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幕府政治の進展と元禄文化

2018.01.24 07:45

https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume021.html 【幕府政治の進展と元禄文化】 より

監修講師:東京大学史料編纂所教授 山本博文

学習ポイント

幕府政治の進展と元禄文化

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。

日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

教えてくださるのは、山本博文先生です。

今回の時代は、17世紀半ばから18世紀初めの江戸時代前半です。

3代将軍・家光のころまでに幕府の政治体制は確立されたものの、厳しい大名統制で町には職を失った武士があふれていました。

けんかや捨て子は当たり前。

幕府転覆を狙う事件まで起こりました。

殺伐とした社会を改めようと、幕府は強圧的な政治から学問などを尊重する政治へ舵を切っていきます。

今回のテーマにせまる3つのポイントは「武断政治から文治政治へ」「綱吉の政治と正徳の治」「元禄文化」。

4代将軍・家綱(いえつな)から、7代将軍・家継(いえつぐ)の頃までの政治と文化を見ていきましょう。

えり 「今日は、3代将軍・家光が亡くなった後のお話。家光の頃までに幕藩体制が築かれたよね。」

悠也 「全国の藩を大名たちが支配して、それらの藩を幕府がとりまとめてたよね。」

詩乃 「幕府にもいろんな組織が作られて、特に老中は大事なポジションだったよね!」

えり 「老中は、将軍のもとで政務をとりまとめる重要な役職でした。そんな時代に、町はどんな風だったと思う?暮らしやすかったのか、暮らしにくかったのか?」

悠也 「戦もなくなったし、幕府もしっかりしてるし、暮らしやすそうだよね。」

詩乃 「幕府が整ったから、社会も安定してたんじゃないかな。」

えり 「残念。この時代、治安がものすごく悪かったの!

武断政治から文治政治へ

幕府は政治基盤を固めるため、厳しい大名統制を進めていました。

家康・秀忠・家光3代の間に改易(かいえき)、つまり領地を没収されて、家が取りつぶされた大名は131件もありました。

その家臣たち総勢数十万人の武士たちが勤め先を失い、牢人(ろうにん)になったといわれています。

この牢人たちによるけんかや人斬りが横行。

さらに、派手な服装をして暴れまわる「かぶき者」たちもいて、社会が殺伐としていたのです。

1651年、家光が亡くなり、わずか11歳の息子・家綱が4代将軍となります。

幼い将軍に代替わりしたこのタイミングで、幕府の転覆を狙ったのが由井正雪(ゆいしょうせつ)でした。

1651年「慶安(けいあん)の変」は、幕府に不満を持つ牢人たちを率いて江戸城を焼き討ちする計画でした。

しかし、正雪の前に立ちはだかったのが、老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)でした。

密告者によって計画を知った信綱は、すぐに鎮圧に乗り出します。

結局、正雪は自害。

クーデターは失敗に終わりました。

この事件をうけ、幕府は牢人問題の解決に乗り出します。

これまで、跡取りのない大名は家を取りつぶされました。

そのため、主君を失った牢人が大量に生まれていました。

そこで、50歳以下の大名には死ぬ間際に養子を迎えることを許し、家の存続を認めました。

法を整備して、牢人の発生を抑えようとしたのです。

武力を背景にした強圧的な政治「武断(ぶだん)政治」を見直し、「文治(ぶんち)政治」へと転換する始まりでした。

悠也 「武断政治は、武力で押さえつける政治だったよね。文治政治は、どういったものですか?」

山本先生 「文治政治は“文で治める”ということなので、学問を尊重して法律や制度によって世の中を支配する政治のことなんですね。殺伐とした社会を改めて、誰もが安心して暮らせる社会に変えようとした、これが文治政治なんです。」

詩乃 「4代将軍・家綱って、ほかにどんなことをしたんですか?」

山本先生 「当時は、主君が死んだあとに家臣が後を追って死ぬ、という風習があったんですね。これを殉死(じゅんし)というんですけれども、これがあまりよろしくないということで、殉死を禁止する政策を行うんですね。

最初は、主君の後を追って死んだっていうのは、非常に主従関係が強いということで美しいことだと、みんな推奨した部分があるんです。こういうふうに戦国の世の考え方を改めようとしたのが、この家綱の政治なんですね。」

