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Hippocrates Hippokrates ヒポクラテス ②

2018.01.25 06:18

http://www.arsvi.com/w/h01.htm  【Hippocrates Hippokrates ヒポクラテス】より

こうしたかたちであってもともかく医学理論は徐々に体系化されていった。ギリシア医学も東洋医学も個々の違いはあるものの本質的にはこの段階に当たる。こうした医学理論は、自然現象との類似論と、治療や発病にかんする個体差に注目した体質論にその特徴がある。同一の病状を呈しても種々の病態が組み合わさっていることのほうが多いことからしても、前近代の医学者が数少ない治療手段を有効に駆使しようときわめて大きな努力を重ねてきたことは想像に難くない。彼らの注意ぶかい観察力や推論の鋭さには現代でも充分批判に耐えるものも少なくはない。ヒポクラテスが医聖として尊ばれるゆえんでもあろう。薬物療法のなかには現代の解熱剤、利尿剤、強心剤などすでに発見されており萌芽的には抗生物質の利用もみられたことが記録されている。

 この時代の原因説が、体質説やバランス説に傾きがちであったことは、単一の原因を実証的に追究する科学的手段と哲学をもちあわせていなかった段階ではむしろ当然であったかもしれない。しかしそのことは分析的方法が無力であることの証明にはならないはずであるのに事実上無視ないし軽視され、逆に体系化された思弁が尊ばれてしまったのである。

 いずれにしても死に直結する異常と直結しない異常の区別の確立は前近代とそれ以前を区分する重大な進歩であった。この区別はその後の医学を前進させる一つの原則であり、現代医学でもその重要性はいささかも減じてはいない。

◆Kleinman, Arthur 1980 Patients and Healers in the Context of Culture,University of California Press(=1992, 大橋英寿・遠山宜哉・作道信介・川村邦光 訳『臨床人類学――文化のなかの病者と治療者』弘文堂).

(p118)

 病者の説明モデルでも治療者の説明モデルでも、それを表現するのに用いられるメタファーが分かれば、その底にある文化の様式が照らし出されてくる。たとえば、西洋では民間の説明モデルにも専門家の説明モデルにも、"戦争"のメタファーが滲み込んでいる。伝染病と"戦う"、疾病を"征服する"、病原菌が"侵入する"、免疫学での"防衛"というのがそれである。戦争のメタファーは『ヒポクラテス全集』にもみえるし、ガレノスの伝統を通じて現代にいたるまでたどることができる。しかしそれは、けっして普遍的なものではないのである。身体を一個の機械としてイメージして、病気を機械論的に説明するのも、少なくとも十七、十八世紀の啓蒙運動以来の西洋に固有のものである。台湾の民間の説明モデルでは、人のメタファーが用いられることが多く、意図的であれ偶然であれ亡霊に"出くわす"(《衡》ch'ing)と《衡着》chhiong-tioh病気になるという。

◆Gilligan, C 1982 In a Different Voice : Psychological Theory and Women's Development, Harvard Univ.Press(=19860419, 岩男寿美子監訳『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店).

(p183)

非暴力主義運動の精神的真実と、エリクソン自身の精神分析をバックにした理解における真実との関係のもつれをとこうとして、彼は「真実は"暴力の使用を排除します。なぜなら、人間は絶対的真実を知ることができないし、したがって人間は罰する任に耐えられないのです"と、あなたはかつておっしゃいました」と、ガンジーに思いださせていいます(5・p241)。非暴力主義運動と精神分析学との類似点は、「真実における実験」として人生をみることに両者ともにかかわっていることにあります。つまり、両者とも、「人は、傷つけることを避ける行動によってのみ―あるいは相互関係を極大化し、また一方的強制とか脅威によってひき起こされる暴力を極小化する行動によって、もっともよく―真実(あるいは病気の状態に固有の治癒力)をためすことができるというヒポクラテスの原理に従った、普遍的な"治療法"になっているのです」(5・p247)。しかし、エリクソンは、ガンジーは真実の相対性を認めることに失敗していると批判しているのです。この失敗は、ガンジーが真実の絶対的所有を要求したことにはっきりみられます。つまり、「"内なる声"によって是認されたことを除いてはだれからもなにごとも学ぼうとしないこと(校正者注:「だれから なにごと」傍点)においてその失敗は明らかにみられるというのです(5・p236)。この要求をすることによってガンジーは、それがどんなに他人の誠実さにたいして暴力をふるうことになるのか気づかずに、またそれを顧慮しないで他人に自分の真実を、愛を装って押しつけていたのです。

◆H.クース「体外受精と胚移植への倫理的アプローチ--いったい何についての倫理なのか」 Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).

