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【強い決意と覚悟で歩み始めるプロキャリア】〜『魂の漢 李漢宰』特別インタビュー中編~

2021.01.29 08:00

 李漢宰(リ・ハンジェ)氏はかつて、在日朝鮮人蹴球団(以下、蹴球団)で活躍し朝鮮民主主義人民共和国の代表選手になることを夢見たサッカー少年だった。

 広島朝高サッカー部時代は、『ウリハッキョ(朝鮮学校)を全国大会へ導く』という強い想いと確固たる決意のもと、誰よりも走り、誰よりも練習した。自身の背中でチームメイトを引っ張り続けたが、全国大会出場の目標は叶わなかった。それと同時期に、幼い頃から憧れ続けた蹴球団の解散を伝え聞く。


 夢絶たれたかと思っていた矢先に、転機が訪れる。

 当時広島朝高サッカー部監督であった高隆志監督(コ・リュンジ)から、蹴球団解散の報告を受けた一週間後に、思いがけない言葉を告げられる。

 「サンフレッチェ広島から練習参加の打診があった。行ってみるか?」

 二つ返事で「行かせてください」と答えると同時に、Jリーグという舞台で活躍し、必ず国家代表になるんだと決意を固めた。

自らの“足”で勝ち取ったプロ契約


ーーサンフレッチェ広島の練習参加に至るまではどのような経緯があったんでしょうか?

  

:「やはりウリハッキョでプレーしていたので、個人として何かをアピールするという事が非常に難しかったし、Jリーグの関係者が視察に来る事もほとんど無かった。しかし、当時サンフレッチェ広島のGMをなさっていた今西和男さんが在日同胞と親交のある方で、高隆志監督が一度試合を見に来て欲しいとお願いしてくれたんです」

  

ーーそして実際に試合視察に来られたんですね。

  

:「はい、来て頂きました。ただ、当時の広島朝高が行っていた練習試合というのは大差で勝つ試合が多かったんです。そういった試合を視察したとしても、評価に繋がりにくかったみたいです。もう少しパフォーマンスを見たいという事で、サンフレッチェ広島の練習に参加させて頂く事となりました」

  

ーー今は試合視察の機会も多いかもしれませんが、当時の朝鮮学校としては稀なケースのように思います。


:「まさにそうですね。ここまでの経緯一つ取っても有り得ない事だし、たくさんの方々のご厚意があったおかげだと今でも思います」


ーー実際に練習に参加した当時の事は覚えていますか?


:「覚えています。紅白戦でフリーキックを直接決めることが出来たんです。結果的にそのフリーキックが無ければその後にプロの門を叩く事は無かったと思います。ただ、このフリーキックには一つのエピソードがありまして」

  

ーーどのようなエピソードですか?

  

:「レギュラー組とサブ組に分かれて紅白戦を行っていました。僕は残り15分をサブ組として出場させてもらっていたんですが、絶好の位置でフリーキックのチャンスを得たんです。内心では「蹴りたいなー」と思いつつ、だからといって「蹴らせてください」と主張することも出来ずに、ただボーッと立っていました。すると、当時のキャプテンである上村健一さんが『李!お前蹴ってみろよ!』と言ってくださったんです。驚きましたが、すぐに心を切り替えて『蹴らせてください』と。ボールをセットして、助走の歩幅を取っているうちに不思議と決めれる気がしてきて。そのまま何処から来たのか分からない自信に身を任せ、ボールを蹴ると、そのボールはゴールネットに吸い込まれていました」

  

 李漢宰氏は、多くの支えと巡り合わせに助けられながらも、最後は自らの“足”でサンフレッチェ広島との契約を勝ち取った。

 朝鮮学校として始めてとなる高校卒業後の“ストレート入団”に在日同胞達は喜びに沸き、今西和男GMを始めとするサンフレッチェ広島の関係者の方々も学校に直接訪れ、李漢宰氏を温かく迎え入れた。その数日後には、何十台ものカメラが立ち並ぶ中、広島朝高で入団記者会見が行われたという。李漢宰氏は「ガチガチに緊張した」と振り返るが、それと同時に「ウリハッキョ出身としてサンフレッチェ広島で活躍しよう。そして、同胞に夢と希望を与えよう」と決意したことを話してくれた。

