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「北村季吟」について

2018.01.25 04:21

http://www.basyo370.com/?p=56  【松尾芭蕉の師、「北村季吟」について】 より

芭蕉の師といえば、北村季吟(きたむらきぎん)。(1625~1705年)

でも、どんな人? と問われれば答えに困りませんか?

季吟は、俳人・歌人・学者・古典文学研究者と、多くの肩書きを持ち、どういう人なのか、今ひとつわかりにくいのです。

季吟と芭蕉

季吟は、近江国野洲郡(滋賀県野洲市)の医者の家庭に生まれ、医学を学びながら、はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳に俳諧を学びました。

24歳で、季寄せ『山之井(やまのい)』を刊行します。

俳諧宗匠として独立後は『新続犬筑波集』などの撰集、俳諧式目書『埋木(うもれぎ)』なども刊行しました。俳諧師としての季吟は、実作に優れていたというより、数多の俳書にその才を発揮したといえます。

季吟の大きな功績の一つに、松尾芭蕉を指導したことが挙げられます。

芭蕉は13歳のとき、父を亡くしたため、藤堂新七郎家に奉公に出ました。

藤堂家では、跡継ぎであった藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)に小姓として仕えます。

良忠は俳諧が好きで、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていました。

蝉吟の師匠が北村季吟でしたから、芭蕉は、蝉吟の句の添削をしてもらうため、主人の代理で京都の季吟の元へ通うこともあったようです。

季吟から句の指導を受け、それを蝉吟に伝える役目を持っていたのです。

このとき、芭蕉は俳諧の妙味を知ったのでしょう。

また、蝉吟の学びに付き合うような形で、芭蕉は漢詩や和歌も学んでいったと考えられます。しかし、芭蕉が23歳のとき、蝉吟が死亡しました。

その後、29歳で江戸に下るまでの6年間、芭蕉の動向は正確には分かっていません。

引き続き藤堂家で働きながら、俳諧の研鑽を続けていったとも、蝉吟の死後、藤堂家での奉公を辞して京都に行き、季吟に入門したともいわれます。

どちらにせよ、伊賀か京都かで、季吟の指導を受けながら俳諧を学んでいたことは確かでしょう。

芭蕉が江戸で活動するようになると、季吟との関わりはなくなります。しかし、江戸で俳諧師として活動する際には、季吟から伝授された俳諧の作法書『埋木』が、芭蕉に権威を与えてくれました。

季吟との出会いがなければ、芭蕉という俳人は存在しなかったかもしれません。

古典注釈者としての功績

季吟の最も大きな功績は、その古典研究にあります。

『源氏物語湖月抄』『徒然草文段抄』『枕草子春曙抄』『伊勢物語拾穂抄』『八代集抄』『菟芸泥赴』『万葉拾穂抄』など、古典文学に関する多くの注釈書を著しました。その数は百八十余冊にも及びます。

特に、『源氏物語湖月抄(こげつしょう)』は、原文と注釈・頭注を見開きに収めて、様々な学説を紹介しています。これは現代の解説書にまで受け継がれる形式です。

『湖月抄』さえあれば『源氏物語』を読んで理解できるわけですから、江戸時代を通じて、もっともよく読まれた注釈書であったのです。

季吟の著した数多くの注釈書は出版され、古典文学が一般の庶民にまで浸透する契機となりました。貴族階級のものであった古典を、広く普及させた功績は、大きいものでした。

松尾芭蕉が、季吟という大いなる古典学者から教えを受けたこと、つまり、古典に関しての深い理解があったことは、芭蕉の文学を考える上では忘れてはなりません。

幕府歌学方になる

季吟は66歳の時、幕府の初代歌学方として、子の湖春とともに江戸に招かれました。

歌学方とは和歌に関する様々なことをつかさどる役職で、この後、幕府の歌学方は北村家が世襲してゆきます。

東京・駒込にある「六義園(りくぎえん)」という庭園をご存じでしょうか。現在は都立公園となって一般公開されています(入園料が必要)。

ここは北村季吟がアドバイスし、柳沢吉保が作った庭園です。

「六義園」という名称は『古今和歌集』にちなんでおり、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として表現されています。

柳沢吉保も、古今和歌集や源氏物語などの古典文学をよく知る人ではありましたが、季吟の古典への造詣の深さがあってこその六義園ではないかと思います。

季吟はやがて、法印(僧侶の最高の位)の称号を受け、宝永2年(1705年)82歳で没します。

辞世の句は、

「花も見つほととぎすをも待ち出でつこの世後の世思ふことなき」


https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/202004240000/ 【芭蕉の解明されていない事柄4  埋木編】 より

