「ヒトラーとは何者か?」2 父親(1)
アドルフが生まれたヒトラー家は、経済的には中流の恵まれた家庭だった。父アロイス・ヒトラーが税関の役人だったからだ。アロイスは小学校卒の学歴しか持たなかったが、アドルフが3歳の1892年には、望みうる最高の地位ともいえる上級税官吏に出世する。しかし、家庭生活は円満とはいいがたかった。アロイスは尊大で、地位を鼻にかけ、厳しく、ユーモアに欠け、倹約家で、もったいぶって時間にうるさく、職務に忠実な典型的な役人だった。地元では尊敬されていたが、職場でも家庭でも短気で、突然に怒り出すことがあった。妻にとっては権威主義的で尊大で横暴な夫であり、子どもにとっては近寄り難く厳格で傲岸で激しやすい父親であった。
アロイスは、ブラウナウでは尊敬を集める税官吏だったが、身辺がきれいだったとはいいがたい。アドルフの母クララとは3度目の結婚。最初の結婚相手は14歳年上で当時50歳のアンナ・グラスル。財産目当ての結婚だったようだ。アンナは裕福で、行政への人脈もあった。結婚後まもなくアンナが病をえると、アロイスは若い小間使いのフランツィスカと不倫。アンナが亡くなると結婚するが、フランツィスカは結核にかかり、わずか23歳で死亡。アドルフの母クララはアロイスの従姉の娘。田舎で結核療養することになったフランツィスカにかわって幼い子供二人の面倒を見るためにブラウナウに呼び寄せられた。結婚してかなり経っても、クララは夫アロイスを「叔父さま」と呼び続けていたという。
おそらくこのような父アロイスの人格形成にはその出自が深く関わっていそうだ。アドルフは生涯ひた隠しにしたが、アロイスは私生児。1837年、貧しい小自作農の娘で、当時42歳のマリア・アンナ・シックルグルーバーの婚外子として生まれ、「アロイス・シックルグルーバー」として洗礼を受けたが、洗礼証明書の父親欄は記入されなかった。5年後、マリア・アンナはヨハン・ゲオルク・ヒートラーと結婚。5年後にマリア・アンナは亡くなり、その頃(その前かもしれない)少年アロイスは、ヨハン・ゲオルクの15歳下の弟ヨハン・ネポムク・ヒートラーに引き取られる。
1876年、アロイスは洗礼証明書を書き換える。シックルグルーバーという姓を消し、「婚外」を「婚姻による」と訂正し、それまで空欄だった父親欄に「ゲオルク・ヒトラー」と記入。しかし、これでアロイスの父、つまりアドルフの祖父がマリア・アンナが1842年に結婚した「ヨハン・ゲオルク・ヒートラー」と確定したわけではない。確かに彼は、第三帝国でヒトラーの祖父と認められていた。しかし、疑問が残る。アロイスの父がもし本当だったのならば、なぜ、生前、結婚した時にさえ息子を認知しようとしなかったのだろうか。そこでアロイスの父親は「ヨハン・ネポムク・ヒートラー」とする説が出てくる。ネポムクはアロイスを引き取り育て上げた。アロイスの改姓は、遺言でアロイスを遺産受取人にすることと関係していたと思われる。しかし証拠はどこにもない。
もう一つの可能性として、アドルフ・ヒトラーの祖父はユダヤ人だったという説がある。1950年代に広く流布したが、元になったのは、ナチの有力法律家だったポーランド総督ハンス・フランクが処刑前にニュルンベルクの拘置所で口述筆記させた回想録だったが、説得力はない。フランクの回想録は、処刑前の精神的に不安定な時期に書かれたものであり、不正確な点も多い。ヒトラーの祖父をグラーツ出身のユダヤ人としているが、当時グラーツにユダヤ人はいなかった。居住を禁止されていたからだ。ちなみに、手塚治虫『アドルフに告ぐ』は、アロイス=ユダヤ人説をとっているが。
いずれにせよ、アロイスは「Hiedler」姓に改姓した。もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人・スロバキア人などに見られるとも言われる。アロイスが、読み方を「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書いたのは、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。
父アロイス・ヒトラー
手塚治虫『アドルフに告ぐ』
手塚治虫『アドルフに告ぐ』より
手塚治虫『アドルフに告ぐ』より
手塚治虫『アドルフに告ぐ』より
手塚治虫『アドルフに告ぐ』より