「ヒトラーとは何者か?」6 ウィーン時代(2)「世界像と世界観が形成」?
ウィーンの下宿(ウィーン市第6地区シュトゥンペルガッセ29-31番地)の同僚クビツェクは、1908年2月末、ウィーンに出てきてすぐに音楽院(コンセルヴァトリウム、「ウィーン楽友協会音楽院」・「ウィーン音楽院」・「ウィーン音楽アカデミー」・「ウィーン国立音楽大学」と学校名が改称)の技能試験に合格し、正式な学生となる。そして、音楽院での地道な学習、勤勉な積み重ねにより、優秀な成績を修めて夏学期を終え、希望に満ちてリンツの両親のもとへ帰っていった。そして満20歳になったクビツェクは、音楽の勉強を中断して軍役を果たす。同年11月20日、短期の軍役を終えて、ウィーン音楽院での勉学を続行するためウィーンに戻るが、そこにアドルフの姿はなかった。アドルフはその1日前、下宿を去り、別の場所(ウィーン市第15地区フェルバー通り22番地)で一人で下宿生活を始めていた。音楽院でよい成果をあげ、軍役を終えて再び希望に満ちて勉学を再開する友に再会するには、自分があまりに惨めだったからだろうか。それも姿を消した理由だったかもしれないが、中心的な理由は別にあった。徴兵検査・兵役を逃れるためだ。アドルフはオーストリア男子として満20歳になると兵役義務があり、その日(1909年4月20日)が近づきつつあることを意識して、誰にも居所を知らせず、官憲から姿をくらますことを考えたのだ。
アドルフは、生まれ育ったハプスブルク帝国に忠誠心を抱いていなかった。それには帝国官吏の父への反発という面もあったが、それ以上にこの帝国が雑多な民族と言語で構成される多民族国家であることが気に入らなかったのだ。たしかにドイツ人には支配民族として特権的地位が与えられていた。しかしポーランド人やチェコ人など、それぞれに国民的な自覚を強め、ドイツ人と同等の権利を求めるようになった非ドイツ系諸民族の動きは、それに適切に対処できない帝国指導部の無力さもあって、帝国内のドイツ人を不安に陥れていた。ドイツ人としてのアイデンティティを強く持つアドルフにとって、そんなハプスブルク帝国で兵役に就くことなどありえないことだった。
アドルフは、1909年8月21日、フェルバー通りの下宿も引き払い、そこから遠くないウィーン第14地区ゼクスハウザー通り56番地の3階に居所を移している。そして、さらにその20日後の9月16日、その下宿からも下宿の女将にも何も知らせないで姿を消している。この日から、翌年1910年2月8日にメルデマン通り27番地の男子独身者寮(メンナーハイム)にきちんと登録して定住生活を始めるまでの5か月間、浮浪者のような住所不定の生活をする。この間、アドルフが利用した浮浪者収容所は、シェーンブルン宮殿に近いウィーン西南の第12地区にあったもので、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの保護・奨励のもとにユダヤ人富豪の財政援助により慈善事業団によって運営されていた。浮浪者には宿泊が許され、夕食としてのパンとスープが支給され、シャワーを浴び、服を消毒する機会が与えられた。しかし日中、収容所は閉鎖されることになっており、浮浪者は朝になると全員が収容所を出なければならなかった。アドルフがこの収容所で知り合ったラインホルト・ハーニッシュはこんな証言をしている。
「それは1909年秋のことであった。私が・・・マイドリングの浮浪者収容所を訪ねた時、並んでいた左側の列に一人の疲れ果てた足どりのやせた若者がいた。私はまだ農民からもらったパンを持っていたので、彼に分け与えた。・・・それから数週間、われわれはしばしば一緒に(浮浪者収容所で)過ごすことになった。・・・私は日雇いの仕事を探して日々のパンを稼いでいたが、私の隣人ヒトラーはほとんどいつもスープを(無料で)出してくれる施設へ行っていた。初雪が降った時、われわれは雪かき人夫として金を稼いだ。」
マイドリングの浮浪者収容所では名前や生年月日、身分証明書を提示することは要求されなかったので、アドルフにとって不本意ながら都合の良い施設だった。しかし、数か月に及ぶ放浪生活は、20歳の青年アドルフに言いようのない惨めさを味わわせたのであり、否定的、悲観的な人生観、現実の世界に対する憎悪の念を植えつけていったのである。
ヴィルヘルム・ガウス「貧しい人びとへの食べ物の配給」1911年
徴兵逃れが理由だったとは言え、若きヒトラーもこの中の一人を体験した
ヴィルヘルム・ガウス「ホフブルクの舞踏会」1900年 ウィーン市歴史博物館
ヴィルヘルム・ガウス「リンクシュトラーセの夜」
リングシュトラーセと帝国議会 1900年前後
ウィーン国立音楽大学 1812年創立
クリムト「ダナエ」個人蔵 1907年ー08年
クリムト「接吻」オーストリア・ギャラリー 1908年