(pp68-69)

 ヒポクラテスは正しい。つまり「判断を下すのはむずかしく、実験には危険が伴う」のである。それでも、いやそうだからこそ、答えを見つけ出さなければならないのだ。「新しい科学」を無批判に受け入れることは、「古い道徳」を無批判に受け入れることと同様、「吟味されない生活」の要素になるのである。われわれは、どのようにして自分の生活や習慣を吟味することができるのだろうか。話し合いや議論を戦わすことによってである。すなわち、ハーバマスがいっているように、いったん問題にされたら、より優れた議論の力、合理的な基盤に基づいた概念の分析によってのみ、その問題は真に解決されたといえるのである(*23)。

 そして、それこそが、本書と、体外受精や胚移植に関する議論が最終的に関わっている問題であり、実際に倫理が関わっている問題であると私は思う。

◆宝月誠, 19860105, 「クスリと人間の生活」宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』世界思想社:3-10.

(pp5-6)

 第三に、次々と医療の現場に登場してくる嚢の中で、医師はどのようなクスリを患者に投薬したらよいのか迷ってしまう。「薬のすべての情報を適確に知り、自分の患者のどんな症状に対しても客観的に最適の薬をえらぶことができると、本心からいえる医師はまずはいないだろう」(4)という見解が出てくる。しかも、クスリの洪水は、医師を単に混乱させるだけではない。医師が「めったに効かないかわりに毒にもならない薬」を患者に投与していたという時代は永遠に過ぎ去り、いまや医師は「強烈な治癒力―あるいは人ごろしの可能性をもった薬」とも対決しなければならないのである(5)。品目の多様化と絶えざる新しいクスリの洪水、そして強力な治癒力と同時に危険性をひめたクスリの出現は、医療現場の人間にとってそれは自由に使いこなせる代物ではなく、逆にそれにふりまわされるものとなっている。「少なくとも、ヒポクラテスの時代から、医師は患者がかかっている病気よりも危険な薬をのませたり、処方してはならないという基本原則があった」(6)といわれるが、いまやクスリは医師の手に余るものに変貌しつつある。

◆米本昌平, 19880425, 『先端医療革命――その技術・思想・制度』中央公論社.

(p9)

 さて、急性疾患から慢性疾患への移行は、当然のことながら、医療の意味の構造的変化をともなうものであった。その典型が、医の行為の特権的地位の崩壊である。長い間、医療行為は無限定に善であると信じられてきた。これはアフリカの難民キャンプに日本の医師団が入ったことを考えればよい。医者と患者の関係は一対一に近く、治療効果はすぐ現れる。ここでは医師の行為は疑いようもなく善である。このような急性疾患の時代にも"医の倫理"という言葉はあるにはあった。しかし、それは医者という特殊なギルドとしてのエチケットという性格が強く、現在のように医療行為そのものの意味が問われ、医の倫理がラジカルな検討に附されるような契機は、本質的になかったと言ってよい。

 しかし、医療の現代化が進むにつれて、医療の側は治療効果のみえにくい慢性疾患を、科学技術の力で押え込もうとするようになる。医療はチーム化し、大がかりなものになり、医療ができることは病気の治療よりは、症状の管理や操作であることが、しだいに見えてくる。そしてここには、「医師は患者のためになると思うことのみを行う」というヒポクラテス流のパターナリズム(父権主義的配慮)が成立しなくなり、心ある医師は医療そのものの意義について悩まなくてはならなくなる契機が含まれている。

◆Martin, Luther H.; Gutman, Huck; Hutton, Patrick H. eds. 1988 Technologies of the Self: A seminar with Michel Foucault The University of Massachusetts Press(=19990907, 田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー--フーコー・セミナーの記録』岩波書店).