芭蕉が江戸に出て3年間には記録がありません。しかし2年後に北村季吟から宗匠(俳句の師匠)の認可書とも言うべき「埋木」を授与されています。

此書雖ニ家伝之深秘一、宗房生、依ニ俳諧執心不レ浅一、免ニ書写一而、

且加ニ奥書一者也。必不レ可有ニ外見一 而己 延宝二年弥生中七  季吟(花押)

読み下し文

此の書は家伝の深秘といえども、宗房生(そうぼうせい)、俳諧執心浅からかざるによって、書写を免じて、且つ奥書を加うるものなり。必ず、外見有るべからざるもののみ 延宝二年弥生中七   季吟花押

現代語訳

この書は、家伝の秘密文書であるが、宗房(後の芭蕉)生は俳諧に実に熱心であるから、書写を許し、かつ私の名を奥書に署名した。門外不出と心得ること。 延 宝2年(1674)2月17日 季吟花押

この宗匠立机の授与「埋木」は江戸に出て二年後のことで、この「埋木」の授与の場所やひいてはその信憑性を疑う人もいます。

藤堂藩の法でいったん伊賀を出国したものは四年帰国が許されず、そして四年毎に故郷へ帰り郡奉行所へ出頭することを命じる。と上野市史芭蕉編にあります

「宗国史」に貞享四年(1687)

古法の如くの後、五年目毎帰国法が記されているが、古法の如くとあるので従来からの原則をあらためて記したものと思われる。

上野市史芭蕉編の年表に正保五年(1648)12月

「伊賀国からの出奉公について定」とありこれが古法だと思われます。

芭蕉は寛文12年(1672)出国して五年目(江戸時代は0年という概念がないので四年毎)の延宝四年(1676)に一時帰国している。

そうすると二年後に帰国していたのは考えられず「埋木」を受け取った場所は伊賀ではなく京都か江戸ということになるが伊賀市の芭蕉翁記念館の学芸員の方は郵送した例もあるとの返答でした。

そしてこの「埋木」が藤堂新七郎家に残っていたことも信憑性を疑う一つになっていて郷土史家の方は新七郎家が北村季吟(季吟の書であることは証明されています)に頼み書いてもらったのではないかという説を唱えています。


https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/11/index.html  【松尾芭蕉遺書三通】より

[やぶちゃん注:元禄七年十月十日附(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十六日相当)。於花屋仁左衛門貸座敷。以下は先の実兄宛遺書に続いて筆録させた三通である。

 底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化、編者が附加した読みや書名を支持する括弧等は遺書という性格上、除去した(原書簡は漢文体を呈し、異字も多く非常に読み難いので、これを底本とした旨、お断りしておく)。なお、【その一】冒頭の目録を除き、「一」の後、文が続いて二行目以降に渡る場合は底本では一字下げとなっている。各注は富山氏の注を主に参照した。]

【その一】

一、三日月の記  伊賀にあり

一、發句の書付  同 斷

一、新式     これは杉風へ遣さるべく候。

         落字これ有り候あひだ、本

         冩を改め、校せられべく候。

一、百人一首・古今序註  拔書。これは支考

         へ遣さるべく候。

一、埋木     半殘かたにこれ有り候 。

    江戸

一、杉風かたに、前々よりの發句・文章の覺書、これあるべく候。支考、これを校し、文章ひきなほさるべく候。いづれも草稿にて御座候。

一、羽州岸本八郎兵衞發句二句、炭俵に拙者句になり、公羽と翁との紛れにてこれ有るべく、杉風よりきつと御ことわりたまはるべく候。

□やぶちゃん注

 冒頭、自身遺愛の目録とその所在とその一部の形見分けを明記、江戸に残る遺稿の校閲を、目の前にいる、この遺言代筆者本人である支考に厳として命じ、杉風には気になっている誤伝錯誤の釈明を当該人物に必ず伝えよと注する。芭蕉という句狂人の強烈な覚悟が見てとれる一通である。

・「三日月の記」「三日月(みかづき)日記」とも。元禄初年頃に江戸深川の芭蕉庵に来訪した門人たちの発句を編集した稿本「芭蕉三日月日記」を、この元禄七(一六九四)年の七月から九月、郷里伊賀上野滞在中に精選、完成させたもの(それ以前の元禄五年に芭蕉庵で稿本が完本化されており、これは芭蕉からその時に訪問した「奥の細道」の旅で世話になった山形羽黒山山麓の手向村の近藤呂丸(ろまる)に譲られている。呂丸はしかし先立つ元禄六年に京で客死してしまう)。結局、本作は支考の編に委ねられ、後に日の目を見ている(享保一五(一七三一)年序)。因みに、呂丸は死の直前に支考を訪ねている。何か、妙な因縁を感じるのは私だけだろうか?

