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粋なカエサル

「ヒトラーとは何者か?」7 ウィーン時代(3)ウィーン市長カール・ルエーガー

2021.01.24 00:01

「ヒトラーとは何者か?」7 ウィーン時代(3)ウィーン市長カール・ルエーガー

 失意と放浪の生活を通してアドルフはウィーンの裏面に漂うみじめな人びとの生活の実態、政治社会問題などに関心を向け、観察するようになっていた。1848年の三月革命でメッテルニヒ体制が崩壊し、市民による政治が始まると、19世紀後半以降の産業革命と市の発展のもとで、生活と職場を求めて流入した多大な数の農民により、ウィーン市の人口は、45万人(1850年頃)から、アドルフのウィーン時代には200万人以上に激増。そしてまともな生活や職場からあふれた人々の群れとその哀れな姿は、彼のウィーン時代のみじめさを一段と深いものにする大きな要因となったのである。

「ウィーンは世紀が変わってから、社会的に不健全な都市に属していた。輝かしい富と厭うべき貧困とが互いにきわだって交錯していた。・・・高級士官、官吏、芸術家や学者の軍勢に対し、もっと大きな労働者の軍勢が対立しており、貴族主義と商業の富に血のにじむような貧困が対立していた。・・・社会問題を研究するのにウィーンほど良い都市はドイツでは他になかっただろう」(ヒトラー『我が闘争』)

 しかし、彼が『我が闘争』の中で、ウィーン時代に「自らの世界観の基礎、政治の見方を学び、それが以後の彼の政治活動の確固たる基本になった」「自分が作り上げたその世界像、世界観以上に学ぶべきものはなく、その後個々に補足を加える必要があっただけである」と書いているが大いに疑問である。彼がウィーン時代に熱心に読書し(アドルフに接した人々が、みな口をそろえて、彼をたいへんな読書家といっている)、雑誌や新聞などにもよく目を通し、その時々の思潮について関心を示し、いろいろと考えを巡らしていたことは十分推量できるが、彼の人種論や反ユダヤ主義、反ボルシェビズムや闘争意識などは、まだ形成されていなかった。そもそも彼の読書スタイルは、彼自身も述べているが、体系的な読書ではなく、拾い読み的な読書法だった。

「読書とは一字一句全てを読むべきものではなく、自分の考えや思想に役立つもの、価値あるものを分類、整理し、採り入れることにより、自らを高め、自らの思想や世界観、信念をより確かなものにするための手段なのである」(ヒトラー『我が闘争』)

 ウィーン時代のアドルフが評価し、少なからずその影響を受けた人物は二人。汎ドイツ主義者ゲオルク・リッター・フォン・シェーネラー(1842-1921)と、当時のウィーン市長カール・ルエーガー(1844-1910)。シェーネラーの主張の中核は、ドイツ的なるものの優位を求める急進的ドイツ・ナショナリズム、社会改革、反自由主義の大衆民主主義、人種主義的反ユダヤ主義。ヒトラーを除けば「オーストリアが生んだ最も強硬で徹底的な反ユダヤ主義者」であり、その反自由主義、反社会主義、反カトリック、反ハプスブルクのイデオロギーを反ユダヤ主義でつなぎあわせていた。アドルフがシェーネラーの思想に触れたのはリンツでのことだが、ウィーンにやって来た頃には、老いたシェーネラーは大衆の支持を失いつつあった。アドルフはシェーネラーの政治哲学は正しいと考えたが、彼が不毛な議会主義に参加する意思を示したこと、カトリック教会を敵に回したこと、そして何よりも大衆を無視したことを後に批判するようになった。これらの点についてアドルフは、シェーネラーとならぶオーストリアの大物政治家カール・ルエーガーから学ぼうとした。

 ルエーガーは下層中産階級や職人層など「生存を脅かされた階級を味方につける」ことで支持を広げ、ポピュリズムのレトリックと熟達した大衆扇動で人々を酔わせた。1908年にアドルフがウィーンにやって来た時、ウィーンはルエーガーの都市だった。親ハプスブルクでカトリック色の強いルエーガーの主張はアドルフにはさして魅力的ではなかった。彼がウィーン市長ルエーガーから受け継いだのは、いかに大衆を統制し、「目的を達成するために」運動を作り出し、支持者たる大衆の「心理的本能」を操るためにプロパガンダを使うかであった。この点は後々までヒトラーに多大な影響を残すことになった。

フロイト(右)とトロツキー(左)

フロイト【1856-1939】 1922年  1900年に『夢判断』を発表

 ボヘミア出身のユダヤ人で、3歳の時ウィーンへ移住。ウィーン大学で学ぶ。ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ、臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。

トロツキー【1879-1940】 1929年   ウクライナ出身のユダヤ人

 1905年12月に逮捕されシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命(1914年まで)して雑誌『プラウダ』で永続革命論を提唱した。

ゲオルク・フォン・シェーネラー 1893年

ヘルマン・ニグ「カール・ルエーガー」1876年

ヴィルヘルム・ガウス「プラーター目抜き通りで市民に囲まれるカール・ルエーガー」

ウィーン市庁舎とカール・ルエーガー市長

「カール・ルエーガー記念碑」カール・ルエーガー広場 ウィーン

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 1903年 在位:1848年ー1916年