でこぼこデイズ!/ 小日向知子
知的障がい、精神障がいを持つ方と関わる仕事を始めて、20年が経った。そのうち3年間は、離脱している。近年の2年間は、息子たちの出産に伴う産休だが、15年ほど前の1年間は、とても働けるような状態ではなく、ひきこもっていた。いや、当時は「ひきこもり」というよりは、「ニート」という言葉を使っていたように記憶する。親に寄生して働かないで過ごす、社会的不適合者、みたいな意味合いだった。でも、この苦しい期間を経たおかげで、現在苦しくもがいている人に「実は、わたしにも昔こんなことがあってさ。でもなんとかなったよ」と話せる場面ができたし、何よりも自分はこの仕事が好きなんだと確信することができたので、本当によかったと思っている。まずは、そのときのことをちょっと書いてから、障がいがある人々との日々を書き始めたい。
大学を卒業し、地元に戻り市役所職員として体育施設(プール)で働いていた時、毎週遊びに来ていた知的障がい者施設の利用者さんとスタッフのユーモラスで親密な関係を見て、彼らともっと近くで一緒に過ごしたいと思ったのが、始まりだった。障害福祉の先進地である横浜に出向き、中途入社の面接を受けた。「あなたはここでどんなことをしたいと思いますか」と聞かれ、ただばか正直に「何ができるのかわかりませんが、まずは一緒に過ごし、彼らのことを知ることから始めたいです」と答えた。「それはとても素敵なことですよ、あなたにとっても彼らにとっても」と答え、快くこの世界に迎え入れてくれた理事長に出会えたことが、本当にラッキーだと思う。
そんな素敵なボスのもとで、しっかり心構えを叩きこまれ、知識と経験を積ませてもらいながら4年たったころ、同僚と結婚した。お金を貯めていつかふたりでグループホームを経営しようねなんて語り合っていたのも束の間、たったひとつのある秘密を知ってしまったことから関係性が急転し、傷つけあい修復できず、別れようにもこじれて別れられず、仕事を辞めて実家に逃げ戻った。情けなさと恥ずかしさで家族にも合わせる顔がなく、2階のかつての子ども部屋にそのまま引きこもった。そのうち身体も心も硬直し、昼夜逆転して、どうにも動けなくなった。医療も民間療法も、その時の私にはどうにも助けにならなかった。このまま、沼に足を救われたが最後、ずぶずぶとゆっくり深みに沈んでいくというイメージだけが日に日に増幅し、恐怖心しかなかった。そのことを誰かに表現することも、もちろんなかった。
ある夜中、玄関の引き戸が開く音がして、カーテンの隙間から庭を見下ろすと、同じく眠れない夜を過ごしていた父が、外に出てきていた。池のほとりに立って、やけに明るい月の光を浴び、咳き込みながら煙草に火をつけた。そして彼は、煙草を吸うと、煙ではなく、とてつもなく重く深いため息を吐いた。これでもかという量の息を吐き、そのままどんどんすぼんで、みるみるうちに小さくなって、暗くてぺらっとした影だけになってしまった。今にも風にふきとばされ、消えてしまいそうだった。その時、こんなことをしてちゃいけない、そろそろ外に出て自分で立たなくちゃと思った。どこで、どうやって立ちあがろうか。その時、彼らのことを、久しぶりに思い出した。
私はほぼ一文無しで、田舎なのに車も持っていなくて、髪の毛もバサバサで色気も若さもなく、自信なんてまるでなかった。ただ、今の自分が立ち上がるために、再び障がいがある方と一緒に過ごすことが必要だという直感が、根拠なくちょっとだけあった。そんな私の話をじっくり聞いてくれる、とある法人と出会った。人事担当者が、「まずはグループホームに2週間住み込んで職員として働けるか実習してみて、やっていけるようならそのまま採用するし、難しいようならそれはそれでなかったことにしてもいい、別の道を探しましょう」といってくれた。これは、後になって思えば、障がいを持つ方がグループホームに体験入居する時と、そのまま同じセリフである。
冬の初め、例年よりずっと早い初雪が降った夕方。自宅から1時間半ほど離れた、山が美しいへき地のグループホームに、父と母が私を送りとどけてくれた。すでに雪が積もりはじめていて、よろよろと進む我が家の車にむかって、遠くのグループホームの窓から、利用者さんたちが大きく手を振ってくれていた。営業しなくなったペンションを改築したその建物の煙突からは、薪ストーブの煙がでていて、部屋の中にはオレンジ色の光が灯っていた。雪の中、最大限に強がり、笑いながらホームに入っていく私の背中を見た父と母は、本当にここでやっていけるのだろうか、大丈夫なんだろうかと、不安しかなかったという。
私だって、もちろん不安の塊だった。だけれど、ホームの中では、今を全開で生きる12人の利用者さんが待っていた。玄関に入った途端、それぞれが猛烈にその人なりの歓迎をしてくれて、隙さえあればすぐに容赦なく、まったく初対面の私の懐に滑り込んできた。こちらの状況なんて知る由もなく、厚かましいくらいの迫力で。ああ、そうだ、この感じ、本当になつかしい。すごーく唐突でめんどくさいし厄介なこともあるけれど、だからといって放っておけない。憎めない、投げ出せない、諦められない。頑張らないわけにはいかない。あれ、何かを好きになるって、こういう気持ちだったかな。それは本当に、久しぶりの心の動き方だった。
彼らが、スイッチを押してくれた。もう、立ち上がるしかなかった。2週間の住み込み実習は飛ぶように過ぎ、ありがたいことに採用が決まり、正式に雇用されて、今に至る。
仕事を始めたのは22歳、今は42歳。個人的にも社会的にも状況はだいぶ変化し、かつての常識は今では非常識になっている。情熱と知識のバランスや気力体力の量も、あの頃とはだいぶ違う。離婚した10年後に再婚し、煮ても焼いても自由人の夫と、縦横無尽に走り回るふたりの息子たちが、絡みついて離れない。落ち着いて丁寧に暮らしているとは到底言えず、無意識で気持ち良く過ごせるいい日もあれば、本当に最悪だと思う日もあり、転がるような騒がしさで目が回っているだけの、、、これはむしろ、昔もこれからも変わらないかもしれないな。
そんな中、あのころからずっと、この仕事を続けている。障害がある彼らと、凸凹したパズルのように支えあっているのは、彼らの毎日であるのと同時に、しっかり私の毎日でもある。どうぞもしよかったら、覗き込んでください。
小日向知子
1978年生まれ、山梨県在住。障害がある方の暮らしに関わる仕事をしています。無類のうどん好き。電子書籍『小日向知子短編集 寒の祭り』