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【在日朝鮮蹴球団に憧れた倉敷のサッカー少年】〜『魂の漢 李漢宰』特別インタビュー前編~

2021.01.27 07:00

 2020年12月25日。FC町田ゼルビアは一人の“漢”の引退を発表した。

 20年間在日コリアンを象徴するフットボーラーとしてキャリアを創り、後輩達の道しるべで在り続けた漢、李 漢宰(リ・ハンジェ)だ。


 2001年に、朝鮮高級学校卒業で初めてとなるJクラブストレート入団を果たし、サンフレッチェ広島、北海道コンサドーレ札幌、FC岐阜、FC町田ゼルビアと4クラブを渡り歩き、多くのファン、サポーターに愛されてきた。

 2005年に埼玉スタジアムで行われた『2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 日本代表 vs 朝鮮民主主義人民共和国』戦のピッチ上で戦い続ける“李漢宰”の生き様には、在日コリアンの誰もが心から感動し、勇気を貰い、希望を抱いた。


 李漢宰氏が残した功績は計り知れない。次世代のサッカー少年達は、李漢宰氏のキャリアから何を学び、何を受け継がなくてはいけないのだろうか。今回のインタビューで語ってくれた『魂』と『アイデンティティ』を余すこと無く伝えたい。

 前編では、在日朝鮮蹴球団に憧れた李漢宰氏の“少年時代”に迫るーー。


幻の日本一「在日朝鮮蹴球団」に憧れた少年時代

ーー20年間の現役生活お疲れ様でした。今回は学生時代から今までのサッカー人生を振り返ってお話聞かせてください。まずは、サッカーをやっていた学生時代にプロを意識し始めたキッカケなどはありましたか? 


:「ありがとうございます。キッカケは、在日朝鮮蹴球団(以下、蹴球団)の存在が大きいです。小学校高学年の時に当時の蹴球団が全国遠征をしていて観に行ったのですが、そこでは、金鐘成監督(キン・ジョンソン/元鹿児島ユナイテッドFC監督)や、梁圭史さん(リャン・キュサ/現ファジアーノ岡山トップチームコーチ)などがプレーしていたんです。先輩達は朝鮮民主主義人民共和国の国家代表としても活躍されていて、自分も蹴球団に入り代表になるんだと決意したのを鮮明に覚えています」


ーー1993年にJリーグが開幕すると同時に、申在範氏(シン・チェボン/当時ジェフユナイテッド市原に所属)が在日コリアン初のJリーガーになられました。目指していた蹴球団とは別の選択肢も広がった中、当時の心境に変化はあったのでしょうか?


:「夢を曲げることはありませんでした。ただ、僕が最初に憧れた選手はまさに、申在範選手でした。小学5,6年の時にJリーグが開幕したんですが、僕が通っていた倉敷朝鮮初中級学校の先生である李雄輝先生(リ・ウンフィ)と申在範選手が同級生だったのもあり、『こういう選手がいるよ』と教えてくださったんです。それで、一気に虜になりました。当時はジェフの試合もテレビで観戦出来たので、どんどん好きになって、千葉まで会いに行ったほどです。岡山の倉敷という田舎で、ジェフの真っ黄色のウェアと短パンとストッキングを身に纏っていましたね。(笑)もちろん、三浦知良選手やラモス瑠偉選手などにも憧れましたが、僕のなかでの一番のアイドルは申在範選手でした」

   

ーー申在範選手に憧れた事によってJリーガーになろうとは思わなかったんですか?


:「はい、在日朝鮮蹴球団で活躍し、国家代表になるんだという夢がブレることは無かったです。少し熱すぎた一面がありましたね」


「在日朝鮮蹴球団」とは、在日朝鮮人で構成されたサッカークラブであり、かつては日本の強豪クラブチームと親善試合などを重ね『幻の日本一』とも言われ「チュックダン」(在日朝鮮蹴球団の通称)の名を全国に轟かせた。在日コリアンのサッカー少年が憧れたサッカーチームだ。

広島朝高を全国大会に導くという“約束”を果たす為に
   

ーー高校時には、広島朝鮮高級学校(以下、広島朝高)に進学されますが、中学時から朝高でプレーするということは決めていたんですか? 


:「広島朝高に入学するまでも色々な経緯がありました。僕は朝鮮学校にこだわってやってきたし、小さい頃から蹴球団の姿も見ていました。と同時に、全国大会であるインターハイや選手権に出れずに、もどかしさを抱えたヒョンニン達(日本語訳でお兄さん/当時の朝高サッカー部の先輩達)の姿も見ていましたからね。広島朝高サッカー部のヒョンニン達が岡山に遠征に来て、強豪校を次から次へと破っていくんですが、それ程の実力を持っていても規定によって全国大会に出場することが出来なかったんです。そこで僕は決心しました。自分が朝高に行って、インターハイや選手権に導くんだと」

   

ーー幼い時から先輩達の姿を見てきたからこその、強い決心だったんですね。


:「そうです。小学校1,2年の頃、後に広島朝高サッカー部で指導して頂く事になる、高隆志先生(コ・リュンジ)と一つの約束を交わしました。それは、僕が広島朝高サッカー部をインターハイ・選手権大会に連れて行くという約束。僕はその約束を果たす為にやってきましたから、中学3年生の頃には日本の高校やユースチームからもお誘いの話はありましたが、もう迷わなかったですね」

