香炉は個人のものという。この国吉集落は古琉球の集落の形態で造られている。丘陵上部に拝所、グスクがあり、その前に広がるなだらかな丘陵斜面に南向きに集落が形成されている。


宇江 (ウィー) のトウンチャー

お宮の東にあるコンクリート造りの祠で、川端 (カーバタ) 腹の一番元 (ムトゥ = 本家) といわれる屋号 宇江 (ウィー) に関係ある拝所という。ウマチーに川端腹が拝んでいる。


上之井 (ウィーンカー)

お宮の南西側にある半円形状の石囲いのカーで、現在も水をたたえ、水中にはアカワター (シリケンイモリ) が生息しているそうだが、今日は見つからなかった。


北谷後方の拝所

集落後方の丘上、お宮から雑木林に入ると、元々は屋号 北谷 (チャタン) の屋敷があった場所にある拝所がある。コンクリート造りの祠の中に石の香炉が2つある。西リのウタキとも、西リのウタキへのウトウーシ (遙拝所) ともいわれるが詳細は不明。祠の西隣にはガマ跡があった。


簡易水道タンク跡北側の殿 (トゥヌ)

お宮の裏、集落後方の丘頂上付近に簡易水道タンクがあったそうだ。その跡の北の平坦地に数個の自然石を組み合わせて造った祠があると書かれていた。ウマチー等で国吉の門中の多くが拝んでおり、川端腹では単に殿 (トゥヌ) と呼んでいるのだが、探すと資料にある写真と同じものは見当たらない。資料に載っている写真は30年ほど前のものなので変わってしまったのかもしれない。これではないのかもしれないが、自然石が並べられその前に香炉の代用のブロックが置かれているので、何らかの拝所なのだろう。

この近くに資料では掲載されていない拝所があった。コンクリートで祠が造られて、その中に幾つかの自然石が置かれている。火の神 (ヒヌカン) もある。ひょっとして、見つからなかった殿 (トゥン) がこれなのかもしれない。


前門裏手の拝所

屋号 前門 (メージョー) の屋敷の裏手にある拝所で、コンクリート製の祠が設けられている。地頭火の神ともいわれるが、詳細は不明。


前門之井 (メージョーヌカー)

屋号 前門の屋敷の門の方に移動すると、東側角に隣接している場所に井戸跡がある。国吉の多くの門中にとってのンブガー (産井泉) で、子どもが生まれるとこのカーで額にミジナリー (水撫で) をした。また、人が亡くなったときには、このカーに死亡を報告するクイサギをいう拝みを行う。


三穂田 (ミフダ)

公民館之南側、川端腹の分家の屋号 徳川端の西側に隣接する上地を三穂田 (ミフダ) という。沖縄本島における稲作の発祥地とされる聖地である南城市玉城百名の受水走水からを持ってきて植えた所と伝わる。五月ウマチーではここから東の方角に向かい、受水走水を遙拝する。


国吉グスク前方のカー

集落の東の端に進むと、国吉グスクがある茂みへの入り口があり、その付近のクルチ (リュウキュウコクタン) の木の根本付近がカー跡がある.。カーの名称はついておらず、不詳とのこと。


ここから国吉グスクへの道がある。


国吉グスク

集落後方標高70mの丘上にある国吉グスクは、南山城の防御砦的役割を持っていた。

嘉手志ガーと金屛風の交換の時にこれに反対し、時の南山王の他魯毎に忠告したために閉門を言い渡された国吉大屋子の居城。国吉大屋子は他魯毎と異母兄弟で汪応祖と国吉の根屋玉城家の娘との間に生まれたと伝わる。

金屏風とカデシ川の交換を終えて、得意満顔になって他魯毎王(たるみーおう)に報告する与座大主(よざうふぬし)に、「この交換は将来禍根を残す事になる」と大屋久は忠告したが、大主はいっこうに聞き入れようとはせずに、逆に謹慎を申し付けた。与座大主にお供して、金屏風を受け取りに行ったときの尚巴志の容貌、堂々とした態度と見事なまでの雄弁、どれを見ても将来大きな事を成す人に思えた大屋久は「交換された金屏風は尚巴志に返し、カデシ川を取り戻さなければ、後日憂いを招くことがあるだろう、そして尚巴志は地頭も按司も望まないというけれど、南山を打ち滅ぼさんと画策しているのは必定であり、ここで尚巴志に心を許してしまえば、南山はおろか三山までも滅ぼされてしまう」と忠告したが、聞き入れようとはしなかった。ことは大屋久の予言したとおりになり、南山城は尚巴志によって滅ぼされてしまう。国吉大屋子の子孫の国吉比屋は中城グスクが落城した際に城主護佐丸の子の盛親をかくまい養育したとの話もある。


