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<古池や>と行間の曖昧性に関する一考察?翻訳と 異文化理解をめぐって?

2018.01.24 04:03

file:///C:/Users/minam_000/Downloads/keizaironshu41-2_029-038%20(2).pdf  【<古池や>と行間の曖昧性に関する一考察?翻訳と異文化理解をめぐって?】 より

1.はじめに

外国語の詩を翻訳するとき、韻を訳すことはうまくいかないと誰もが感じている。とにもかくにも、その内容、意味を伝えるだけが主になってしまう。その逆の、日本語を外国語に訳すときはどうなのであろうか?日本語には主語を明示しない曖昧性もある。<古池や>の俳句のカエルは一匹だけなのであろうか?曖昧な表現こそが日本語らしさ、日本文化の一面であり、そこに美意識が感じられるのかもしれない。異文化理解というとき、単に意味だけの問題ではなく、行間というか、それぞれの文化の根底に流れる精神をどこまで理解してもらえるかが肝要になってくるように思われる。この曖昧性の問題の一端を本稿では検討したい。1)

2.翻訳に際して̶その姿勢、スタンス

詩における翻訳の場合、元の詩が定型詩であり、韻を踏んでいる場合、そのままの音での翻訳は本来、難しい。内容の訳が中心になるのであるが、意味を訳すといっても、その姿勢にはいろいろな立場がある。イギリスの詩人、ドライデン(John Dryden, 1631-1700)が訳について次のように述べている。

1)本稿はパネリストとして参加した東洋大学・人間科学総合研究所のシンポジウム「異文化理解と外国語教育--翻訳とコミュニケーション」(2015年11月7日)における口頭発表(“翻訳と美意識の関係性”)に加筆したものであり、Romualdo Del Bianco 財団における発表(“Globalization and the Mutual Understanding̶from the Viewpoint of Translation”)につながる予定である。(2016年3月13日Firenze )

All Translation I suppose may be reduced to these three heads: First, that of Metaphrase, or turning an Authour word by word, and Line by Line, from one Language into another. . . . The second way is that of Paraphrase, or Translation with Latitude, where the Authour is kept in view by the Translator, so as never

to be lost, but his words are not so strictly followʼd as his sense, and that too is admitted to be amplified,

but not alterʼd. . . . The Third way is that of Imitation, where the Translator (if now he has not lost thatName) assumes the liberty not only to vary from the words and sence [sic], but to forsake them both as hesees occasion: and taking only some general hints from the Original, to run division on the ground-work, as he pleases. (Hooker, pp.114-15)

ドライデン自身はこの引用の先のところで、訳者としての立場について単なる訳を超えると自ら認めていて、この姿勢は現代においても評価されている。2)

18世紀はイギリス文学における古典派(擬古典派)の時代であり、ポープ(Alexander Pope,

1688-1744)もホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』を訳すことで、当時としては珍しく経済的な基盤を確立することができた。ポープの訳はドライデンの言うメタフレーズではなく、ホメーロスの原文にかなりの自由裁量を加えていることから、厳密な意味でのパラフレーズとも異なっている。ポープの時代は近代的な西洋古典学の確立以前で、テキストの本文校訂が完成しておらず、現在においては必ず見られるアクセント記号、気息記号などは明示されていなかった。

ドライデンが3つ目に挙げているイミテーションは模倣といってしまうとネガティヴな印象を与えるが、日本の和歌における本歌取りの世界などを考えると、イミテーションまた2つ目のパラフレーズに近いスタンスを見出せると思われる。イタリアの14行詩ソネットはエリザベス1時代(ルネッサンス時代)にイギリスにもたらされる。その代表作ともいえるトーマス・ワイアット(SirThomas Wyatt, 1503?-42)の “My galley chargèd with forgetfulness” はペトラルカ(Petrarca, 1304-74)のソネット(“Passa la nave mia colma dʼoblio”)のパラフレーズ(自由裁量が加わった本歌取り)であるが、後者が書いたイタリアの地名などは省かれ、恋に苦しむ詩人の絶望的な世界観が再構築されている。(近藤、pp.3-5)

3.和歌・俳句と翻訳

次に、日本語から英語への翻訳のときの行間にひそむ曖昧性の問題をとりあげたい。ピーター・マックミランは『百人一首』の猿丸太夫の次の和歌を2通りに英訳している。(マックミラン、pp.37-38)

2)ドライデンは “Ovidʼs Epistles” の序の終わりで次のように述べている。

For my own part I am ready to acknowledge that I have transgressʼd the Rules which I have given; and taken more liberty than a just Translation will allow.(Hooker, p.119)

Charles Tomlinson(参考文献の序文参照)は詩の翻訳者としてのドライデンに高い評価を与えている。

奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき

A                       B

Autumn at its saddest̶              How forlorn the autumn,

Rustling through the leaves           Rustling through the piled up leaves

and moving on alone              and moving on alone

deep into the mountains,            into the deep mountains̶

I hear the lonely stag              the plaintive belling of the stag.

belling for his doe.

