映画『聲の形』感想 〜コミュニケーションの残虐性と尊さ【ネタバレ】
どうなってるんだ2016年。
『シン・ゴジラ』『君の名は。』そして『聲の形』......。
映画、それも日本産の映画が、どれもこれも魔球なんです。何が起こったのでしょうか。怪奇現象です。こわいです。
さて、『聲の形』ですが、これは時期的に絶対『君の名は。』と比較されてしまいますよね。でも、これはどっちが優れてるとかではなくて、完全に好みの問題だと思います。
まぁ、前にも書いたとおり、実は『聲の形』も魔球なんですけどね。
ちなみに、私の個人的な好みに関しては以下のような感じです。
ちなみに、『君の名は。』のモヤモヤを書き綴ったのがこの記事でした。
要は震災後映画として観てしまうと、オチがあまり納得できない、「希望」として見えてこない、という話だったのですが、『聲の形』はそこら辺がスッキリとしていました。あれだけエグくてリアルな話に、ちゃんと「希望」を提示してくれるオチをつけてくれたのが、自分としては好印象だったのです。
それでは、この作品が提示してくれた「希望」とはなんだったのでしょうか。それは、主人公である石田将也の、ラストシーンにおけるある簡単な行動に集約されています。そこで、作品のテーマに対する答えが提示されるとともに、なぜヒロインを聴覚障害者に設定したのか、といったことも分かってくるのです。
今回の記事では、ラストシーンの解釈に向かって突き進んでいきたいと思います。
〈あらすじ〉
“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。 ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。 彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。 しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。
やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。
“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪れる。
これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語――。 (引用元)
〈感想〉
■見事に裏切られる
この話、ポスタービジュアルやパンフレットの表紙からして、いかにも硝子と将也が障害を乗り越えてくっつくラブストーリーらしいなと推測してしまうのですが、その予想は見事に裏切られます。
映画をご覧になった方はお分かりでしょうが、この作品で描かれているのは感動ラブストーリーでも、甘酸っぱい青春でもありません。むしろ、人間同士のコミュニケーションの問題という、非常に大きくて普遍的なテーマを扱っています。その問題が目に見える形で一番露呈しやすい時期ということで、高校生の男女が登場人物に選ばれただけのことなのです。
コミュニケーションの問題というのは、具体的に言うと、感情や思いの伝達が上手くいかず、すれ違ってしまうということです。人がすれ違い、それが積み重なるとどうなるか。様々な現実的な問題が発生してきます。以下では、作品で発生したコミュニケーションの問題を順々に振り返ってみましょう。
■事の発端
世の中に、完璧な人間がいたとします。この人は一切の争いを拒もうとし、周囲の人達と友好的な関係になろうとします。邪な心を一切もたず、常に理性的な判断をします。
さて、このような人間がいたとして、この人は幸せに生きてゆけるでしょうか。
恐らく、答えは否でしょう。むしろ、世界で一番不幸な人間になるのではないでしょうか。その理由は至極簡単です。それは、彼以外の人間がみな完璧でないからなのです。
ちょっと思考実験的な話になってしまったので、ではこの例を『聲の形』という作品の中に見出してみましょう。
ヒロインである西宮硝子は、この作品で「完璧な人間」に一番近い者として描かれています。もちろん、愛想笑いで逃げたり、自殺未遂をしたりと、決して完璧などでは無いのですが、あくまで他者への関わり方という点から考えると、一番マトモだということです。
完璧な人間に近い者をそのままヒロインにしてしまうと、お話が成り立ちません。さて、それではどうするか。この作品は、彼女から「声」を奪うわけです。それは、コミュニケーションにおいて最も重要なものだからです。
「声」を奪われた硝子は、クラスに馴染めなくなります。異物を排除しようとするクラスの運動によってというより、周囲とコミュニケーションが取れないことによって、結果、異物と見なされてしまうのです。
