第2章 その5:「夫」
夫は、教育の職に就いていて、一日のほとんどを学生と一緒に過ごしている。
手前味噌だけれど、夫の授業はおもしろくて人気だ。ちょっとした言葉のつかい方や、きつすぎないブラックユーモアみたいなものにセンスがあって、学生にとって親しみやすい授業だからじゃないかなと私は思う。そのセンスは、夫が関西出身ということも関係しているかもしれない。まじめな顔をしておもしろいことを言う芸人さんがいるけれど、そんな感じに近いと思う。
人見知りの私と正反対で、夫は、相手がどんな人であろうと、その人に合ったコミュニケーションのとり方を、初対面から本能的に察することができるみたいだ。
そして、いつの間にかその人と距離を縮めているというふしぎな特技がある。
術前に化学療法を実施し、がんを小さくしてから摘出する、といった内容のことを、尾田平先生は夫と私に言った。
「そうですか。なんか、よくわかりました。」
夫はうんうんと頷き、また、続けた。
「ついでに一つ聞いていいですか?髪の毛についてなんですけど…」
前回の診療のときに、尾田平先生は、抗がん剤の副作用として、「毛髪が抜けるので、帽子を準備しておくのがよい」というようなことを仰っていた。
「髪の毛ね。なんですか。」
「どんなふうにハゲるんですか?」
夫は、真正直な顔つきで言った。
誰も何も言わなかったけれど、空気がざわついたのが、はっきりとわかった。
ドクターや看護士さんが、内心冷や汗をかいているのが、伝わってきた。パソコンのキーボードを打つ、カタカタという音が止まった。もちろん私も、笑っていいのか謝るべきなのかわからず、尾田平先生の顔を見た。
「さらに訊くなら」と、夫は続けた。
「頭のてっぺんからハゲます?デコからいきます?落ち武者みたいな感じで。」
…
…帰り道、夫は車を運転しながら、そのときのことを解説した。私はまだおかしさが忘れられず、思い出し笑いを続けていた。
「『髪が抜けるから心の準備を』とひとことで言われてもね、それでは杏莉も僕もわからないでしょ。杏莉が落ち武者みたいなビジュアルになるなら、むしろその情報のほうが心構えとして僕らには必要なわけで。」
「…母さん、びっくりしたわ。でも、尾田平先生、さすがよね。ひるまず普通に回答されていて、やっぱりいろんな患者さんを相手に、たくさん場数を踏んでいらっしゃるのね。」
少し天然なところのある母は、そんなことを言った。
尾田平先生は、やっぱり強者だった。
「落ち武者みたいな感じで。」という夫に対して、
「そうね、だいたいそういう感じだよね。」と、適当にいなして、何事もなかったかのように、次の話に移ったのだった。
「尾田平先生、今日はちょっと雰囲気が違ったような気がする。」と私は言った。
「あの、ニヤッと笑う顔は、ちょっとかわいいよね。」
夫は言った。
「かわいい…とは思えなかったけど。」
威厳のある堅物そのもののような、尾田平先生にも、初対面でひるまずこんな対応ができる夫は、やっぱりすごいと思った。
実家に着き、車から降りたあと、しみじみと母は私に言った。
「杏莉はいい人とめぐり会ったね。」