ここでマックミランは主語が曖昧であるとし、Aでは人間を主語と明示しているのに対し、Bでは主語が鹿とも人ともとれる曖昧な表現3)をとり、より原詩に近いとした。

この和歌は『百人一首』では猿丸太夫作となっているが、『古今和歌集』ではよみ人しらずの歌となっていて、日本語の読みのレベルにおいてもさまざまな問題を内包している。<こうよう>、<もみぢ>と聞いた場合、それは紅葉、あるいは黄葉いずれにも解釈できる。『百人一首』以降、現在ではこの和歌には<紅葉>の字があてられている。赤の色は生命を象徴していて、鹿が相手を求めて鳴く声は、晩秋の山々に澄み切って響くことであろう。紅葉のあとにその葉はかさかさになって落ち葉となりその命を終えるが、腐葉土となり次世代の栄養となって命の継承が行われる。

鹿、落ち葉など自然の状況と人生の終末、命のサイクルが見事に重なり合っている。そこには詩人の寂寥感も重ねることができる。しかしながら『古今和歌集』ではこの和歌は萩のうたとならべられている。このことから、葉の色は黄色(契沖の説)と解釈でき、その場合は晩秋ではなく中秋のころをさすことになるのである。(近藤、pp.43-44)

都心の神宮外苑、東大の本郷キャンパスなど、いちょうの黄葉の美しい並木を目にすることができる。アメリカの詩人ロバート・フロスト(Robert Frost, 1874-1963)は人生の選択を作品(“The RoadNot Taken”)の中で、分かれ道に重ね合わせたが、ここに描写されたのは黄色の森であった。京都のお寺、庭園を始めとして、日本各地には紅葉の名所が数多く存在している。海外においても黄葉だけではなく、カナダの国旗に象徴されるように楓の紅葉も見られるのである。<もみぢ>、<こうよう>を赤、黄色いずれに訳すのか、この一つをとっても翻訳には解釈の幅が生まれることになる。

3)東洋大学における講演(「日本文学の素晴らしさ̶世界への架け橋」井上円了哲学塾公開講座 2015年12月19日)においてもマックミラン氏は主語がはっきりしない曖昧性を強調された。

次に松尾芭蕉(1644-94)のカラスの俳句について考えたい。

枯枝に烏のとまりけり秋の暮という句をドナルド・キーンは以下のように訳している。(キーン、[1999]pp.14-16)

On the withered bough

A crow has alighted:

Nightfall in autumn.

ここでは秋の暮が、一日の終わりの意味での日暮れなのか、また季節の終わりとしての晩秋の意味なのか、またカラスが一羽なのか複数なのか、日本語の曖昧性をキーン氏は指摘する。キーン氏はまた、日本の美意識として4つの要素を挙げている。すなわち「暗示、または余情」、「いびつさ、ないし不規則性」、「簡素」、「ほろび易さ」であり、この芭蕉の句は、曖昧性と相俟って、その暗示が言葉を超越しているという。(キーン、[1999]pp.7-37)4)

<暮>の語と関連して、日本語のたそがれ、かわたれ(どき)は薄暗くて誰なのか、わからないという意味である。前者を夕方、後者を明け方と一応区別している。一方、英語であの人は誰と問うとき、ʻWho is he/she?ʼ となってしまって、この日本語の微妙な感覚を訳すことは難しい。また黄昏という表現には人生の終わりの意味もあり、<暮>を最晩年の句で、芭蕉はこの意味に用いている。

此道や行人なしに秋の暮

これは芭蕉の辞世の句の、ʻ旅に病んで夢は枯野をかけ廻るʼ に表わされる、旅人としての芭蕉の心意気を思い浮かべることで、秋の暮に人生の終末をしみじみ重ねあわせた芭蕉の心中を推し測ることができるのである。

キーン氏が挙げているカラスの単数・複数についての問題であるが、長谷川氏がその著書で明快な説明を行っている。(長谷川、pp. 147-66)このカラスの句につけられた絵が3枚現存し、その中にはカラスが一羽のものと複数のもの(全部で27羽)があるという。

