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シュメール人はなぜ六十進法を用いたのか

2023.01.10 05:44

https://www.nagaitoshiya.com/ja/2013/sexagesimal/ 【シュメール人はなぜ六十進法を用いたのか】 より

シュメール人が六十進法を用いたのは、60 に約数が多いからとか、60 まで両手で数える方法があるからとかいった理由からだけではない。60 は、両手の指の数である 10 と一年における月の朔望周期の回数である 12 との最小公倍数として意味のある数だからである。そして、この点のおいてメソポタミアの六十進法と六十年周期の中国の干支は同じ構造を持っており、後者は前者の文化的影響で成立したと推定できる。今日、メソポタミアの六十進法も中国の干支も、木星と土星が同じ黄道上の位置で合接する 60 年の周期で説明されることがあるが、それは占星術が発達した時代に考えられた解釈であり、そうした後世の解釈で本来の意味を見失ってはいけない。

まずは、メソポタミア文明で用いられていた記数法と度量衡のシステムを概観することで、メソポタミア文明の六十進法がどのようなものであったか、またそれと度量衡がどのような関係であったかを確認したい。

エジプト文明が十進法であったのに対して、メソポタミア文明が六十進法であった理由を考える上で、両者の暦の差が参考になる。エジプト文明が太陽暦を採用していたのに対して、メソポタミア文明は太陰太陽暦を採用していた。太陰太陽暦とは、月の満ち欠けの周期である30日(より厳密には、29.53日なので、29日の月も混ぜなければならない)を1月とし、1年を12月とし、毎年11日ほど生じる回帰年とのずれを19年に7回の割合で閏月を挿入することで縮小する暦である。これに対して、エジプトの太陽暦は、1年を365日としており、暦の月と月相のサイクルは対応しない。メソポタミア文明が月の満ち欠けのサイクルを重視したのに対して、エジプト文明は太陽の回帰サイクルを重視したと言うことができる。

ウィキペディアによるメソポタミア文明の紹介 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2

メソポタミア(ギリシャ語: Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。

古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。

古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。

https://ameblo.jp/sora01234567/entry-12203616619.html  【シュメールと60進法の謎】 より

シュメール人は、ヨーロッパの歴史家からも現代文明のルーツと言われている謎の多い民族。

古代オリエントにおいて、世界最古の都市文明を築いた人々ですが、その系統は未だはっきりしていません。

分かっているのは、彼らが、セム系でもハム系の人々でもなく、アーリア系でもないらしく、周辺住民とは、まったく別系統だったのではないか、ということだけです。

シュメール文明には、

「暦」「測量法」「数学」「教育制度」「通商」「会計」「行政」の原型があった。

(古代オリエント歴史学者 小林登志子)

たとえば、これは発見された数学の粘土板☟

粘土板の中央線上に4つの楔形数字(1 24 51 10)があります。

シュメールは60進法なので、10進法に換算すると、1 + 24/60 + 51/602 + 10/603 = 1.41421296・・・となります。

これはルート2の近似値 √2 = 1.41421356・・・

紀元前2000年の大昔にすでに近似値がこれほど正確に知られていたことは驚異です。

正方形の外側左上に書かれた数字30は、正方形の一辺の長さを表しています。ゆえに、ルート2に30を掛けた数が対角線の長さになります。

ルート2の近似値(1 24 51 10)に、30を掛けてみると・・・

2行目に書かれている3つの数字(42 25 35 =42.2535)が、その答え(対角線の長さ)に当たります。

これを10進法に書き直すと、42+25/60+35/602=42.4263889 になります。

その他、発見された数学の粘土板には、基数が60で位取り方式であったため、計算を簡潔にするために、逆数、平方、立方、乗法などの数表、2から20、30、40、50の掛け算が記載された乗算表、言語を用いる修辞的な代数により、一次方程式、二次方程式、連立方程式までの解法、

未知を表すために幾何学的な用語を活用し、現代の「x」にあたる語を「辺」、未知量の平方を「正方形」、二つの未知数を用いる時には「長さ」と「幅」で、積は「面積」と呼んでいたこと、3変数では「長さ」、「幅」、「高さ」となり、積は「体積」と呼んでいたこと、現在で言うところのピタゴラスの定理を研究した最も古い例が見られます。