まず集落から国吉グスクへ向かう入り口を入ると井戸跡がある。

先に進むと広場に出る。拝所や古墓、井戸跡がある。この場所も国吉グスクの一部であっただろう。説明書ではこの上にあるニの郭とその上部にある一の郭之構成と書かれているのだが、ここは三の郭のような感じがする。

この三の郭からは上に行く石の階段と脇に通じる道がある。まずはその脇道の方に行ってみる。行き止まりのところに拝所と井戸跡があった。この拝所についての説明は見当たらなかった。

三の郭に戻り、石の階段を上るとグスク虎口がある。はっきりと残っている。虎口には拝所がある。

虎口を入ると平坦地があってニの郭になる。かつてはこのニの郭を囲んでいたのだろう石垣の一部が残っている。

ニの郭にも拝所と井戸跡らしきものもある。

ニの郭の虎口左手に約3mの石垣上面平坦地が一の郭となっている。頂上付近にも石積みが見られる。

グスク頂上からは東に南山城、北に照屋グスク、大城森グスク、南に真壁グスク、西に真栄里グスクが臨むことができるとなっていたので、一の郭にある岩場をよじ登り最上部からそのグスク群を見たのだが、木々に邪魔され良くは見えなかった。残念。


ー番殿 (トウン)

国吉グスクがある丘陵の東の端にー番殿 (トウン)があり、ハクルンとも呼ばれる。雑木林の中に自然石が一つあり、その前に炉が置かれている。ティラムヌメー (9月吉日に餅を供えてティラとその側にあるガマを拝む) をはじめほとんどのムラ行事で拝まれている。どうもここからもグスクに通じるような道があるので、進んでみたのだが、かなり進んだところで道はなくなり、引き返すわけにもいかず、グスクがある場所を目指し、深い雑木林の中を強引に進む。何とか雑木林から脱出できたのだが、そこは先ほどのグスク入り口だった。手や顔は棘のある木々で切り傷ができヒリヒリする。


ウチャタイガー

ー番殿 (トウン) から坂道を上がると、もう一度、国吉集落に入る。その集落の東の端のサトウキビ畑の道路側にウチャタイガーと呼ぶ2つのカー跡がある。写真上の西側のウチャタイガーにはカー跡を示す円状の石列があり、その約50m東にもう1つの同名のカー跡 (写真下) には、目印として方形の石が置かれている。


石獅子 (イシジーサー)

集落の東外れにあり、ウチャタイガーから農道を数十メートル南に進んだところにコミカルな石獅子がある。新しい石獅子だ。この石獅子は2000年 (平成12年) に再建されたもの。破壊される前の写真が見当たらなかったのだが、このような顔だったのだろうか?元のイシジーサーは沖縄戦で破壊されてしまった。その残骸が傍らに残されている。ムラではティラムヌメーや三月御願、六月御願に拝んでいる。(三月御願、六月御願ともに、皿に盛った餅とビンシーを供えて、お宮やアジシー等、字内の数か所を巡拝する)


大川端 (ウフカーバタ) 門中墓

石獅子 (イシジーサー) がある場所から、何か大きな石碑が見えたので来てみた。大川端門中墓と書かれている。大川端 (ウフカーバタ) 門中は川端腹の分家で、先ほど訪れた一番元 (ムートゥ) の宇江 (ウィー) に次いで、二番元 (ムートゥ) という名家だ。さすがに立派な亀甲墓になっている。


仲伊敷之後之井 (ナカイシキヌクシンカー)

集落の東側、仲伊敷の屋敷裏側の道路沿いにあるセメントで囲われたカー跡。仲伊敷の後ろにあるので、仲伊敷之後之井 (ナカイシキヌクシンカー) と呼ばれている。


中之殿内 (ナカヌンドゥンチ)

集落内の文化財を集落内の北から南に十ている何本もの路地を東西に走りながら巡る。集落のほぼ中央にあったナカグムイの東にコンクリート製の祠が建つ拝所がある。下のノロ殿、または下殿内とも呼ばれていた。