4)キーン氏は『古典の愉しみ』の中で、美意識のこの4つの要素に次のような英語をあてはめている。

出光美術館に2作品があって、短冊(画句共に芭蕉の自筆)、と絹布に描かれた墨絵(句は芭蕉、画は許六)にはカラスが一羽、枝にとまっている。複数のカラスがいる絵は早稲田大学図書館所蔵のもの(句と文は芭蕉、絵の作者は不明)で、枯れ木に7羽がとまり、残り20羽は集団で木の上を飛んでいる。カラスの数の違いがどこからくるかと言うと、芭蕉の句で、一羽(単数)の絵の場合には上述の句のように ʻからすのとまりけりʼ となっている。複数のカラスが描かれる場合には、ʻ枯枝にからすのとまりたるや秋の暮ʼ と動詞の部分が異なっている。長谷川氏の説明では複数の方は「からすがとまっているなあ、秋の暮だなあ」という意味を表わし、この場合、カラスの数は特に問題とはならない。しかし、<とまりけり>となると、回想の助動詞の ʻけりʼ を使うことで、「一日の終わりに、日も暮れた。この静かな景色の中で、枝にからすがとまっていた」という、実景描写ではない、からすの姿をふっと捉えた芭蕉の心を表現したものになるという。

長谷川氏は次の英訳にこの句の世界観が表わされているとして紹介している。

Autumn evening;

A crow perched

On a withered bough. (Reginald Horace Blyth, 1898-1964)

動的なカラスに対して、秋の暮という、そのまわりの自然・情景、どちらにより心を寄せるかで、この詩(句)の解釈は異なってくる。単に秋の暮れを前にもってきて訳すか、あとに持ってくるかの違いではない。芭蕉の句の行間に浮かび上がる世界観をどのように読み解くかで訳は変わってくると言える。ここまで考えて訳をするのが文学者の翻訳になると思うが、曖昧性、行間を読み取る力を、異なる文化圏の読者にどこまで認識・理解してもらうのか、異文化理解を考える上で大きな問題になると思われる。

アメリカ文学でカラスというと、ポー(Edgar Allan Poe, 1809-49)による有名な “大鴉”(“TheRaven”)の作品を思い起こすが、夜中にばたばたと羽ばたいて詩人の元へと不気味に登場するこのカラスは、強い個性というか、人格を備えている感すらある。芭蕉の句に登場するカラスにこのような個性を見いだすことはできない。

カラスの句と同じように、カエルの句についても切れ字と単数か複数かという問題、その世界観について長谷川氏は論じている。カエルの句というのは有名な、古池や蛙飛こむ水のおと であり、長谷川氏の論を簡潔にまとめると、「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池が浮かんだ」、つまり蛙は一匹、水の音も一度きりというのである。(長谷川、p.168)この蛙の句の英訳をインターネット上で探せば、限りなくさまざまな例を見ることができる。5)筆者の担当のクラスで学生たちに質問をしたときも、ほとんどの学生が一匹の蛙とぽちゃんという音の世界を想像した。芭蕉の心の中に思い浮かんだ蛙、また古池の水面に広がっていく小波の輪の静かな風景の様を想像するならば、カエルは一匹の方がいいのかもしれない。このカエルについて一つの見方を考察したいのだが、その前にいくつかの英訳をみておきたい。

Old pond̶frogs jumping in̶sound of water

(Lafcadio Hearn)

The ancient pond

A frog leaps in

The sound of the water (Donald Keene)

pond

frog

plop! (James Kirkup)

カエルの数はやはり解釈によって異なってくる。また古池の大きさもはっきりとはわからない。

カエルの句は蕉風開眼にもなったと言われる句であるが、それは、『古今和歌集』(905年の勅令により編纂)の序で「花に鳴く鶯、水にすむかはづのこゑをきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」というカエルの見方に対して新たに、飛ぶ蛙(水の音)の世界観を開いたからであった。6)

さて先に提起した、考察したい見方についてであるが、蛙は今は俳句では春の季語になっている。

『古今和歌集』にみられるかはづのうたは、巻二春歌下にある。(「かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」)ふつう春のカエルは繁殖期のため水辺に集まっている。つまり決して一匹ではない。

5)Cf. http://hotonoha.blogspot.jp/2011/08/blog-post_1719.html

Hearn(小泉八雲)の訳には jumped in と jumping in があり、以下の引用では後者(Hearn、[1971], p. 164)をとった。

6)『古今和歌集』(仮名序)p.7. 雲英、p.56.