さらに、考古学的な証拠によれば、この文明は、円周率(π)の値を知っていたとの説があります。

なぜシュメール人は六十進法を用いたのか?に関してこれまで様々な説が出されていますが、いまだに定説はありません。

六十進法(Sexagesimal)とは、60を底(てい base)として数を表す方法。

紀元前3000年頃、シュメール人によって世界初の位取り記数法として考案。

バビロニアに受け継がれ、周辺諸国の記数法にも影響を与えます。

その影響は現在の世界にも及んでおり、時間や角度を表す時に部分的に六十進法を利用。

時計は60分で繰り上がります。11時59分の次は12時。間違っても11時60分とは言いません。

何気なく使っている時計ですが、60で区切りをつけるというのは良く良く考えれば中途半端です。

実はこの時代からの名残りです。

六十進法は、汎用的な記数法としては、極めて特異。

古代エジプトや古代ギリシャなど、世界の大部分では十進法が採用され、それが現代の標準となっています。

人間にとって、指を折り曲げるのが最も自然な数え方であり、指の数が十本である以上、十進法は最も自然な記数法です。

「60」は、1, 2, 3, 4, 5, 6, 10, 12, 15, 20, 30, 60 と約数が 12 もあるので、分数の約分を比較的容易に行うことができます。

約数が12 ある自然数は、60以下にはありません。

60よりも多くの約数を持つ最小の自然数は120までありません。

シュメール人が数学・天文学で使用していた12進法、60進法、円周360度から、時間の単位は作られたと言われています。

農作物を分ける等、分割しやすい数というのが、便利な単位であったということも背景にあったのかもしれません。

円を分割するのに6等分をベースにした分割方法は使いやすかったのだと思われます。

6等分は1辺が半径の長さになる正三角形となるので、半径の長さで円周上を切っていくと簡単に6等分することができます。

更にそれぞれ半分に分けると12等分が完成。

12等分されたものは、半分にも、4等分にも分けられるし、3等分、6等分、そして12等分にも分けられる、分割するのに便利な数字です。

更にそれぞれを5等分したものが60分割になります。60分割にすると5等分や10等分も可能になり、より使い勝手がよかったのでしょう。(60は100までの数字で最も約数の多い数字)

そのほか、シュメールの六十進法は、7つの空の神(太陽と月と5つの惑星)のうち、最も動きが遅い2つの空の神(木星と土星)の運動周期から導かれたものという説があります。

木星と土星が黄道を一周するのに、それぞれ12年と30年かかります。

観察力の鋭いシュメール人は、このことを知っていたとされています。(古代・観察は不可能では???もしかしたら過去生記憶??)

そして、12と30の最小公倍数は60。12×30=360であり、これが角度の単位となります。

おそらく、シュメール人は、円の角度を360°と定義。なぜなら、太陽は黄道を一年で一周。

木星は同じ時期に太陽の1/12進みます。それで1年は12カ月に分割。

木星が1年かけて移動する距離を太陽は1か月で進みます。

このように、太陽と木星を関係づけるなら、その間、太陽が黄道を1カ月で30°移動。

30という数字は、土星の周期の数字と同じであり、太陽は1か月で進む距離を30に分割することで太陽は毎日1°ずつ進むことになります。

たしかに、シュメールでは、木星と土星の運動の観察が行われていたのは事実ですが、シュメール人が六十進法を使い始めたころから

木星と土星の周期を知っていたのかどうかはわかりません。

さらにそのほか、エジプト文明の十進法に対して、シュメール(メソポタミア文明)の六十進法の理由を考える上で、両者の暦が参考になります。

エジプト文明が太陽暦を採用したのに対して、シュメール(メソポタミア)文明は太陰太陽暦を採用。

エジプト文明は太陽の回帰サイクルを重視したのに対し、シュメール(メソポタミア)文明が月の満ち欠けのサイクルを重視。

海岸の近くに都市国家を形成したシュメール人にとって、30日周期で起きる(?)海岸での干満のサイクル、月の潮汐力による海面水位の変動は大きな関心事であり、それが暦にも反映されて、太陰太陽暦が作られたと考えられます。