イージャージョーヌカー

中之殿内 (ナカヌンドゥンチ) から、1ブロック東側にイージャージョーと呼ばれる広場にあるガジュマルの根元にカー跡が残っている。イージャージョーヌカーと呼ばれ、加ン座地 (カンザーチ) 腹や与座 (ユザ) 腹のンブガーとされている。旧正月のカー拝み等で御願されている。


我那覇のアサギ

丘陵に向かって北側に我那覇門中の神屋がある。我那覇は国吉の草分け筋の家とされ、国元 (クニムトゥ) ともいわれる。我那覇の屋敷内に火の神と香炉を置いた建物があり、アサギと呼んでいる。ムラや門中の祭祀で拝む。我那覇門中は国吉城主であった国吉ヌ比屋につながる家筋ともいわれ、南山王の汪応祖と我那覇の娘の間に生まれた中村掟親雲上 (ウッチペーチン) が国吉ヌ比屋との伝承もある。


井戸跡

我那覇のアサギのすぐ南側のところに井戸跡があり、水が溜まっており、周りは金網が張られている。資料には掲載されてはいないが、かなり大きな井戸だ。


我那覇門中の墓

我那覇のアサギの北側すぐのところ丘陵部分に、我那覇門中の亀甲墓がある。


加ン座井 (カンジャーガー)

我那覇門中の墓から道を下る。屋号 加ン座地 (カンザーチ) の北に、カーの跡を示す石囲いがある。鍛冶を営んでいた加ン座地の祖先が使っていたカーと伝えられる。同名のカーがこのカーの内側にもあり、ふたつのカーは水脈が繋がっていたという。


大工腹門中根屋

加ン座井 (カンジャーガー) の近くに神屋があった。資料では掲載されていないのだが、神屋の壁に説明版がある。大工腹門中の根屋だそうだ。この大工腹門中は17世紀後半に九州豊後から移住してきた人が始めた門中だそうだ。沖縄には平安時代ごろから日本から移り住んだという伝承が数多く残っている。平安時代後期は、源為朝が逃れてきたという伝説や壇ノ浦の戦いで敗れた平家が九州、奄美大島、そして沖縄に落ち延びてきたという伝承がある。


加ン座地の殿 (カンザーチヌトゥヌ)

集落の西の外れまで進む。丘陵を背にして加ン座地の殿 (トゥヌ)と呼ばれる所がある。3畳ほどの広さの場所で奥に香炉が3つ置かれている。加ン座地 (カンザーチ) 腹はウマチーの際に向かって右側の古そうな香炉を拝んでいる。


北谷 (チャタン) 腹の墓

加ン座地の殿 (カンザーチヌトゥヌ) のすぐ側に北谷 (チャタン) 腹の墓がある。お宮近くに屋敷あった北谷 (チャタン) 腹の墓だ。この墓は比較的新しく、1970年 (昭和45年) に造られたmの。それ以前は我那覇腹の墓を共有していたそうだ。このように複数の腹が墓を共有している墓はいくつか見られる。


ヤマトゥンチュー墓

集落東側から少し離れたところに、ヤマトンチュー墓がある。資料にもインターネットでもこの墓に関しては情報がない。ヤマトンチューとは大和人で日本本土の人をこう呼んでおり、今でも使われている言葉で、時々「どこから来たの?ヤマトンチュ―?」と声をかけられる。先程ほどは備後出身のヤマトゥンチューの門中の根屋があったので、この地域には昔日本から移住してきた人がおりその人たちを葬ったのか?日本からの船が漂流し流れつき、その犠牲者を葬ったのか?


前道 (メーミチ)

ヤマトゥンチュー墓の前に通っている道路はかつての国吉集落の前道 (メーミチ) だった。前道 (メーミチ) なので集落の前、つまり集落の南に走る道で、ここを境に北側に集落が広がっていた。現在の道路は幅も広く、昔の面影はない。今度は東西に走るこの前道 (メーミチ) 沿いの文化財を探す。


大屋のアサギ

国吉集落の東側大屋は国吉の旧家で、嶽元 (タキムトゥ) ともいわれる。大屋の屋敷内にある神屋はアサギと呼ばれ、ムラや門中の祭で拝んでいる。


マーチューヌカー

前道 (メーミチ、県道250号) 沿いにヒラマーチューと呼ばれる広場がある。一時期はこの広場には産業倉庫が建っていた。はイージャージョーとともに集落の主要な広場であった。この広場の片隅にカー跡があり、円形のセメントの囲いと香炉が置かれている。