 

 当時朝鮮学校は、各種学校という理由で高体連主体のインターハイや全国大会の出場が認められていなかった。世論の声や権利運動のなかで1994年にインターハイ、翌年に全国高校サッカー選手権の出場が認められた。

 李漢宰氏は、幼い頃に交わした自身の約束を覚えていた。その約束を果たす為に、愚直に努力し続け確かな実となり、錚々たる全国の強豪チームから声が掛かるようになっていた。更にレベルの高い環境に身を置き、自身に磨きをかけるという選択肢も大いにあっただろう。

 しかし李漢宰氏は、朝鮮学校にこだわった。ここから激動の人生が始まる。


強い信念を胸に。誰よりも走り、練習した日々。
   

ーー夢を追いかけた広島朝高サッカー部では、どんな日々を送っていたのでしょうか? 


:「私は朝高に入った瞬間から絶対にインターハイ・選手権に出るんだという強い決心のもと日々を過ごしていました。後ろを振り向く時間はなかったですし、真っ直ぐに目標に向かう毎日でした。ただ、今振り返ってみると自分の想いが強すぎたし、もう少し後ろを振り向いても良かったのかなと、内省しています」


ーー「後ろを振り向く」とは?  


:「結局のところ、自分が居た3年間で全国大会に出場することは出来なかったんです。高3の時はチュジャン(主将)もしましたが、『とにかく俺に付いてこい』という姿勢だった。妥協する選手が居たら、引き上げることもしましたが、基本的には話し合い等はしませんでした。愚直に、なおかつ、『もっとやろう!』と接し過ぎたあまりに、チームをまとめることが出来ず、仲の良かった友達関係にヒビが入ってしまった時期もありましたね」

   

ーーもう少し周りの歩調に合わせても良かったと。   


:「そうです。ただ、だからといって皆の気持ちを汲み過ぎていたら、自分自身がここまでのキャリアを歩ませてもらえなかった可能性もあります。だから後悔は無いですし、僕が後に町田ゼルビアでキャプテンを任された時も当時の経験を活かすことが出来たと思っています」


ーー個人の想いとチームの方向性を擦り合わすことの難しさを痛感されたんですね。   


:「皆にも『全国大会に出たい』という気持がありました。ただ、全国大会に出場する為には広島の強豪・広島皆実に勝たなくてはいけないし、広島皆実に勝つ為には、普通の努力じゃ駄目だった。皆も相当走り込んでいましたけど、僕はそれ以上に、誰よりも走りましたし、誰よりも練習をしました。朝練が始まる前の早朝のトレーニングから始まり全体練習が始まる前に練習をして、全体練習が終わった後も練習をしました。青春時代にあった欲はすべて捨て去り、サッカーに全てを注ぎました。今あの時に戻れと言われても、戻れないくらい、朝から晩まで追い込んでいた記憶があります」

 

 周囲を圧倒する程の勢いで走り続けた李漢宰氏であったが、ある日突然、その強い決心を揺るがす出来事が起きる。夢であり目標であった在日朝鮮人蹴球団の“解散”だ。

 幼い時から蹴球団でプレーし、国家代表になることを夢見ていた。その為だけに生きてきたと表現しても決して過言ではないだろう。

 李漢宰氏は、当時の事を鮮明に覚えていると話してくれた。「高校2年の時に、在日朝鮮人蹴球団が解散したことを高隆志監督から告げられました。どうしたらいいんだと頭が真っ白になりました。ただ、そのショックが一つの転機を引き寄せてくれたんです」

 

ーー解散のショックから、どういった転機があったんでしょうか?


:「僕は本当に運がいいんですが、解散を告げられてから一週間も絶たないうちに、高隆志監督から『サンフレッチェ広島から練習参加の打診がある』と言われたんです。悩む時間も無かったですし、考える時間も無いくらいに次の道が開けていきました。それは僕の運が良かったかもしれないですが、一つ確実に言えることは、僕を支えてくれてる方達が導いてくれたという事です。そうして僕はサンフレッチェ広島にテスト生として出向くことになりました」

   

 李漢宰氏は「幼い頃から抱いた在日朝鮮蹴球団でプレーするという夢を曲げることは無かった」と話す。仮に蹴球団が解散せずに存続していたとするなら、夢変わらずプレーしていたのかもしれない。その運命は誰にも分かり得ないが、李漢宰氏の強い信念が、次なる進むべき道を手繰り寄せたのは間違いないだろう。

 これまで少年時代について、あまり語られることが無かった。計り知れない功績を残したその背景には血と汗が滲む努力があった。我々はその事実をしっかりと受け止め、夢を叶える為には謙虚にやり続ける事が大事だということを学び、受け継がなくてはならない。猛烈に、一心に、夢を追い続けたからこそ、ここまでのプロサッカーキャリアを歩めてきたのだ。


 続く【魂の漢『李漢宰』特別インタビュー中編】では“異例のストレート入団”となったサンフレッチェ広島入団までの経緯や、プロ入り後の苦悩などについて語って頂こうと思う。