 国家代表を夢見たサッカー少年は、多くの期待と強い決意のもと、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。

プロサッカー選手としての価値観を変えたキャプテンの一言

ーー学生であった広島朝高での生活と、サンフレッチェ広島でのプロサッカー選手生活とでは大きなギャップがあったと思います。


:「まさにチームメイト達との共同生活を通して度肝を抜かれるばかりで、戸惑っていました。僕は小さい頃から在日同胞に囲まれて生まれ育ち、ウリハッキョの世界しか知りませんでした。もちろん、ウリハッキョというコミュニティ以外で、トレセン(地域サッカー選抜)等にも参加したりしていましたが、僕はまさに一匹狼。『日本の選手には絶対に負けない』という変な意地を持っていました。もしかしたらその意地が良かったのかもしれないですが、間違った部分もありました」


ーー強いこだわりを持っていた中、徐々に心境の変化があったのでしょうか。


:「これもまたキャプテンである上村健一さんとのエピソードなんですが、上村さんも在日コリアンとの親交があって我々の事をよく知っていたんです。そんな方が僕の生活ぶりを見て、『ふざけるな。お前は日本人に差別されていると思っているだろ。それは違うぞ。差別しているのはお前もだ』と言ったんです。その言葉を聞いて世界観が一気に変わりましたね。何故かその言葉をすんなりと受け入れることが出来ましたし、自分が今まで大事にしていた部分は残しつつも、新たに広げていかなくてはいけない価値観があるなと気付かされました。そこからは成長速度が早くなった感覚がありましたね」


ーー心に響くお言葉ですね。新たな価値観に気付いてから過ごした、サンフレッチェ広島での9年間を今振り返ってみた印象はどうですか?

  

:「僕はサンフレッチェ広島でプレーする事にこだわっていたので、最後まで力を出し切る形でプレー出来たことは本当に良かったと思っています。というのも、二度目のJ2降格を喫した時には、同じポジションに日本代表選手が居て、あまり試合に出れていませんでした。その中で当時のミシャ監督(ミハイロ・ペトロヴィッチ/現北海道コンサドーレ札幌監督)に『今年一年間はハンジェに出場時間を与えることが出来ず、申し訳なかった。おそらく来シーズンも二番手からのスタートになるが、平等な目で人選し、チャンスを与えるつもりでいる。だから来シーズンも残ってほしい』と直々に言われたんです。外に出ていくという選択肢もありましたが、チャンスがあるならやれるという自信があったので、『残ります』と伝えました。結果論ではありますが、その後レギュラーとして試合に出場し、昇格と優勝を果たすことが出来た。あの局面で自分を信じてチームに残って最終的には9年間もの間サンフレッチェ広島でやり切れたことは大きな財産です」

 

 李漢宰氏は「如何なる環境に放り込まれても、その瞬間に何をしなくてはいけないのかを察知することが出来る」と自身を分析する。こだわりや信念が強い一方で、瞬時に自身を客観的に捉えることが出来る。そうして、幾つもの困難を乗り越えてきたのだろう。


プロキャリア10年目での初めての移籍

 当時のサンフレッチェ広島では、チーム事情もありウイングバックとしての起用が多くなっていた。「ボランチで攻撃的なプレーがしたいし、今までもずっとそこでプレーしてきた」と話すように、本職のボランチでのプレーを渇望していた。「僕にはスピードが無い。予測能力や技術、運動量でウイングバックとしての能力を補って来たが、今後を考えた上で、もう一度ボランチとして勝負したいという気持ちが出てきた」

 李漢宰氏は、もう一度本来の姿を取り戻すべく、プロキャリアをスタートさせた広島の地を離れる決断をした。


 2010年、当時J2リーグに所属していた北海道コンサドーレ札幌に新たな活躍の場を移す。初めての移籍で、目に見える結果が欲しい中、突然試練が訪れる。

 1月にチームはグアムキャンプに行く中、李漢宰氏は国籍が朝鮮籍という事でビザが下りずにキャンプに帯同出来なかったのだ。1年間の長いリーグ戦を戦う上で大事な冬のキャンプ期間に、一人日本に残り、出来る限り最善を尽くした。