芭蕉の庵のあった深川あたりのカエルだとトウキョウダルマガエルか、ツチガエルの可能性が、また古池の言葉から山際のお寺の池の近くであれば、ヤマアカガエルになるであろうと生物学の立場からは考えられている。(浅間、p.107)

トウキョウダルマガエルの生態は11月頃から3月までは冬眠、4月から6月にかけて産卵期となる。5月から7月にかけておたまじゃくし、また時期が重なるが変態して(6月頃から)幼体のカエルとなり陸上生活に入る。11月頃には冬眠に入るので陸上生活は10月ごろまでと考えられる。

(浅間、p.95)幼体のカエルになるということは陸上に上がるということで、それは肺呼吸をするようになるからである。その後、繁殖期以外でわざわざ池に入るのは、逃げるときなどの特別な場合と考えられるのである。

鹿と紅葉のところでのべたような寂寥感を蛙に求めるのであれば、秋に冬眠に入るのが遅くなったカエルが慌てて飛び込むさまになるのであろうか、しかし実際にこの風景を見ることが難しいのはカエルの生態からも明らかである。長谷川氏は、下記のように蛙の数について述べている。

(長谷川、pp. 168-69)

実際には蛙が何匹いようが水の音が何度聞こえようが一向に構わない。しかし、それが一句になった瞬間、蛙は一匹であり水音は一度きりしか聞こえない。古池の句の蛙は複数いるとする説は現実の世界と一句の中の世界をごっちゃにしているのではなかろうか。

つまり、蛙の句は芭蕉の心象風景であって、実景ではないということになる。

上述の3種類のカエル、トウキョウダルマガエル、ツチガエルとヤマアカガエルは土色の風貌でお世辞にもアマガエルのように緑色が鮮やかな、きれいなカエルとは言えない。このカエルの色にもこだわって、芭蕉を本歌取りしたというか、あるいはドライデンのいう、イミテーションの翻案をした作家がいる。

おれの頭の中にはいつも薄明い水たまりがある。水たまりは滅多に動いたことはない。

おれはいく日もいく日も薄明い水光りを眺めてゐる。と、突然空中からまつさかさまに飛びこんで来る、目玉ばかり大きい青蛙!おれの詩はお前だ。おれの詩はお前だ。

「おれの詩」という芥川龍之介の小品である。(芥川、[1989]pp. 401-02)ʻ不世出の天才ʼ と芥川は芭蕉のことを評した。7) 芭蕉の古池の世界からは、かけ離れてしまっているかもしれないが、しかしながら、<飛ぶ蛙>を芥川流に解釈した作品といえるのである。

先に述べたカラスについても、実景と芭蕉の心の中の風景には差があると思われる。私たちの周りにもカラスは多くいて、ゴミ収集日の彼らの行動をみればその頭の良さを感じることができる。

ただ夜は安全のために何十羽、何百羽と群れをつくりがちであるという。一年を通じての夜間の行動については、「繁殖初期のペア、夏の小集合、秋の中規模の集合、冬の大集合」(今泉、pp. 143,181)という生態がみられるそうである。

芭蕉は<とまりたるや>から<とまりけり>に語を変えることで、風景を写生するかのようにそのシーン切り取ってつくる姿勢から、心象風景を映すものへと、そのレベルを転換させた。

確かに複数のカラスが描かれた<とまりたるや>の横長の絵の画面左には雪山と別の句、一文がある。秋も暮、冬が間近の晩秋の夕暮に、カラスが多く集まってくるさまを描いた実景といえよう。

また左の山の手前には松の木が描かれていて、その前には人の姿が見える。脚絆をつけた行脚中と思しきこの人物は、右上に視線を向けている。文章を挟んだ形にはなっているが、夕暮れにカラスの群れを見ている画中の人に、鑑賞者もまた自らを重ね合わせることができるのである。

7)Cf.[芭蕉雑記](草稿)、(芥川、[1997]p. 391)

カラスの絵としては、与謝蕪村(1716-83)にも印象的なものがある。北村美術館所蔵の二幅対『鳶鴉図』である。(佐々木、pp. 39-41)枝にとまり、激しい風雨の中、眼光鋭く前を見ている一羽の鳶と、雪降る夜、肩というか羽を寄せ合って枝にとまる二羽の鴉を描いた作品である。厳しい自然の実景を描いたものと思われるが、合わせて孤高感、寂寥感といった蕪村の心の世界も描かれている。

カラスは先に述べたようにゴミの日のことを考えると、嫌われものの感が強い。ただ、芸術家にとっては心惹かれるモチーフであったと思われる。よく知られている例としてゴッホ(Vincent vanGogh, 1853-90)の「カラスのいる麦畑」(ゴッホ美術館、アムステルダム)がある。空は雨模様、嵐の感もある。この空の下、麦畑があって多くのカラスが舞っている。

