楽という行動
「楽」という行動
優しさの最後の「楽」をするため という文章
皆さんはどういう解釈をしたでしょうか?
私の言う「楽」は世間一般的なものと違うかもしてませんが 実は大して変わりません
皆が普通として認識し考えていない部分を説明していきたいと思います
・人は過去に生きる動物である 今とは未来に向かう為の手段であり 未来とは各々が抱く景色である
優しさの楽は相手に錯覚を起こさせるものであり それは自分が未来に抱く景色に向かうための手段である
だからこそ気持ちとして善と捉えやすい行為
しかし 今日やらないで明日やる 面倒くさいからやらない等々の言い訳をする行動の楽は
自分自身に対しての楽 つまり自分に対して誤魔化す理由付け
自身に勘違いをさせる行為である
故にこの楽とは未来の為ではなく手段そのものに向けての行動なので気持ちとして悪感情と捉えやすい行為
面白いことに 相手を勘違いさせる楽と自分を勘違いさせる楽はそれぞれ負担と軽減する部分が逆になっている
身体的と精神的 ストレス
・≪玄楽≫ゲンラク
【現状に不満だがそれを変える事を面倒だと思う→現状の楽】
嫌だ ダメだとわかっているのに行動が伴わない
:精神的ストレスが増す
:身体的疲労が軽減
・≪未楽≫ビガク
【現状の打破・未来に向けての行動→未来の楽】
疲労する事が分かっているが未来の為に今を我慢する
:身体的疲労は増す
:精神的ストレスなし(自分のやりたい事をやる為)
これを玄楽(ゲンラク)未楽(ビガク)とする
玄楽が何故ストレスを負うのかと言うと 知識のせいである
道徳の善悪感情がそうさせているから 悪の行為をしていると思ってしまったから
それを良しとしていてば 例えサボった所で痛みを負わない ストレスを感じない ここまで心を割り切っていればなんら問題はないのだが
実際問題人の目が気になってそこまで割り切れる人は珍しい
では何故差が生まれてしまうのか
それは「夢」の有無の違いである
dreamではなくambition(大望)
これこそが未来の目的 向かう方向 そして行動源である
大望の有無
↙ ↘
渇望 堪能
玄楽は堪能 未楽は渇望
このバランスが崩れると人は進む方向を見失う
大望が有り渇望していれば 未来への道が見えているので確認作業となる
大望が無い堪能していれば 未来への道が見えなく不安がり動けなくなる
※ここでいう堪能とは現状満足はしていないが 行動を起こし変化させるまで至らないので自身の行動に満足させている事と捉えてほしい
だからこそ大望がない人 夢がない 何やりたいかわからない人等々を抱くが現状には満足していない人は
目で見えるモノだけの範囲で考えてしまう為 今と言う手段で物事を判断してしまう
それは即ち自分が何の為の行動をしているのかを理解して上げられていないっと言う事
これは仕事などでもそう 頼まれた仕事に対して何の為の作業なのかを理解してやるのか ただやるだけで終わらすのかでは未来に差が生まれる
手段と目的は並走しなければならない
それは暗闇に走りだす行為に等しいからだ
どもまで続くかわからない ゴールがあるのかも無いのかもわからない道をひたすら走り抜く事なんてとてもじゃないが無理である
だから夢という行動源の方向を決めた方がより楽に生きられるはずである
つまり「楽」とは行動の方向性 そして設定である