俳句の誕生・新古今的語法とは何か
https://tsukinami.exblog.jp/29764765/ 【俳句の誕生 新古今的語法とは何か】
10日ほど前のブログ記事で、「新古今的語法」とは何だろうか?と書きました。そのままにしておくと気になるので、長谷川櫂著『俳句の誕生』で調べてみました。
ご本は2018年春に出版されています。第5章のタイトルが「新古今的語法」で、つづく第6章「禅の一撃」も関連する内容でした。
詩人大岡信が、26歳のとき著した「立原道造論ーさまよいと決意」(『詩人の設計図』所収)で、こう書いているそうです。
〉立原道造の詩に遭遇したことは、ぼくの詩的感受性の形成にとってかなり重要な事件だったように思う。ぼくはそのとき十六歳だったが、かれの詩の舌たらずな甘さが、十六歳の少年の精神によびさました一種の抵抗感と、その抵抗感にあらがって誘惑的によびかける複雑な言葉のリズムとは、かなり長いあいだぼくを悩ました。いまになってみれば、立原の詩との遭遇は、新古今的世界、あるいは新古今的語法ともよぶべきものとの最初の遭遇だったように思える。ぼくが抵抗と誘惑とを感じたのもそのためだったようだ。十六歳の精神にとって、新古今的世界はけっしてなじみ深いものではない。
いわゆる二十代集の掉尾をかざる『新古今和歌集』は、鎌倉時代の初め、後鳥羽上皇の勅撰によって藤原定家らが編纂した和歌集です。名前のとおり『古今集』を強く意識した歌集といってよいでしょう。
長谷川櫂さんは、新古今的語法を示す作例として、こんな歌をあげておられます。
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空 藤原定家
ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ 式子内親王
定家が歌に詠み込んだ「夢の浮橋」とは、『源氏物語』の最終巻のタイトルです。
内親王の歌は、同じ物語の「花散里」の巻で光源氏のうたった「をち返りえぞ忍ばれぬほととぎすほの語らひし宿の垣根に」を踏まえているそうです。
詩人立原道造は、このような歌人たちによる「言葉の切り結び」である「新古今的語法」を自らの詩(たとえば「のちのおもひに」のようなソネット形式の詩)にとりこんだ、というのです。
いかがですか。わかりますか? ちなみに、ソネットとは十四行の定型短詩のことです。
長谷川櫂さんは、こう解説しておられます。
〉ソネットという鋳型を使った言葉の大胆な切り結び。切断と結合。これが立原が『新古今集』から学んだ新古今的語法の具体的な成果だった。単線の文脈を切断し、順序を逆転させ、ときには別の文脈と結合させて入り組んだ複線の文脈を出現させる。それは主語を明示しなくても曖昧なままで文が成り立つ日本語だからできる語法だった。ここで話の先廻りをすれば、俳句の取り合わせ<a+b>とは、新古今的語法、言葉の切り結びの最小単位ということができるだろう。
つまり、新古今的語法とは、古今集だとか源氏物語だとかいう古典からの<本歌取り的技法>に親しみながら、五七五という短い定型の枠の中で、<取合せを形づくる叙法>ということでしょう。わたしが読み間違えていなければ、たぶんそのような意味合いのようです。主語の曖昧さ、あるいは主体の転移は、取合せの要素といってよいでしょうね。
新古今的語法における、本歌取りと取合せとのかかわり具合については、うまく説明できませんが。
加えて、時代的背景として、鎌倉時代の思想界に<禅宗の与えた影響>を指摘できるそうです。
たしかに、取合せ俳句に見られる、ときに意表をつく(それは現代の俳句で「二物衝撃」などと呼ばれる)叙法というのは、禅寺でおこなわれる「禅問答」と、よく似ている気がします。
https://plaza.rakuten.co.jp/jiqkobo/diary/201812280000/ 【◎×5 『俳句の誕生』・・・年末多忙中に長文すみません! (8)】 より
◎×5 『俳句の誕生』 ・長谷川 櫂 ・筑摩書房
~この! 大上段からのタイトル!! オイソレとはいかぬ! 櫂さんの「入門」的著作はココでも幾つか採りあげて来て親しんできたものの、本書は"硬質な研究・考察書"である。
フセンは"大量"であり、簡記、引用なんぞムリなので、表紙惹句と5/6『毎日・書評』小島ゆかり「評」に従いたい。 惹句~「『俳句の誕生』は言葉と詩歌の発生から、なぜ日本に俳句という短い詩が誕生したのか、江戸時代半ばの近代大衆俳句の出発、そして戦後の高度成長以後の近代大衆俳句の内部崩壊までを扱っている。もし誰かが次の本を書くとすれば、それは『俳句の死』ではなく『俳句の再生』であって欲しい。 そのための道を歩みはじめていなくてはならない。」(=著者「あとがき」)
1章 転換する主体 2章 切れの深層 3章 空白の時空 4章 無の記憶 5章 新古今的語法 6章 禅の一撃 7章 近代俳人、一茶 8章 古典主義俳句の光芒 9章 近代大衆俳句を超えて。巻末に『大岡信を送る【花見舟空に】の歌仙と芭蕉【市中の巻】。
装幀 間村俊一、装画は、菅井汲氏の、大岡信【一時間半の遭遇】詩、!という豪華版!
