墓雪便り
主人の妹さん(義妹)からLINEを通じて、亡き娘の遺骨を納骨した遠い故郷の霊園からのお墓参り写メが届きました。
祥月命日のある1月。
亡くなって最初の年は夫婦二人で帰省、翌年からは仕事のシフト上、連休が取れた方が泊まりで帰省していたのですが、このコロナ禍でさすがに今回年始の帰省は中止しました。
その代わりに、故郷在住の義妹さんや義母さんたちが行ってくれたようで、寒いところ大変申し訳なく思い、また本当に有り難いです。
📷寒そう~~、でも暑いのが苦手な子だったからなぁ(´・ω・`)……
「雪掻きして道を作らないと、お墓に到達できないぞ!」という実父からの事前情報も大袈裟ではありませんでした。
寒いだけでなく今冬は八戸でも雪深いと聞いていたので、お墓用の花ではなく「実家に飾って(あたたかいところで)想い偲んであげてくださいね」、という気持ちでアレンジメント生花を届けたのですが… しっかりお墓まで持って行ってくださったようです。
感謝☆m(__)m
そういや義妹にも女の子が二人います。
(私の姪っ子ですね)
娘の葬儀(お通夜)にも、旦那様と二人娘を連れ、家族揃ってさいたま市まで駆けつけてくださいました。
当時小学校6年生だった姪っ子(長女)は、新幹線の移動中にもずっとずっと泣き続けていたそうです。
(亡き娘と帰省中にもよく遊んでいた仲でしたので)
葬儀中にも我々家族よりも泣きじゃくっていて、本当に申し訳なく思いました。
その時は『自死であったこと』を幼い姪っ子たちにはやんわりと伏せていましたが、今はどうなんだろう?と、この『墓雪便り』が届いた時にふと思いました。
突然死ということで、ずっと通しているのだろうか。
いつか詳細について話すときが来るのだろうか、と。
(よその家庭のことですから余計な心配だと思いますけど)
義妹は教職に就いていますので、身内の学生自死については、どういう気持ちなのだろう?と、やはり周囲(職場など)には詳細を伏せているものなのか? それとも? と、気になったのです。
4年経った今だからこそ、周囲を気にかけるほんの少しの余裕も、私の中にやっと芽生えたのでしょうね(^_^;)。
そして、
『身内の恥だ』
事後半年後、初めて参加した(自死遺族以外の方々が開催している)自死遺族会で、参加者の口から語られた言葉と共に思い出されました。
確かに大変恐ろしい、悲しい事が起きてしまいました。
でも、『恥である』という思い、認識は、私の中に本当の本当に微塵もありませんでしたので、このとき『はぁ……?』と、正直ポカーンとなりました。
そして考えました。
ああ、この方の場合は、このような場でも自然に口からこぼれ出るほど、自死に対してそういう考え方や認識、概念をまわりから刷り込まれて育ってきたのだな、と。
私がそうではなかったのは、この方とは違う環境で育てられてきたからこその影響なんだな、と。
(学生時代に友人の自死や、義理叔父の自死にも遭いましたが)
私の両親は、家庭内でもそれについて現実的に考察する方向への会話をしていましたし、妙な憶測や戒めごとで忌み嫌うような姿勢ではありませんでした。
たまたまそういう考えの人たちだったのでしょうけど。
『身内の恥』という言葉を思い出すたびに、育ってきた環境やまわりの影響で刷り込まれたものは、自死遺族となってしまってからも消えないどころか強まっていくこともあるのだなと、考えさせられました。
遺族内外に在る自死への偏見を無くしていく方法があるとすれば、自分達より若い、まだ心(脳)の柔軟性のある世代への引き継がせ方でしか、徐々に変えられない気もします。
自死だって、からだの病死、事故死(判断ミス等)、イジメやパワハラが主因であれば殺人にも近い、他なんらかの突然死と同じように、それが心(脳)で起きたということなのでしょうけれど、昨今の新型コロナウイルスのようにまだ解明されていないことも多く、どちらかといえば嫌悪感を抱く死因に分類されてしまいがちですよね。
ましてや心の中のことは、もっと分かりにくいです。
人は、見えないモノへ抱く恐怖心を必要以上に大きくしてしまうとも思うので、不安回避のため、憶測や方向違いの理由付け、戒めごとでの防止策が情報として流れ出す場面もあり、偏見で忌み嫌う人も後を絶たないのでしょう。
この手の話しになると、長くなってしまいます(^_^;)。
でもいずれ、若い世代の教育現場で仕事をしている義妹にだからこそ、こうした突っ込んだ話しをしてみたいと思っているのです。
(もしかしたら私などよりもっとちゃんと様々な角度から考えているのかもしれない)
そして向こうは必要以上に気遣ってくれているのでしょうから、開いていくとすれば自死遺族当事者の私から。
◆自死遺族の集い