サータヤー

ヒラマーチューの東側には3つのサータヤーがあった場所。イリン (西の) マタ、ウィーン (上の) マタ、ナカン (中の) マタの三ヶ所だ。「マタ」の意味は調べたがわからなかった。集落の南側は今でもサトウキビ畑が広がっている。かつてはこのサトウキビを収穫してこのサーターヤーで搾り、黒糖に製品化し出荷していた。


国吉井 (クニシガー)

集落の南外側に広がっているサトウキビ畑の中には幾つかの井戸がある。まずはその一つ目。川田原の西端、集落から字真栄里に向かう通路に国吉井 (クニシガー) という共同井戸があり、イジュンガーとも呼ばれている。貯水池部分はコンクリートの屋根が葺かれ、常時水があふれ出ている。戦後の一時期まで、ムラの人々は天秤棒を担いでこのカーから飲み水を運んだという。カーは用途別に水飲み場、洗場、水浴び場、野菜洗い場等と区切られていた。入口左手側の屋根のある所が飲料水用であった。入口正面側の水は豆腐作りに利用されていたので、豆腐ガーと呼んでいる。


工ーガー

国吉井 (クニシガー) の南東側の川田原中央部を東西に流れる水路と並行してある農道脇の窪地にカーの跡がある。ここはかって藍染めをするのに利用されたカーであったので、エーガーという名が付いたとも伝わる。地図上ではこの辺にあるのだが、香炉があるのかどうかも分からず、井戸跡らしきものはこれしか見当たらなかった。


ウーワク (ワクガー)

工ーガーの近くにもう一つ井戸跡がある。川田原の中央部にある石囲いのカーで、国吉ガーの水源地でもあった。ワクガーともいう。濁ることのない水豊かなカーで、簡易水道の水源地としても利用された。


安里門原の殿 (トゥヌ) [未訪問]

字国吉の東の端が安里門原地区にあたるが、この安里門原のほぼ中央部に雑木林があり、この一帯は陶磁器などが発掘された国吉遺跡で、かつては安里村があった。その中に安里門原の殿 (トゥヌ) がある。自然石が置かれて、前門 (メージョー) 腹がウマチーで拝んでいる。沖縄戦ではこの一帯に日本軍が兵舎を設営して駐屯していた。この場所にも来たのだが、地図は非常にラフなものなので正確な場所はわからない、探すも結局は見当たらなかった。



前門 (メージョー) 腹の墓

安里門原の殿 (トゥヌ) から少し東に進んだところにある県営新垣団地西側に国吉集落の門中の一つの前門 (メージョー) 腹の亀甲墓がある。墓の右手奥に細長い墓がある。アジシーを移設したものだそうだ。この場所は以前は国吉の管轄の地だったのだが、新垣団地が国吉から新垣に移っている。


浄魂之塔

前門 (メージョー) 腹の墓のすぐそばに、沖縄戦の犠牲者の慰霊塔がある。陸軍第二十四師団麾下の歩兵第八十九連隊と第二十四工兵連隊並に協力して犠牲となった新垣地区の地元民や集落周辺や農地、山野で見つかった身元不明の遺骨を10,000余柱、新垣集落北側にあったイクサミチの壕に安置した。1957年 (昭和32年) に有志が周囲をコンクリートで囲い、これが「浄魂之塔」の前身となった。遺骨はその後火葬され識名の中央緒納骨所に移されたが、その一部を新垣に残し、1967年 (昭和42年)、南方同胞援護会の助成で沖縄県遺族連合会が集落西側の埋没壕近くに現在の浄魂之塔を建立し、納骨堂から分骨した遺骨を塔の中に納めた。沖縄戦では国吉住民441人中147人 (33%) が犠牲になっている。


ヒージャーガー

浄魂之塔から更に東に進み、字新垣との境界辺り、県営新垣団地の正面南側にヒージャーガーがある。かっては水豊かなカーであったという。周囲は雑木に覆われて足場が悪いため、最近では東側のウチャタイガーから遙拝することが多いという。この雑木林のある斜面のどこかにあるのだろう。確かに中に入っていくのは難しい。

今日から気温が上がり20度を超えている。湿気も少なく、非常に快い。しばらくこの機構が続くそうだ。一方、沖縄でも県独自の非常事態宣言がなされた。これで三度目だが前回、前々回では公共施設は閉鎖された。図書館の閉鎖されたので、今後資料に閲覧ができるかが少し気になる。閉鎖されれば、それなりにやることもあるので成り行き次第だ。


参考文献