小島~「(略・これまでの)いわゆる写生。(略)『そこに何か決定的な見落としがあるのではないか』。これが本書の出発点である。(中略) 子規による俳句革新の中心にあった方法論・写生は、対象を凝視し精神を集中することが求められる。しかし『俳句ができるのは精神を集中させているいるときでではなく、逆に集中に疲れて、ぼーっとするときである」という。重要なのは、集中ではなく遊心ではないか。詩歌論としても実作論にしても、これは見逃せないところだ。挑発的なように見えて、じつは周到な用意とゆるぎない論旨をもって核心へ攻め込む。長谷川櫂の文章のおもしろさと迫力は、そこにある。」『酒、恋、眠り、夢、旅、死、並べてみると、みな詩歌、詩人とかかわりが深い。人間の世界にはこうしたいくつもの空白の時空への出口がある。その一つが詩歌なのだ。』『詩歌は言葉で作られる。言葉によって失われた永遠の静寂を、ふたたび言葉によって取り戻そうとするのが詩歌である。』 (以下「・」は、ワタシの本文引用)
・和歌を変えた最大の要因は禅である。・禅は日本人に人間批評の論理と方法を提供した。
・俳句は禅に始まる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最小の一単位なのだ。
・一茶の俳句は芭蕉や蕪村の古典主義俳句を脱して、すでに近代俳句だったということであろう。
・言葉は意味だけでできているのではない。言葉には意味のほかに風味というものが潜んでいる。
・単にどの俳句が好きか嫌いかというその人の好みの問題ではなく、言葉と詩歌の歴史を俯瞰しながら行われるべきものでる。
・誰もが批評まがいの発言をし、選句まがいの選句をするようになった。こうなると俳句の批評と選句の信頼性は失墜し(中略・人気投票となっては)、混迷を深めることになった。
・虚子が去り、楸邨が去り、龍太が去り、大岡信も去ってしまった。(中略)俳句の俳とは批評のことだった、批評を喪失した俳句は果たしてどこへゆこうとしているのだろうか。キリがないので このへんで、、、"こころあたり"があることばかり・・・・・
もしかして俳諧は引用と、語の統合が中心であったということなのでしょうか?
それを変えた最大の要因は禅。
前の記事に引用した記事のコピーです。
http://gokoo.main.jp/001/?p=4937 【《俳句の相談》俳句はなぜ短いか②禅の思想】より
もうひとつは中国の宋・南宋から伝わった禅の影響が考えられます。
禅は言葉に対してふたつの相反する考え方をもっています。
1)言葉では真理に到達できない。つまり言葉を信用しない。
2)しかし言葉は真理に到達するための有効な手段ではある。
このふたつの考え方が合わさると、言葉は短くなるしかありません。
禅の語録に残されている禅の言葉が短いのはそのためです。
中世以降、禅のこの思想が日本に流れこみ、そのなかから短い俳句が誕生したと考えられます