彼女を異物と見なす役割を一手に引き受けるのが石田将也です。悪質なイジメ行為をするわけですが、彼にしてみれば、それは硝子とコミュニケーションを取りたいという気持ちの不制御から、無自覚にやってしまったことでした。彼は物語の終盤で、「もっと話がしたかったんだ......君と。たぶん、それだけ。」と告げ、硝子に謝ります。相手とのコミュニケーションを望む気持ちが起こした悲劇。それこそが、この物語の全ての発端だったのです。
■「偽善」のしくみ
「偽善」という概念は、この物語において何度か登場します。例えば、硝子と将也が教室で取っ組み合いの喧嘩をするシーン。彼は硝子に「良い奴ぶってんじゃねぇよ!」と言い放ちます。あるいは、高校生になって硝子と再びコミュニケーションを取ろうとする将也に向かって、結絃も「偽善者なの?」と毒づきます。どちらも、コミュニケーションの問題をリアルに明示したシーンです。
しかし冷静に考えると、ある人の行動が善なのか、それとも偽善なのか、明確に線引きできることなどありません。
例えば、中学デビューをした子が、隣の席の子に話しかけて友達になったとします。これは善でしょうか、偽善でしょうか。もちろん、純粋にその子を好きになって友達になったのなら話は別ですが、その動機が100%であることは、まずないでしょう。少なくとも、隣の席の子に話しかけようとした動機には、「クラスで孤立したくない」「仲間を作りたい」という意識が、無自覚的にであれ、はたらいたはずなのです。
しかし、たとえ1%でもそういう動機があったら、その子の行動は偽善ということになってしまうのでしょうか。いやむしろ、人の行動の動機というのは、様々な思いの混合であってしかるべきで、そこに善も偽善もないのではないでしょうか。「誰かと友達になりたい」という思いが最初になければ、友達など出来るはずもないのです。
結局、ある行動が善なのか、偽善なのかは、それを見る人が判断してしまっているというだけのことなのです。「この行動は善、この行動は偽善」などという風に、一対一対応で定まっているなんてことはないのです。従って真に重要なのは、判断主、すなわち行動の受け手との関係性の問題だということになります。
『聲の形』の物語にその具体例を見てみましょう。5年経っているのに、それでも過去に自分をイジメていた相手と「会いたかった」と言うくらい、完璧な善人に近い者として描かれていた硝子が偽善者であるはずがないのは、我々観客には分かりきっています。しかしそれは、我々が観客として、いわゆる神の視点で物語を見れているからであって(これは現実世界での我々が決して成し得ない究極のコミュニケーション法と言えます)、小学生の将也はそうではありません。結果、「硝子は偽善者である」と彼は勝手に解釈してしまったのですが、それはまさに互いにコミュニケーションが取れず、良い関係性が築けなかったことが原因だったのです。
結絃の場合もそうです。硝子との関係をやり直そうとする将也を「偽善者である」と勝手に解釈してしまったのは、あの時点では将也と十分なコミュニケーションがとれていなかったからです。しかし、その後将也が自分の正直な気持ちを吐露したことにより、彼の行動に対する結絃の解釈は変わりました。硝子の涙を見たくない。それは純粋な願いであり、同時に自分の問題でもある。結絃の祖母が言う「他人のことを、自分のためにやること」というのも、ここに効いてきます。他人のためになにかをするときの動機とは、得てしてそういうものなのです。
以上のように考えると、「偽善」問題すらも、より大きな一つの問題に集約できることがわかります。それは、「相手を自分勝手に解釈してしまう」ということです。これこそが、コミュニケーションに障害が生じたときに引き起こる問題なのです。
「偽善」問題をそのような観点から捉えれば、色々なことが見えてきます。例えば、将也が硝子に言った「お前怒ってるんだろ? 何言ってんのかわかんねーよ!」という叫び、植野の「今でも私はあんたが嫌いだし、あんたも私が嫌い」という宣言、橋で将也が友達の面々に吐き捨てた言葉......。どれも、相手が自分のことをどう思っているか、何を考えているかということを自分勝手に解釈し、決めつけてしまっているセリフなのです。
■なぜすれ違うのか
100%完璧な人間などこの世にいません。誰しも間違え、誰しも感情に流され、誰しも不確定要素を含みます。
