「ヒトラーとは何者か?」4 挫折
17歳になってまもない1906年5月、アドルフは母親を説得して資金を援助してもらい、生まれてはじめてウィーンを訪れた。それは、かねてよりの希望であるウィーン美術アカデミー受験の準備も兼ね、見聞を広めるためだったようだ。二週間以上にわたってオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンの町を観光したアドルフは、帝都を飾る一郡の壮麗な建築物、特にリング通りの建造物に魅了された。また夜にはウィーン国立歌劇場を訪れ、『トリスタンとイゾルデ』、『さまよえるオランダ人』など、ワーグナーの作品を鑑賞した。
6月、アドルフはウィーン滞在を終えてリンツの実家に戻ったが、ウィーン美術アカデミーで芸術家としての道を切り開きたいという以前から兆していたはずだの思いは、ウィーン滞在で一層強まった。その頃、母親は乳癌で深刻な健康状態にあった。1907年1月、クララはリンツの病院で乳癌の大手術を受け、春から夏にかけては家庭医であるユダヤ人医師ブロッホの診察を頻繁に受けていた。彼女の病状は春になると回復に向かうかに見えた。そこで18歳になったアドルフは、すでに2年近い願望であったウィーン美術アカデミーの受験を決意し、1907年秋、再度ウィーンへ出かけたのである。
本試験を受けられるかどうかは、受験者が提出する作品に基づく第一次選考の結果次第だった。「山のような絵の束を抱えて」家を出た、とヒトラーは後に書いている。113名の受験者のうち33名は第一次選考で落とされたが、アドルフは本試験に進むことが許された。10月初旬、アドルフは3時間の過酷な試験を2回受ける。これは特定のテーマについて絵を描くもの。試験に通ったのはわずか28名であり、アドルフは不合格だった。「絵画試験は不合格。肖像画が少ない」という判定だった。
極めつけの自信家アドルフは、美術アカデミーの入試に落ちるとは考えたこともなかったようだ。
「入試に合格することなど朝飯前だと確信していた。・・・合格すると確信していたので、不合格通知はまさに青天の霹靂だった」(ヒトラー『わが闘争』)
アドルフは美術アカデミーの学長に説明を求め、美術学科に向いていないことは明らかだが、建築の才能はあると言われる。いずれにせよ、美術アカデミーの入試に落ちたことは、アドルフの自尊心をいたく傷つけ、アドルフはこれを誰にも漏らさなかった。ただ一人の友人クビツェクにも母親にも伝えなかった。
その頃、母クララは死の床にあった。容態の著しい悪化にウィーンから戻ったアドルフは、10月末頃、医師ブロッホから母親の病状は絶望的だと告げられた。アドルフはこの告知にひどく衝撃を受け、実に献身的に母親に尽くした。後に妹パウラも医師ブロッホも、アドルフが死の床にある母親を献身的に「根気よく」看病したと証言している。しかし医師ブロッホが手を尽くしたかいもなく、病状はその秋に急速に悪化し、1907年12月21日、クララは47歳で静かに息を引き取る。医師ブロッホは幾度となく臨終に立ち会ったが「アドルフ・ヒトラーほど悲しみに打ちひしがれた人を見たことはない」と後に回想している。母親の死によりヒトラーは孤独感と喪失感に苛まれた。愛情とぬくもりを感じる相手が失われてしまった。
1907年の後半4か月たらずのあいだに起こった美術アカデミー受験の失敗と母親の死は、若きヒトラーに二重の打撃を与えた。努力もせずに偉大な芸術家として名をはせるという夢が突然に破れ、ほぼ同時期に、頼りにしていた唯一の人を亡くしたのである。しかし、芸術の道に進むという夢だけは残った。将来の展望も環境も急激に変わったが、自分勝手な空想の世界に漂うだけのアドルフの生活は変わらなかった。1908年2月にウィーンに戻るが、母親が亡くなる前と変わりばえのしない怠惰で気ままな生活に戻っただけだった。しかし、居心地よく鄙びたリンツを離れ、ウィーンという政治的、社会的るつぼに移ったことは大きな転機だった。オーストリア帝国の首都ウィーンでの経験は、若き日のヒトラーに消えない痕跡を残し、ヒトラーに偏見と恐怖を決定的に植え付けることになる。
アウグスト・クビツェク
オーストリアの指揮者。 アドルフ・ヒトラーの青年時代の親友。
ウィーン国立歌劇場 1900年
ブルク劇場 ウィーン 1890年~1905年
グラーベン ウィーン 1900年
ウィーン美術アカデミー 1902年
アントン・ファイスタウアー「クリスティアン・グリーペンケール」1907年
ウィーン美術アカデミーの教授。アドルフ・ヒトラーがウィーン美術アカデミーを
受験した時(1907年、1908年)に入学を認めなかったことで亡くなった後で有名になる。エゴン・シーレは1906年合格し師事した。
アドルフ・ヒトラー「ウィーン国立歌劇場」1912年
アドルフ・ヒトラー「湖のほとりの家」1910年
アドルフ・ヒトラー「ノイシュヴァンシュタイン城」1914年
エゴン・シーレ「ほおずきの実のある自画像」レオポルド美術館 1912年
エゴン・シーレ「死と乙女」オーストリア絵画館 1915年
自分を認めなかったアカデミーにシーレらが迎えられたことについて、ヒトラーは後年まで恨みを抱いていたといわれる。ナチス時代に行われた、「退廃芸術」弾圧の際には、シーレの作品も各地から没収された。