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芭蕉と共感覚

2018.01.20 01:37

もしかして「蛙飛び込む水の音」を聞いて云々という 長谷川氏の主張は このことを指すのでしょうか???

https://www.kansai-u.ac.jp/Fc_soc/column_professor/detail.cgi?id=20050920142013 【芭蕉と共感覚】  産業心理学専攻 雨宮 俊彦 教授  より

 もうだいぶ昔のことになってしまったが、大学時代、俳句のゼミに参加したことがある。毎週、俳句を作ってきて合評会をやり、それで単位になる。先生の人柄もあって楽しい授業だった。

 枯れ草の香や一色に冬の原

 まだクロ(黒い色の犬なのでそうつけた。)が生きていたころで、実家に帰省すると、近くの河原や野原につれてよく散歩に出た(散歩時間の近くになると尻尾を振って、いつも大はしゃぎだった。)。そんな大学時代の冬休み、クロをつれて散歩している時に、俳句のゼミの課題としてつくったものだ。枯れ草と冬が重なっているが、河原のまわりの野原があたり一面枯れ草色で、また枯れ草の香りがしたので、実感の句である。香と一色が、共感覚っぽいのが、ポイントだと思う。芭蕉の句を下敷きにしたような気がするのだが、自分でもはっきりしない。

 共感覚は、シートウィックの「共感覚者の驚くべき日常—形を味わう人、色を聴く人」草思社などがきっかけで、日本でも興味をもたれるようになった。音や文字に特定の色を感じたり、味の形を感ずるなど、異なった感覚属性の間に具体的な連合が、比喩や単なる印象としてではなく存在し、一方の感覚の刺激でもう一方の感覚が、同時に生じてしまうのが共感覚者である。共感覚者の頻度については色々な調査があるが、2万に一人くらいの希な存在である。

 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ−ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

 As the bell tone fades、

 Blossom scents take up the ringing、

 Evening shade.

 ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

 芭蕉の共感覚的な俳句としては、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が有名である。Harrisonの本では「ありがたや雪をかをらす南谷」もとりあげられている。小西甚一(1998)「日本文藝の詩学」みすず書房によると、西欧は共感覚的な表現が用いられるようになったのは、ロマン派以降で、19世紀以前にはほとんど見られなかったらしい。そいういう点からすると、17世紀後半における芭蕉の共感覚的な俳句はかなり着目に値する現象らしい。

 芭蕉が共感覚者でなかったとすると、芭蕉はなぜ共感覚的な表現を用いるようになったのか?小西氏は、多くの文献を参照して禅林詩の影響を指摘している。禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。鐘消えての句でも、「花の香は撞く」という奇妙な表現は、比喩的な解釈も可能だが、「青山常運歩(青山は常に運歩する)」などの、禅語録における、常識的な概念図式の脱臼を行うような意図的なイロジカルな表現と近いものがあるかもしれない。


http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-162.html 【芭蕉と共感覚】 より

共感覚についていろいろ調べていると気になる記事を見つけた。

共感覚と俳人・松尾芭蕉を取り上げている。

■芭蕉は共感覚者?

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 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ-ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

 As the bell tone fades、

 Blossom scents take up the ringing、

 Evening shade.

ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

<<<芭蕉と共感覚より

もう一つ芭蕉の句と解釈を見てみよう。

 牛べやに蚊の声暗き残暑かな

 In the cowshed

 mosquito voices are dark

 the lingering heat

ここで興味深いのは、『芭蕉は共感覚を用いて“蚊の声暗き”という表現と”残暑”という季語から、夏の終わりとまもなく訪れる秋を予感させているのだ』と解釈しているところだ。しかしこれらは明らかに共感覚ではなく、共感覚比喩というべきだろう。

■ある俳句入門サイトで“construction techniques for haiku:Synesthesia (sense switching)/俳句の構成テクニック:共感覚(感覚の切替)”とあるのが、「sense switching」はある感覚を他の感覚を使って形容することを指し、この場合の「Synesthesia」も同様に共感覚比喩である。

[参考]詩人や小説家が多く共通に持っているものは共感覚ではなく比喩表現力である,BBC

比喩表現か否かは日本人ならば感覚的に分かりそうだけど。古くは和歌、百人一首や俳句のように、自分の中にある情景や想い・感性をルールの枠内でいかに豊かに表現するか。その創意工夫の中で日本語はさまざまな表現方法を模索してきたのだろう。「まったり」「こっくり」などフランスよりも日本の方が味の表現が多いと言われるのも納得。

■日本語と共感覚比喩(synesthesia metaphor)

日本語において、共感覚比喩とは昔から言語学的に論じられ、体系化されている。共感覚比喩にみられる比喩の左から右への一方向性、つまり「一方向の右端に位置する視覚・聴覚の形容詞が、本来未発達で非常に貧弱であるために、他の感覚分野から借りるばかりで、それゆえ共感覚比喩に頼っている」という仮説は長く奉じられてきた。しかし、この「一方向性の仮説」に近年は反論の声も上がってきているのだが、そのあたりは共感覚と離れてしまうのでここまでにする。

[参考]比喩(メタファー)研究について

■芭蕉はなぜ共感覚比喩を用いたか

芭蕉と共感覚では「なぜ芭蕉は共感覚的な表現を用いるようになったのか?」という疑問に対して、禅の影響を指摘している。

>>>

禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。

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この、『禅と共感覚表現;感覚への密着と切替』というキーワードでまたいくつかおもしろいエピソードを思い出したけど、それはまた別の機会に。。

参考資料

Synaesthesia and Synaesthetic Metaphors

Synaesthesia, metaphor and right-brain functioning

リルケの「世界内部空間(Weltinnenraum)」について


もしかして VAK(視覚・聴覚・体感覚)を同時に働かせることが 禅の悟りに結びつくということでしょうか???