・「新式」「連歌新式」。正式名称は「連歌新式追加並(ならびに)新式今案(こんあん)等」。南北朝時代の連歌式目で「応安新式」とも称する。二条良基の編になり、文中元・応安五 (一三七二)年の成立。それまで各連歌集団毎に行われていた様々な式目の修正・統一を図ったもので「建治の新式」を元にして救済(ぐさい)らの協力を得て成ったもの。富山氏の注によれば、土芳の「三冊子」にも『俳諧の作法の根幹は、この書に基づく旨を説いている。但し、芭蕉の筆写本』と附言されてある。

・「杉風」杉山杉風(すぎやまさんぷう 正保四(一六四七)年~享保一七(一七三二)年)は蕉門十哲の一人。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「杉山杉風」によれば、『江戸幕府出入りの魚問屋主人。生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである』。一時、第五代将軍綱吉による生類憐の令によって、『鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった』とある。芭蕉の江戸蕉門の代表格であると同時に彼の有力なパトロンでもあった。三通の遺書には総てに「杉風」の名が記されており、名実ともに芭蕉が最も信をおいていた門人であったことが分かる。

・「落字」脱字。

・「本冩」正式なものとして作っておいた写本。

・「校し」一応、「けふし(きょうし)」と読んでおく。校合(きょうごう)し。

・「百人一首」京での芭蕉の師で歌人・歌学者でもあった北村季吟の著わした「百人一首拾穂抄(しゅうすいしょう)」のこと。富山氏注に、『但し、芭蕉の抜書本』とある。

・「古今序註」同じく芭蕉が抜き書きした、了誉著の「古今集序註」。了誉は南北朝末から室町中期に生きた鎮西流浄土宗第七祖である聖冏(しょうげい 興国二・暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)。号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)。常陸国椎尾氏の出。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く教学を修め、宗徒養成のために伝法の儀式を整備、五重相伝の法式などを定めたりしている。神道・儒学・和歌に精通し、「古今集序註」はその代表作で、江戸小石川伝通院の創建者としても知られる(以上はウィキの「聖冏」に拠った)。

・「埋木」「うもれぎ」と読む。北村季吟の手になる俳諧奥義書「俳諧埋木」。芭蕉は延宝二(一六七四)年三月十七日に師季吟より直接これを伝授されたとする。延宝元年刊行されているが芭蕉が受けたのは直筆の書き本であったらしい。ここに出るのもそれであろう。これは現在、藤堂家本写本として残り、ネット上の情報によれば、その巻末の識語(しきご)には、『此書、雖爲家傳之深祕、宗房生依誹諧執心不淺、免書寫而、且加奧書者也、必不可有外見而巳。 延寶二年彌生中七  季吟(花押)』(本文のやぶちゃん書き下し:此の書、家傳の深祕と爲すと雖も、宗房生、誹諧の執心淺からざるに依つて、書寫を免して、且つ奧書を加ふる者なり、必ず外見有べからずとのみ。)という、芭蕉に俳諧秘伝伝授を許して書写させたことが季吟の自筆で記されてあるとする。

・「半殘」前の実兄宛遺書に既注の山岸重左衛門。

・「江戸」江戸蕉門宛。

・「羽州岸本八郎兵衞」出羽国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)酒井藩藩士の蕉門俳人(「奥の細道」の旅で出会って入門した)。俳号を公羽(こうう)と称した。

・「拙者句になり」私めの句として載ってしまっており。

・「公羽と翁との紛れにてこれ有るべく」「公羽」という縦二字の文字列と私を指す「翁」という一字とを混同してしてしまった結果の誤りと思われるによって。

・「きつと御ことわりたまはるべく候」必ず直ぐに、こうした事情で誤記してしまいましたと、釈明と侘びを伝えておくようお願い申し上げる。