またアメリカで活躍し、日本人としてのアイデンティティーで悩んだ画家、国吉康雄

(1889-1953)の絶筆8)と言われる作品(ʻオールド・ツリーʼ)は枝振りが立派な大きな木である。

葉はすべて落葉していて、下の枝に一羽のカラスがとまっている。上述したように、この景色、目の前の実際の風景を描いたものとも、また作家の心、人生観をこの大木に投映しているとも解釈できるのである。

再びカエルにもどろう。アメリカのABC放送のニュース番組の中で使われた表現に “a city girl who has kissed her share of frogs” というのがあった。9) これは ʻkiss a frogʼ の意味がわからなければ、真意を理解することはできない。童話の世界を知っていれば、カエルに変身させられた王子様に出会ってキスしたと理解してしまうところであるが、退屈な人とつきあうというのが英語の意味である。カエルは無事に帰る(かえる)という語呂合わせもあるが、本当に蛙一匹をとってもその世界観、言霊の違いには驚かされるばかりである。

4.おわりに

<古池や>のカエルをfrogsと、複数として訳したラフカディオ・ハーン(1850-1904;小泉八雲)は翻訳の問題について次のように書いている。

But unfortunately it is not possible through English translation to give any fair idea of the range and character of the literature of frogs. The reason is that the greater number of compositions about frogs depend chiefly for their literary value upon the untranslatable, ̶upon local allusions, for example, incomprehensible outside of Japan; upon puns; and upon the use of words with double or even triple meanings. (Hearn, p. 165)

8)Cf. NHK日曜美術館(2015年12月20日放送)

9)2014年2月15日のWorld News Tonightで放送されたニュース。(山根、p.82)

暗示(Suggestion)、不均整(Irregularity)、簡素(Simplicity)、無常(Perishability)。(キーン、[2011])

日本の心、美意識を理解していたと思われるハーンにとってさえ、行間の曖昧性は大きな壁となっていた。

たった十七音の俳句の世界をどのように翻訳するのか、単に日本的発想、美意識は曖昧だという言葉のみでは片づけられない。国際化がすすむ中、海外に日本文化を紹介する際、この行間に潜む曖昧性、不透明性について、どのように扱うのか、翻訳以前の解釈の問題であるとさえ言える。このような美意識を大切にしてきた日本のこころをどのように伝えていくかということでもある。今こそ改めて、この問題をしっかり考えるべきときだと思われるのである。

[参考・引用文献]

芥川龍之介,[1989],『芥川龍之介全集8』,東京:筑摩書房.

芥川龍之介,[1997],『芥川龍之介全集21』,東京:岩波書店.

浅間茂 他,[2013],『水辺の生きもの̶トンボ・カエル・メダカの世界̶』,東京:全国農村教育協会.

今泉忠明,[2004],『カラス狂騒曲̶行動と生態の不思議』,東京:東京堂出版.

紀貫之,窪田章一郎(校注),[1973],『古今和歌集』,東京:角川書店.

キーン、ドナルド,金関寿夫(訳),[1999],『日本人の美意識』,東京:中央公論新社.

キーン、ドナルド,[2011],『ドナルド・キーン著作集 第一巻 日本の文学』,東京:新潮社.

雲英末雄・高橋治,[1990],『松尾芭蕉』,東京:新潮社.

雲英末雄(監修),[2007],『芭蕉、蕪村、一茶の世界』,東京:美術出版社.

近藤裕子・三浦安子,[2008],『詩を楽しむ̶東洋の詩・西洋の詩̶』,東京:同学社.

佐々木丞平 他,[2009],『蕪村 放浪する「文人」』,東京:新潮社.

長谷川櫂,[2013],『古池に蛙は飛びこんだか』,東京:中央公論新社.

マックミラン、ピーター,[2009],『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』,東京:集英社.

山根繁(編著者),[2015],『ABC World News 17』,東京:金星堂.

Hearn, Lafcadio, [1971], Exotics and Retrospectives, Rutland, Vermont: & Tokyo: Charles E. Tuttle Co.

Hooker, Edward Niles and H.T.Swedenberg, Jr. (ed.) [1956], John Dryden, “Ovidʼs Epistles,” The Works of John Dryden, I,

Berkeley: Univ. of California Press.

Tomlinson, Charles, (ed.) [1980], The Oxford Book of Verse in English Translation, Oxford: Oxford Univ. Press.