実際、登場人物は完璧ではありません。将也は間違ったコミュニケーションをしたり、コミュニケーションそのものを諦めたりします。植野は障害の有無に関係なく相手とぶつかろうとしますが、不器用です。川井は正義を全うしようとしますが、自分勝手になることがあります。佐原は優しいが勇気がなく、硝子は他人を想うあまり自己犠牲を選んだり、愛想笑いで丸く収めようとしたりする節があります。どれもこれもリアルな人物像で、彼らのうち誰かを非難しようとすると、その非難がそのまま自分に返ってくるつくりになっています。
植野は、硝子に対して「テメーの頭ん中でしか物事を考えられないやつが一番キライなんだよ!」と言い放ちますが、これは同族嫌悪以外のなにものでもありません。人間は本質的に、自分の頭でしか物事を考えられないのです。決めつけてしまうのです。
「完璧な人間などこの世にいない」ということと、「人間は自分の頭でしか物事を考えられない」ということ。まさにこの2つが、「相手を自分勝手に解釈してしまう」というあの問題が起こる原因なのです。つまり、自分が完璧でないから、相手も完璧でないと解釈してしまう。自分だったら怒るから、相手も怒っていると思ってしまう。自分だったら嫌いになるから、相手も自分を嫌ってると思ってしまう。この物語は、そういうことの繰り返しなのです。
「自分の頭でしか物事を考えられない」をやり通していくとどうなるか。その先にあるのはコミュニケーション拒絶の極致であり、すなわち自殺なのです。自分で自分のことが嫌いになったとき、自分を肯定してくれる人が誰もいないのは、恐ろしいことです。
それを回避するために、コミュニケーションというものがあるのだ、とこの作品は言っています。自分ひとりじゃどうにもならないなら、それはもう他者に頼るしかない。他人がどんなことを考えているのかなんて、その人に聞かないと分からないのです。川井は「自分のダメなところも愛して、進んでいかなくちゃ」と言いますが、自分を愛するには、それを肯定してくれる他人が必要なのです。「君に、生きるのを手伝ってほしい」という将也の言葉は、まさにそのことを表しています。
■聲の形
いよいよ、ラストシーンの解釈に移ります。あのシーンこそが物語の総括であり、テーマへの確固たる答えになっています。とはいっても、ここまでくればその解釈はもはや明白です。
将也は、ずっと下に向けていた顔を上げ、耳を覆っていた手を離します。そう、これはまさに、コミュニケーション発生の第一歩ではないでしょうか。その瞬間、道行く人の声が聞こえはじめ、顔に印されたバツ印がとれます。相手が自分のことをどう思っているか、何を考えているかということを自分勝手に解釈するのはやめ、諦めていたコミュニケーションを、再び信じようと思ったわけです。バツ印は、将也が自分勝手に解釈した人間、コミュニケーションを諦めた人間に印されるものだったのです。
重要なのは、このとき彼の耳に入ってきた声は、決して全てがポジティブなものではなかったということです(注意して聴くと、「よく学校来れるよな」という声も混じっていました)。しかし、将也はポジティブな声も、ネガティブな声も、どんな形の「声」であろうと、全て受け止める決意をしたわけです。
もっと言えば、この物語において、登場人物たちの欠点は最後まで消え去ることはありません。植野は依然として不器用なままですし、川井の無自覚さも咎められません。硝子はすぐに謝ってしまいます。この先も彼らがずっとすれ違わずにいられるなんて保証は、されていないのです。
しかし、依然としてすぐに謝る癖の抜けない硝子に対し、植野はこう言います。「まぁ、それがアンタか」と。つまり、彼女はあれだけ嫌っていた硝子の人間的欠点を許し、一人の人間として認めたのです。ここに救いがあるわけです。それは、今後彼らがいかにすれ違おうと、ポジティブな声も、ネガティブな声も受け止めることで、互いに相手を許しあい、認めあえるだろうという救いなのです。
この作品は、コミュニケーションの残虐性をこれでもかと突きつけてきます。発端である硝子と将也の一件も、互いに相手とのコミュニケーションを求めた結果であり、それが逆にいろんなものを壊します。
コミュニケーションを取ろうとして、その結果色々なものが壊れてしまうのならば、我々はどうすれば良いのか。答えは、「それでもコミュニケーションを取ろうとすること」なのです。コミュニケーションの残虐性を徹底的に描き、それでもなおコミュニケーションは尊いのだと結論付けています。それはひとえに、様々なコミュニケーションの形が、様々な「聲の形」があるからにほかなりません。一度壊れたものは、それを壊したものによって再び取り戻せるわけです。
顔を上げ、人の声を聞く。このシンプルな行動こそが、この作品の提示する答えであり、「希望」なのです。
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