(p22)

 おそらくわれわれの哲学の伝統は、後者を過度に強調して前者を忘れてしまったのであろう。このデルフォイの掟は人生についての抽象的な掟ではなかったのであり、技術的な勧告であり、神のお告げにうかがいを立てるために守らねばならない規則であった。「なんじ自身を知るべし」とは、「なんじ自身を神だと思うなかれ」という意味であった。別の解説者の考えによると、「神のお告げを聞きにくるときには、本当に聞きたいことは何であるかを承知しているべし」という意味であった。

 ギリシャ・ローマの文献のなかでは、なんじ自身を知るべしという命令は、なんじ自身に気を配るべしという別の掟とつねに結びつけられていて、このデルフォイの箴言が実際に行なわれるようになったのは、自分自身に気を配るべしというあの必要性によってであった。その必要性はギリシャ・ローマのすべての文化のなかに潜在しているが、プラトンの『アルキビアデスⅠ』以来、明示的だったのである。ソクラテスの対話のなかで、クセノフォン、ヒポクラテスのなかで、またアルビノス〔二世紀のプラトン主義哲学者〕以来ずっと新プラトン主義の伝統のなかで、人々は自分自身への関心をもたなければならなかった。例のデルフォイの掟が実行に移されるまえに、人々は自分自身に専念しなければならなかったのだ。このデルフォイの掟は前者の掟〔自己への関心・自己への専念〕に従属していたのだ。この点について以下に三、四の例をあげておく。

◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂通夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).

(pp14-15)

 よい医師の役割がどのようなものかについて、古代ギリシャの医師が全員同意見であったわけではない。そしてこの点において、現代の医療倫理においてもなお大きな論争点となっている対立が見えてくる。ヒポクラテスとそのグループの医師が主張した倫理は、患者中心主義の立場とすべての生命を神聖だと考える世界観から成っており、後者の視点から医師が妊娠中絶を行ったり安楽死をさせたりしてはいけないとの立場が表明された。他方、ほとんどの古代ギリシャの医師は<自然主義的な>立場をとっていた。これは現代の科学的な世界観の先駆けとも言える。この医師たちは、見えるもの感じられるものをもとにして判断を下すという立場をとっていた。そこで行われる医術は、神の命令が何かとか死後の生命がどのようなものかということをもとにするのではなく、今ここで生きている患者への援助を中心に考えていた。そこから、この医師たちはしばしば末期状態にある患者の死の手助けをした。この人たちは、回復の可能性がほとんどなく、苦痛と苦しみだけの人生を長引かせることは意味がないと考えていたため、<生命の神聖さ>ではなく<生活の質>を重視していたことになる。患者の死を助けるときに、その人たちが、それは医師の役割だと考えたのか、あるいは同情心から行ったのかは、はっきりしていない。いずれにせよ、自然主義的立場の医師の多くが医術を行うときには、ヒポクラテス派の医師とは非常に異なる価値判断をし、非常に異なる目的を持っていた。

(p16)

 注意しておくべきことは、ソクラテス的な徳が反民主主義的でエリート主義的な倫理という色彩を強く持つものであり、その結果として普通の人間やその人の価値は軽蔑されていた、という点である。ギリシャ人は、自分たちが征服した国民はどれも自分たちより劣等だと見なしていた。アリストテレスの教えを受けたアレクサンダー大王は、誰にでもギリシャの価値、文化、言語を教え込もうとし、他国の「劣った」国民の文化を許容しようとはしなかった。アレクサンダー大王の考え方の基になっているギリシャ的倫理は、完全主義的、貴族主義的、実力主義的なものだった。この点から考えると、古代ギリシャの医師のうち、生活の質を強調した人たちはエリート主義的で完全主義的だったのに対し、生命の神聖さを強調したヒポクラテス学派の人たちはギリシャ特有の傾向をさほど持っていなかったと言える。

(pp125-127)

