1月17日(日)降誕節第4主日(公現後第2主日)
「漁師から弟子に」
マタイによる福音書 4章18~25節
イエス様の最初の弟子になった人たちは、ガリラヤ湖で漁をする漁師たちであったと、今日の箇所は記しています。彼らは、ガリラヤ湖の漁師として生計をたて、家族を養い、漁師という仕事に誇りをもっていたと思います。彼らは漁師としての仕事に励みながら、漁に適した天候や漁の方法などに長けたプロフェッショナル意識も持っていたと思います。そのような彼らが、イエス様に声をかけられて弟子になっていったのです。
ところで、ガリラヤの漁師であった彼らが、イエス様についていこうと決心したとき、ある者たちは「網を捨てて従った」、また他のある者たちは「舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。実に、イエス様に従った者たちは、イエス様についていこうと決断したとき、それまで大事にしていたもの、大切にしてきたことを手放したり、捨てたり、置いてきています。漁師にとって、舟や網は仕事上また生活上必要不可欠な大事なものですし、それがなければ漁師にとっての仕事にならないわけですから、それらを手放すということは、とても大変なことです。
このことは、宗教的にも信仰的にもとても興味深いことをわたしたちに教えていますから、このところにしっかりと焦点を当て、そこから信仰の学びと信仰の糧を与えられていきましょう。
ユダヤやガリラヤの多くのユダヤ人は、歴史的にメシア待望を抱きつつ、歴史を耐え時代を乗り越えてきた人々と言ってよいと思います。メシア待望の実現のためなら大抵のことは犠牲にできる人たちであったと思います。そのような彼らですから、イエス様に救い主としてのメシア実現を予感したとき、何もかも手放して従うということは自然なことであったかも知れませんね。
ところで、旧約聖書の創世記には、神様がソドムとゴモラが滅ぼされようとするとき、逃げるロトたちに「後ろを振り向いてはならない」と警告しています。この神様のお言葉には、大事なものを手放して従っていくとか後ろを振り向かないで前に進んで行くという、宗教的信仰的に重要な大事な真理が示されていると思います。
わたしたちは、たいてい積み重ねによって何かを習得したり、豊かになったり、満足したりします。仕事にしても、楽器の練習にしても、スポーツにしても、勉強にしても、得たいものを得るために、修練を積み重ねたり、努力を積み重ねたり、我慢したり、倹約を重ねたりしていると思います。ところが、他方、宗教や信仰の世界では、真理中の真理を得るために、捨てる、とか、手放す、とか、振り向かない、というまったく逆のことが求められます。わたしたちは、今までのことを無駄にしたくないと思いますが、どうも、こと宗教的真理や信仰的真理となると、今までのことを無駄と思えるほどのリセットが求められるように思います。そして、それが宗教的信仰的真実でもあると思います。
こうした真理性は、聖書全体を通して通奏低音のように一貫して流れています。わたしたちは、旧約聖書でも新約聖書でも、「悔い改め」とか、「改心」とか、「回心」という文言によく出会います。実は、そのような文言のなかに、神様の真理、また、イエス様の福音に対して、求められているわたしたちのあり方生き方が示されているように思います。
積み重ねによって自分という存在の価値を高めるというあり方や生き方がある一方、自分という存在に付いている何もかもを手放したり捨てたりするというあり方や生き方があり、実にこのように相反する在り方生き方が交差する場が宗教であり信仰だと言ってもよいかも知れません。仏教の悟りや無我の境地にしても、キリスト教の神の絶対愛や聖化の教えにしても、このことがわかってこないと信仰の真髄の片鱗さえ身に付かないのだと思わされます。
そのような意味で、「網を捨てて従った」、「舟と父親とを残してイエスに従った」という文言に心を留めることは信仰者にとって求められてくることなのです。
積み重ねの延長線上でとらえる宗教や信仰と、「手放す」、「捨てる」、「振り向かない」でとらえる宗教や信仰とでは、決して同じものにはならないでしょう。確かに、この世の只中を生きるためには、積み重ねることをもって何某かを得ることは大事であり避けることはできません。他方、「手放す」、「捨てる」、「振り向かない」を知らなければ宗教的あるいは信仰的真髄には触れられないと思います。そして、このことは、究極的に、「なくてならないものはなにか」ということについて、わたしたちに教え、わたしたちを導いていくと思います。信仰の道に入った人たちは、大なり小なりそのような葛藤を覚えるのではないでしょうか。そのような葛藤のない信仰だとしたら、ちょっと疑問に思ってよいと思います。イエス様についていった弟子たちも、イエス様の神の国の福音に接し葛藤していますし、イエス様ご自身の行動やふるまいに葛藤しています。イエス様の十字架に至ってはさらに葛藤が深まっていったように思います。
わたしたちは、弟子たちに倣いながら真に求道してくとき、まことの神様以外神としない、イエス様以外救い主としない、この世の諸価値を絶対化して振り回されないで神の国の福音の真理に信仰の基を置くことに導かれていくとき、そのような信仰を与えられることで、絶対化すべきでないものを絶対化せず、偶像化すべきでないものを偶像化せず、ものごとの本当の意味での真実に触れていくということも知っていくことができるのではないでしょうか。