芭蕉は後から「古池や」を足した
https://textview.jp/post/hobby/10044 【芭蕉は後から「古池や」を足した】 より
古池や蛙飛(かわずとび)こむ水のおと 芭蕉
「この句はふつう古池に蛙が飛びこんで水の音がしたと解釈されますが、ほんとうはそういう意味の句ではありません」。
そう語るのは、俳人の長谷川櫂(はせがわ・かい)氏。しかも、この句は「古池や」「蛙飛こむ水のおと」という順番でできたものではないという。では、この句はどのような意味をもつのか。長谷川氏に聞いた。
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古池の句の誕生のいきさつを門弟の支考(しこう)が書き残しています(『葛(くず)の松原』)。それによると、ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいました。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考えていましたが、やがて「古池や」と決めました。
つまりこの句は、何となく思われているように「古池や」「蛙飛こむ水のおと」の順番にできたのではありません。最初に「蛙飛こむ水のおと」ができて、あとから「古池や」をかぶせた。このうち最初にできた「蛙飛こむ水のおと」は、じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったものです。
一方、「古池」は現実の古池ではありません。なぜなら芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いただけで、蛙が水に飛びこむところは見ていないからです。見ていなければ、蛙の飛びこんだ水が古池かどうかわからない。
では「古池」はどこから来たのか。そこでもう一度、言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いて古池を思い浮べたということになります。「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。
つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水のおと)をきっかけにして心の世界(古池)が開けたという句なのです。つまり現実と心の世界という次元の異なるものの合わさった<現実+心>の句であるということになります。この異次元のものが一句に同居していることが、芭蕉の句に躍動感をもたらすことになります。
このことは芭蕉と俳句の双方に画期的な意義をもっていました。
仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れ芭蕉と禅問答を交わし、「蛙飛び込む水の音」と答えた芭蕉に 仏頂和尚は、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。 と記されています。
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/1c4153014b4ff3ba5cfbecdd06968876 【かわず飛び込む水の音】 より
上の記事には仏頂和尚の訪問が記されていません。それ故に「蛙飛こむ水のおと」は、「じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったものです。」という解釈が生じたのではないでしょうか? 悟りの句としての視点が抜け落ちていますね。
古池は禅問答への答え・「蛙飛こむ水のおと」にふさわしい心情風景として 芭蕉が加えた語ではないでしょうか
以下は悟境にリンクされた 同サイトの記事です、
https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/3a1210e71a7731286cb950fc6c17cd4b 【十牛図-5】
第三見牛
序(慈遠禅師)
声をたよりに躍り込んで、目についたその場で根源に出会う。
六つの感覚の一手一手が、行き違うことなく、日常の動きの一つ一つがズバリとそれを現してくる。水に含まれている塩分や絵の具の中の膠(にかわ)のようなものだ。目をかっと見開けば、まさしく他のものではない。
頌(廓庵禅師)
鶯は樹上に声を上げ続け、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。ほかならぬこの場所より、他に逃れようはないのであり、威風りんりんたる牛の角は、画にもかけないほどである。
第三図にして早くも絶対なるものを見てしまった。こんなに早く神を見ていいのか。
安心して下さい。神をちら見することを、禅では見性(けんしょう)というが、日本でも見性できた坊さんは数えるほどしかいないはず。全然簡単ではありません
鶯の声が聞こえ、春光は暖かく、 春風は穏やかで、岸の柳は青い。これほどありのままに、すべてのものを感じ取ることができれば、立派な牛の角ははっきりと見えすぎるほどである。
ここで感受性を深めていくことが、牛(仏、神、宇宙意識)を見るためには必要であることがわかる。
丹田禅の効果は、気力、生命力、意思力、不動心であり、血液の循環がよくなり、エーテル体を強靱なものにすることができる。丹田禅は、冥想法としては、感受性を高めるタイプの修行法ではないので、これだけでは、見性(牛をちらっと見ること)することは、まずないため、丹田禅に透徹することが必要となる。
牛(仏、神、宇宙意識)を見る手法というのは、必ずしも丹田禅である必要ではなく、只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも、ラーマクリシュナのようなバクティ・ヨーガ(神と一体であるという信愛に溶け込むタイプ)などいくらでもある。
中国の唐代に、禅と念仏を一所に修行する禅浄双修と呼ばれる修行法があったが、丹田禅でハラ(肝)を作った後、感受性を高めるためにマントラ禅をやるというそれなりに合理的な発案だったように思う。
しかし臨済義玄(臨済宗の始まりの坊さん)に象徴される、『絶対なるもの』から直接喝を食らわすというような手法が主流になったのは、その後の禅の正当性を守ったのではあるまいか。つまり禅は、牛を発見するだけのためのものではなかったのである。
「蛙飛こむ水のおと」にふさわしい心情風景の「水」は なぜ 池ではなく 古池なのでしょうか???
古から続く命の流れに飛び込むのであれば 古池が適切だと感じるのですが???