 広島朝高時の監督である高隆志先生の懇意で、東京朝高グランドを借りながら高校生と一緒に練習に打ち込み自らを追い込んだ。しかし、グアムキャンプから帰国したチームに合流するも、他の選手に比べてコンディション面で明らかな差が出ていた。そして、開幕直前にチーム事情によりスターティングメンバーから外れるという悔しさも味わうこととなる。


 そして、さらなる悲劇が起きる。

 練習試合ウォーミングアップ中に「膝の中で音がなったのが自分でもわかった」と話すように、選手生命を脅かすほどの怪我を負ってしまったのだ。痛みに耐えながら断固としてプレーをし続けたが、クラブスタッフやドクターからストップがかかり手術を強行することになる。膝の手術後に懸命にリハビリに励んだが、本来のプレーを取り戻せずにいた。

 新たな決意で訪れた北海道コンサドーレ札幌での一年は、怪我と戦う不本意な年で終わることとなる。


恩師の今西和男さんとの再会。プロサッカー選手としての“分岐点” 

 李漢宰氏は、怪我と戦いながら選手生命さえ危ぶまれても決して諦める事なく、プレーできる環境を探し続けた。

 そしてその熱い思いが実る形で、サンフレッチェ広島入団時に尽力いただきプロ選手に導いてくれた恩師である、今西和男さんとの再会を果たす。

 当時FC岐阜で社長職に就いていた今西さんに、直々に「どうにか岐阜でプレーさせて貰えないですか」と懇願するが、既にチーム編成が終っている時期で良い返事が貰えずにいた。

 ところが、その数時間後に今西さんから着信が入る。「ハンジェ、行けるぞ!」思い掛けない言葉を受ける。新体制発表直前にFC岐阜への入団が決まったのだ。

 恩師の元で、プロ11年目となる“李漢宰”の新たなるキャリアがスタートを切った。


ーーFC岐阜に入団して以降、李漢宰氏のプレースタイルが少し変化したように見えました。


:「まさにその通りですね。当時FC岐阜入団が僕の選手としての分岐点だったし、同時に決意したことがありました」

 

ーーどのような決意だったんですか?

 

:「僕がプロの世界に足を踏み入れた時に描いていたものを実現させようということです。攻撃的なスタイルで、得点やアシストを創り出すという長所を出すという事。少年時代に夢見ていたプレースタイルですが、サンフレッチェ広島加入後にプロの世界で守備的なプレーも求められる中、長所を出すというよりバランスを見てからプレーするようになっていたんです」


ーー自身のプレースタイルの原点に戻るという意味で、分岐点になったという事ですね。

 

:「いえ、逆の意味での分岐点ですね。FC岐阜でのトレーニングがスタートし、自分の決意は一瞬にして消えましたし、切り替えました。というのも、当時のFC岐阜は得点は取れても失点が多いチームでした。守備としての組織力が足りていなかったんです。これでは駄目だと、このチームを闘う集団にするには、自分の決意なんて言ってられませんでした。そして、このチームを闘う集団にするという決意になりました」


ーー自身のプレースタイルよりも、チームの結果を優先に考えたのですね。


:「FC岐阜での1年目は、J2のチーム数を増やした初年度で降格はなかったんですけど、結果はリーグ最下位でした。そこからチームを勝たせる為にも、自然とそういう気持ちやプレースタイルになっていきましたね。この時のプレースタイルが、引退するまで続いた僕のプレースタイルかもしれません」


 当時J2最下位に位置していたFC岐阜を救うため、自身を拾ってくれた今西さんに恩を返すためにも、李漢宰氏は『真のファイター』へと変化を遂げる。

 プロサッカー選手としての分岐点を迎えていたFC岐阜で、3年間クラブのミッションを全うした李漢宰氏は、2014年にFC町田ゼルビアに入団する。李漢宰氏が現役を終えた“最後のクラブ”だ。

 

 最後となる【“魂の漢”李漢宰 特別インタビュー後編】では、FC町田ゼルビアでのキャリアや引退について。国家代表に対する想いも語って頂こうと思う。

 “李漢宰”という生き様を通して次世代に引き継ぎたい事とは一体。