詩乃 「命の大切さを広めていくって大事なことですよね。」

綱吉の政治と正徳の治

1680年、家綱が亡くなり、弟の綱吉(つなよし)が5代将軍となりました。

綱吉は、儒学を学べる場として湯島聖堂を建設しました。

儒学とは、中国の儒教を研究する学問です。

主人に対する「忠義」や、思いやりの心を持つ「仁」など、綱吉は儒教の教えを政治の基盤としました。

まず取り組んだのは、大名や代官の取り締まりでした。

不正を調べて、全国の代官のおよそ8割と40人以上の大名を処分しました。

また、江戸の町では貧しさから子どもを捨てる人が後を絶ちませんでした。

そこで綱吉が出したおふれは「捨て子が見つかれば、地域の者が養うように」。

命を大切にする法令は、人間だけにとどまりませんでした。

1685年「将軍が御成(おなり)の際に、犬や猫が飛び出してきてもかまわぬ。つながなくてよい」というおふれが出されました。

以降24年間で綱吉は、人や動物・虫などあらゆる生き物を大切にする法令を、130以上出しました。

これらを総称して「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」といいます。

中でも多かったのが、犬に関する法令でした。

例えば「飼い主のいない犬を見かけたら、えさを与えること」などです。

さらに綱吉は、東京・中野に犬屋敷を建設しました。

100万平方メートルの敷地におよそ10万匹の野良犬が運び込まれました。

飼育費だけで年間98,000両(約100億円)もかかりました。

そしてついに、犬を殺した者は死罪に。

法令はどんどんエスカレートしていきました。

えり 「綱吉は“犬公方(いぬくぼう)”とも呼ばれて、少し悪評高い将軍というイメージもあるんですけど、最近ではちょっと評価し直されてきていますよね。」

山本先生 「そうですね。最近の研究では、それほど悪い将軍ではなかった、という評価の方がだんだん一般的になっています。

当時『捨て子を保護しなさい』という、そういう法令も出しているんですね。これは世界的に見ても画期的なことで、現代に通じる福祉政策の先駆けともいえるわけです。」

悠也 「生類憐みの令だって、考え方としては間違ってないですもんね?」

山本先生 「そうですね。綱吉は犬とか猫とか馬、そういう動物から魚とか貝とか虫に至るまで、命を粗末に扱っちゃいけないって言っているんですね。

もともとは人々に、慈悲の心を植え付けたかったわけですね。つまり、人を斬ったり犬を斬ったりする、そういう殺伐した社会を変えるためには、武士や庶民の意識改革が必要だと感じたわけなんです。」

悠也 「生類憐みの令って、いつまで出され続けたんですか?」

山本先生 「綱吉が死んでしまうと、次の6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)は、すぐに生類憐みの令は禁止するんです。10日目に法律を撤廃しています。やっぱりこれは社会に、非常に悪影響を与えるというのを、ひしひしと感じていたんでしょうね。」

「6代将軍・家宣と、7代将軍・家継の時代は、『正徳の治(しょうとくのち)』といわれて、非常に高く評価されているんですね。

ひと言でいえば、綱吉の政策の悪いところは正して、いいところは引き継ごう、ということですね。それから、正徳金銀を発行して、綱吉の時代に貨幣を悪鋳(あくちゅう)して粗悪になっていたものを元に戻すんですね。」

「貿易政策としては、『海舶互市新例(かいはくごししんれい)』という法律を出すんですね。これは当時、金銀が海外に流出していって、国の富が失われているという認識があったので、その貿易量を制限して、金や銀が外国に出ていかないようにしたわけです。

この正徳の治を中心的に推し進めた人が、家宣の儒学の先生だった『新井白石(あらいはくせき)』なんです。

白石は自分が気に入らないことは、老中であってもどんどん論争をしかけるんですね。老中たちからは、鬼と言われて忌み嫌われたらしいんです。」

悠也 「武力ではなく、言い負かすっていうところからも文治政治に変わってきたっていうのが、よく分かりますね。」

山本先生 「バックボーンには儒学がありますから。正しいと思うことを主張したのが白石なんですね。」

元禄文化

綱吉の頃、「天下の台所」大坂を中心とする上方(かみがた)は、経済が発展し町人が力をつけていました。

「元禄(げんろく)文化」の主役は、そうした上方(大坂や京都)の町人たちです。

この時代を代表するのは、「井原西鶴(いはらさいかく)」「松尾芭蕉(まつおばしょう)」

「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」の3人です。

井原西鶴は、町人の世界を描いた「浮世草子(うきよぞうし)」と呼ばれる本格的な小説を書きました。

デビュー作の「好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)」は、大坂の裕福な商人の息子の恋愛遍歴をつづった物語です。