これに対して、古代エジプト文明では、文明の中心が内陸のルクソールにありました。

ゆえに、エジプト人にとっては、30日周期で起きる海岸での干満のサイクルよりも365日周期で起きるナイル川の氾濫の周期の方が

予知するべき重大事であり、このため太陽暦が採用されたと考えられます。

つまり、シュメール人はエジプト人以上に太陽の回帰周期よりも月の朔望周期を重要視していたと思われます。

ゆえに、六十進法は、シュメール人にとって重要な数、12と30の最小公倍数であると解釈されることもあります。

あるいは、10は人間が指を折り曲げることで数える数字。

12は太陽と月という二大天体の関係を規定する数字。

六十進法は、人間の秩序(10)と神の秩序(12)、地上の周期(10)と天の周期(12)、十進法と十二進法の調和(最小公倍数)を意味しているのかもしれません。

ちなみに、黄道十二星座や黄道十二宮もシュメールが起源。

黄道(天球上における太陽の見かけの通り道)を12に分割し、毎月太陽が通過する12の星座を割り当てました。

12は一年のみならず一日も黄道も12分割していたことからもわかるように、シュメールにとって重要な数字。

今日にいたるまで、欧米語では12 まで固有名を与えています。(one、two・・・eleven、twelve)

フィートやダースなど十二進法の度量衡が使われていますが、これもシュメールの影響。

英米では、十二進法を採用するよう主張する少数の人々がいます。

人間の指の本数から派生した原始的な十進法より3分割4分割できる十二進法のほうが理にかなっているとされるためです。

なお、十進法以外の採用を進めようという主張は、近年では、コンピュータの二進法との相性から、八進や十六進についても主張されています。

また、週の日数である7という数字の起源もシュメールの影響。月の周期と関係があります。

新月・上弦の月・満月・下弦の月が一つのサイクルとなり、その変化の間が約7日、これが4回あるので、一ケ月は28日です。 

シュメール人は、最初に半月(上弦の月)になる月の七番目の日を祭日にし、ヘブライ人(ユダヤ人)も七番目の日を休日とし、ここから

日曜日に休む習慣が生まれました。

のちに、主要天体が太陽と月と五つの惑星(火星、水星、木星、金星、土星)の合計で7つあることがわかると、7という数字はさらに神聖視されるようになり、それぞれの日に守護星をつけます。

各曜日の名前に七つの天体(七曜=日月火水木金土)の名前を対応。この7日を一つの単位とするのが一週間で、上記のような曜日というものが考え出されました。

ちなみに、旧約聖書に出てくるヘブライ人(ユダヤ人)の始祖アブラハムは、元々はシュメール人だったようです。

シュメール世界最古の文学(歴史?)『ギルガメシュ叙事詩』に『旧約聖書』と対比される部分を大英博物館修復員ジョージ・スミスが発見。

旧約聖書由来のストーリーは、シュメール神話をベースにしている可能性を指摘。

特に、創世神話、エデンの園、大洪水(ノアの箱舟)、バベルの塔、そしてニムロドやリリスといった人物にその類似性が顕著。

この発見と発表は、大きな旋風を巻き起こし、有名になりました。

旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典。

旧約聖書はオリジナルだと信じていたユダヤ人は大ショックゲッソリ

シュメールの宗教も旧約聖書を通じて現代の世界に支配的な影響を与えているといえます。

数学、天文学、度量衡など高度な知識を持つ謎の多いシュメール人。

紀元前5000年頃、後にメソポタミアと呼ばれるユーフラテス河の沿岸地帯に、ある農耕民族が住み着きます。

その農耕民族はウバイド人と呼ばれ、その後、千年以上もそこに住み着きました。

しかし、彼らは文字を持たなかったので、詳しい記録を残すことはありませんでした。

ところが、民族系統不明のシュメール人が紀元前3800年頃に突如メソポタミアに出現。

文明の一大ブレークとも言うべき現象が起きます。

「シュメール(本来はシュメル)」という用語は周辺民族のアッカド人により用いられた異称。

シュメール人は、「 𒌦𒊕𒈪𒂵 」「 ùĝ saĝ gíg-ga (発音:uŋ saŋ giga)」「ウンサンギガ」「混ぜ合わされた者」と自分達を呼んでいました。

『ギルガメシュ叙事詩』には、「私は半神半人で、血の2/3が神だ」という表現がありますが、どうなんでしょう?ニヤリ

アブラハムとシュメール人  https://ameblo.jp/m97f1enc/entry-11743508227.html

シュメール人はどこから来たのか?

