ワタシはナニモノ④
実家にイヌを残し夫と二人暮しをしていた30年以上前のある日、仔イヌを拾いました。
当時はペット可の賃貸物件がほとんどなかった事もあって、ペット禁止のアパートに住んでいたのに、久しぶりの仔イヌに舞い上がり、後先を考える事もせずダンボールで震える2匹の仔イヌを抱きしめて帰宅しました。
里親を探そう・・・そう思った私は、ここから遺棄動物や動物愛護と言う現実を叩きつけられる事になります。なかでも衝撃だったのは、愛護団体の方の発した『飼えないなら拾うな』と言う言葉でした。
今なら、その方がどんな思いで口にしたのかも理解できます。と同時に、自分が如何に無責任であったかも痛感します。ですが、当時の私には理解できませんでした。まして愛護団体の方の発言であった事が引っかかり、この世界のドアも開けてしまいます。
悲しい現実に打ちのめされ、自分の無力さに憤りを感じ、2匹の仔イヌに生涯一緒に暮らす事を誓い、格安で提供してもらえる戸建への引越しに踏み切りました。
タローとハナと名付けた仔イヌたちはすっかり大きくなり、しばらくは穏やかな日々が続いていましたが、時折ハナが攻撃性を見せるようになります。
普段は何の問題も感じさせない穏やかなハナ。でも時折見せる攻撃性が、少しずつ大きくなっているような気がして、私は躾や訓練で名を馳せる多くの先生の元へ通いました。
ですが、私が先生の指示を守れば守るほど、ハナから笑顔が消えて行くような気がしていました。それを先生に話したりもしましたが『犬の顔色を伺っているからダメなんだ』と叱責される事が多かった気がします。
そんな中、ハナが突然痙攣を起こして倒れました。駆け込んだ病院に着く頃には、ケロリといつものハナに戻っていましたが、ここで衝撃の事実を聞く事になります。
ハナの攻撃性は脳の病気による物だったのです。
何かが違う・・・ハナに対する申し訳なさと後悔の念に押し潰されそうになっている時、私を救ってくれたのはアメリカのMomでした。
Momの家には盲導犬のパピーやリタイア犬、失格犬などが常時4〜5頭いました。日本とは違うアメリカのイヌの扱い方や考え方を学び、イヌとのコミュニケーション法に新境地を見出したい。そんな思いが日を追う毎に強くなって行きました。
そして同時に、攻撃性を持つイヌを預かってくれる施設がない事。
それが原因で処分されるイヌも多いと言う日本の現状も知りました。
「イヌを守りたい」その一心で【ドッグシッター】を発案。試行錯誤の日々を経て1992年にようやく日本初となるドッグシッターの開業に漕ぎ着けます。ですが、聞きなれない言葉に利用客は皆無。閑古鳥の鳴く毎日です。携帯電話も普及していなかった当時は、電話番のために私が家で内職をしながら待機し、夫がバイトに出ると言う生活でした。
2〜3年そんなドン底の暮しをしたでしょうか。少しずつ世の中が動き、新聞、雑誌、テレビなど多方面で取り上げて頂き、夫のバイト生活はようやくピリオドを打つ事が出来ました。
そして、固定客もできポケベルを卒業した2001年、動物専門学校の講師の仕事もさせて頂ける事になりました。
=続=