町人に広く読まれ、大坂にわずかしかなかった本屋が一挙に50軒以上に増えたといいます。

大ヒット作「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」では、商人たちのドラマを通して、お金持ちになる秘訣をおもしろおかしく描きました。

「古池や 蛙(かわず)飛(とび)こむ 水のおと」

松尾芭蕉は、この句で蕉風俳諧(しょうふうはいかい)を確立したといわれています。

短い言葉からさまざまな想像をかきたてられる俳諧が、心の世界を描く芸術となったのです。

芭蕉は日本各地を旅して、俳諧を広めていきました。

行く先々で、門人たちの熱い歓待を受けたといいます。

紀行文「奥の細道(おくのほそみち)」には、多くの句が記されています。

奥州・平泉では、平安時代に栄華を夢見た藤原一族の地で「夏草や 兵共(つわものども)が 夢の跡」の一句が記されています。

1703年、大坂・曽根崎(そねざき)で心中事件が起こりました。

自由な恋愛も許されない時代が生んだ悲劇でした。

この事件からわずか1か月で「人形浄瑠璃(じょうるり)」の作品にしたのが、近松門左衛門です。

芝居小屋は連日満員、若い娘たちも1日内職して得た手間賃を握りしめ、見に行ったといいます。

義理と人情の板挟みになった主人公たちに、観客は自分の身を重ねて共感したのです。

山本先生 「この時代の特徴っていうのは、町人たちが文化を享受するっていう、そういう時代になっていったんですね。

芭蕉なんかも全国を回っていますけれども、これは芭蕉が来て自分たちを指導してほしいっていう、そういう人たちがたくさん全国にいたから芭蕉の旅っていうのも成立したわけで、本当に庶民が文化に参加する、新しい時代になったっていうことですね。」

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日本史なるほど・おた話~赤穂事件(忠臣蔵)とは?

日本史のおもしろくてためになる話。

引き続き、山本博文先生に伺います。

山本先生 「今回は、綱吉の時代に起きた『赤穂(あこう)事件』についてお話ししたいと思います。」

えり 「ドラマなどで有名な『忠臣蔵』ですね!私、大好きです!」

赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)は、大先輩にあたる吉良義央(きらよしなか)から、いやがらせを受けていました。

1701年、我慢の限界にきた浅野は江戸城中で吉良を切りつけます。

幕府は浅野に切腹を命じます。

一方、吉良はおとがめなし。

そこで翌年、浅野の家臣であった大石良雄(おおいしよしお)たち47人が、吉良邸に討ち入り。

主君のかたきを取ったのです。

幕府は、大石たちに切腹を言い渡します。

主君への忠義を守り抜いた大石たちは、名誉ある死を遂げたのでした。

詩乃 「斬りつけた側が処罰されるのって、当たり前じゃないんですか?」

山本先生 「当時は『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』っていうのが天下の大法だといわれているんですね。だから、けんかをしている以上はどちらも処分するっていう、そういうことなんですね。

吉良におとがめなしだったのは、この喧嘩両成敗に背くということでおかしい、というのが当時の考え方なんですね。」

えり 「敵討ちをした大石たちは、武士のかがみだと人々から賞賛されてますけれども、綱吉は切腹を命じたんですよね。」

山本先生 「大石たちの行動は忠義だと当時捉えられたので、綱吉はもともと忠義とか孝行を奨励しているわけですよね。そういう人たちを処罰するのはどうかというふうに考えるわけなんですが、しかしそれよりも、この秩序を乱したという幕府の法の方を重んじて、彼らに切腹を命じたってことですね。」

「最近は、大石(良雄)内蔵助(くらのすけ)たちのカルテなんかも出てきて、大石たちが結構、病気がちだったとか、そんなおもしろい事実もあるんです。私が注目しているのは、大石が藩の財産を処分したあとで残した、要するに“自分が預かったお金をどういうふうに使ったか”というのを示している資料なんですね。

8000万円ぐらいのお金が大石の手元にあったんですが、このお金で討ち入りまでの浪士の生活費とか、あるいは江戸に行くための旅費とか、そういうものを賄ったわけですね。最後は、ほとんどお金がなくなっているんですね。これ以上延ばすと討ち入れないっていう、そういう状況にもなっているわけです。」

詩乃 「生活が苦しくても主君への忠義を果たす、その意志の強さっていうか、思いの強さがびっくりだよね。」

山本先生 「やっぱり当時の日本人の正義感とか、そういうものを示す事件なんだと思うんですね。」

悠也 「最後にお金がなくなってたなんて話を聞くと、自分たちに先がないことが分かってたような感じがして、ちょっと悲しい感じもするな。」