古代イスラエル人は、アブラハムの子孫であると言われている。では、そのアブラハムはどこから来たのであろうか?今まで、このことはあまり論議されてこなかった。しかし、このことを論議することで驚くべき事実が浮かび上がってくる。

創世記10章8節で、<クシュの子ニムロデ>とあるが、これは、考古学発掘のデータで知られるようになったシュメルの初期王朝時代(BC3000年前後以降で:ウル第1王朝が、2600年頃、ラガシュのウル・ナンシェ王朝が、2500年頃、等に至るもの)とは比定されるものではなく、BC3800年前後の時代と推定すべきかと思われる。このニムロデは、シュナル(=シュメル)の地で、バベル、エレク(後のウルク)、アカデ、カルネ(後のバビロン)と、次々にその町興しをなしてゆくが、かっての狩人も、その草原(その頃は、いまだ土漠地帯ではなかった)での狩りでは満足できず、再び北方の山辺・丘陵のあるアッシリヤ地域に移り、さらにニネベ(はるか後のアッシリア帝国の首都となるが)、カラ(カルフ=古ニムルド)、レセンなどの町を建てて、そのアッシリア地方の町々の<族長王>として君臨したようだ。これが、その8節~12節の文言が言わんとするところだ。そして、かの<バベルの塔の出来事>(第11章1節以下)は、そのニムロデのアッシリヤでの都市建設の時期または晩年の頃、あるいはその没直後の事で、ほぼ同時代ごろの事と思われる。かなり人々が、その当時、シナルの地の文明に惹かれ、その生存の当てを求めて、ぞくぞくと移り住んできたと思われる。”

新共同訳によると、創世記 11章 2節には、「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」と、なっている。

根本的に違う説は幾つかあるが、「正統竹内家」にも先祖伝来の古神道の秘儀と門外不出の口伝による「竹内秘史」がある。 口伝によると、一万二〇〇〇年前に世界中で大洪水があった。その洪水の後、最初に文明が開けたのは日本だった。日本の縄文文化は世界最古の文明だった。その文化は八〇〇〇年前に中国に伝わった。五〇〇〇年前には、欧州にも伝わった。その中でいつのころかわからないが、太陽信仰を持つグループである日本のスメル(天皇)族が、沈んでいく太陽を追いかけるようにアジア大陸に渡ったのだ。創世記 11章 2節には、「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」とあるように、東の方から、おそらく太陽の沈む彼方に理想郷(西方浄土)があると思ったのだろう。そのグループは二つあり、それぞれ朝鮮半島と南洋を経由して西を目指した。その二つのスメル族のグループはメソポタミアで再び合流した。ところがメソポタミアまで来たものの、どうもそこには理想郷はなかったことに気づいた。

スメル族のグループは、シュメール人と呼ばれた。彼らは古神道に通じていたが、本来古神道とは自然と調和して生きる術、自然の力を利用する術であった。ところが砂漠の地方では、自然は人間に敵対するものでしかなかった。古神道の考えとは合わなかったわけだ。それでも、彼らは、メソポタミアの地で数百年生き、文明をもたらして言ったのである。

失望したスメル族は二手に分かれて、つまり自分たちが来た道を通って再び日本に戻ることにした。インドネシアなど南方のルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸、彼らは大和族(日向族)と呼ばれた。彼らは海を下ったので(天降った)と言い換えられた。一方、陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出、彼らは出雲族と呼ばれた。

彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海側を海路東進し、奈良に入った。出雲族のスサノオは、越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後、出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが、それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。

その間、出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち、二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後、和睦が結ばれ、出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に、再び戦争となり、出雲族は大和族に敗退する。その結果、当時の大和族の主である神武は、事代主の娘を娶り、ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後五〇年ごろの話だ。こうした歴史と、越の国などに伝わっていた原日本人の記録と秘術が合体して、口伝ができたと考えられる。

かつて、太陽信仰を持つグループである日本のスメル(天皇)族が、沈んでいく太陽を追いかけるようにアジア大陸に渡ったのだ。おそらく太陽の沈む彼方に理想郷(西方浄土)があると思った。そのグループは二つあり、それぞれ朝鮮半島と南洋を経由して東の方から西を目指した。スメル族のグループは、シュメール人と呼ばれたのだ。

実は、アブラハムは、シュメール人の首都であるウルの出身である。ノアの子孫のセム族から幾世代たって、バベルの塔で人々が一箇所に集まるようになると、神は人々の言語を混乱させ、全地に広がるようにされた。と、なっているが、創世記11章1節から9節のバベルの塔に関する記述は、後から付け加えられたかのように唐突として出てくる。

アブラハムは、シュメール人であってしかも富を蓄えるほど著名な人物であったことが伺える。つまり、天皇家の血筋をなんらかの形で受け継いでいたのであると推測される。もしかしたら、アブラハムの妻サラがそうだったのかもしれない。