 1古代ギリシャとヒポクラテスの誓い

 医師による殺害を禁止するヒポクラテスの誓いは、古代ギリシャのソクラテスの時代に始まった。それは医療倫理の起源であるとしばしば考えられているが、この一般的な考え方に対して、一九三一年医学史家のルートビッヒ・エーデルシュタインが、ヒポクラテスはピタゴラスの弟子であったと述べて、異論を唱えた(1)。ピタゴラスは、ピタゴラスの定理で知られるように、普通は数学者と考之られているが、彼はまた、数を神より与えられたものとして崇拝し、生命はすべて神聖だと信じていた神秘主義者でもあった。とすると、彼の弟子であったヒポクラテスは、ギリシャの医師の大多数を代表するような人物ではなかったことになる。さらに、ヒポクラテスの『著作集』は、ヒポクラテスという名の一人の人間の作品ではなく、多くの彼の弟子たちが書き加えていったものである。ヒポクラテス学派の医師たちは、「法的に認められた専門職の資格は何も持っておらず」、治療にあたっては、体操の教師、薬剤商人、薬草業者、産婆、悪魔払い人、「魂の浄め人」と呼ばれる人たちと競う立場にあった(2)。

 もともとのヒポクラテスの誓いの内容について多くの人が誤解をしている。まず、原典通りの誓いを使っている医科大学は今日ではほとんどない。また原典のものを使っているところでも、多くの部分、特に最後に現れるキリスト教から見れば異端の神への誓いの部分が変更されている。さらに、医科大学の卒業式で唱えられる誓いは、その学校で教えられてきたいろいろな価値を必ずしも反映しているとは言えない。原典の誓いが実際医師にどのような約束をさせているかを見てみよう。エーデルシュタインの訳による全文を以下に示す。

 私は、医神アポロ、アスクレピウス、ヒギエイア、パナケイア、そしてあらゆる男女の神々にかけて、自分の能力と判断に従って、この誓いと約束を果たすことを誓い、これらの神々をその証人とする。

 私にこの技を教えてくれた人を、私の両親に等しいものと見なすこと、その人と協同して自分の人生を歩むこと、その人がお金を必要とするときには私の持ち分のいくらかを差し出すこと、その人の子孫を男性家系における私の兄弟に等しいものと見なすこと、その人たちが学びたいと望むなら、わが師の技を報酬も約束もなしに教えること、命令やU述の教えや他のすべての知識を、自分の息子たちやわが師の息子たち、さらには約束を結び医療の法に従ってこの誓いをたてた生徒たちと共有すること、しかしそれ以外の誰にもその知識は与えないこと。

 私は、病人の利益になるように、私の能力と判断に従って、食事療法を施そう。その人たちが危害と不正をこうむらないようにしよう。

 私は、たとえ求められたとしても、誰にも致死的な薬を与えはしない。また、死に至るような考えを伝えたりもしない。同様に、女性に対して中絶に至るような治療は行わない。純粋さと神聖さをもって、私は自分の人生と技を守る。私はナイフを使いはしない、たとえ結石患者に対しても。その仕事をなりわいとしている人にまかせよう。

 どのような家を訪れようとも、私は病人の利益を図り、正義にもとる行為を意図することはなく、いかなる危害も加えない。特に、自由人であれ奴隷であれ、男性とも女性とも性的な関係を持つことはしない。

 治療の途中であるいは治療とは関係のないときに、人々の生活に関して私が見たり聞いたりすることで、よそには決して知らせてならないものは、語るに恥ずべきことと考え、他人に口外はしない、もし私がこの誓いを破らず守り通すならば、人生と技を楽しみ、将来ずっと人々によって称えられるということが、願わくば私に許されんことを。もし私がこの誓いを破り偽りの誓いをするならば、この反対のことが私の運命となることを。

 今引用したヒポクラテスの誓いにおいては、死の間近い患者が死を要請しても手助けをしないこと、そして中絶を行わないとの誓いが含まれているが、それは当時の状況との関連で理解しなければならない。そのような誓いが含まれたのは、種々の治療者が競争するなかでヒポクラテスの学派が弟子のあいだの結束を図りたかっだからである。そのため、この誓いには、外科手術を行わないという誓い、さらには医術を教えることで学生からお金を徴収しない(医科大学の教師はこの点に注目すべし!)という誓いも含まれている。

 それゆえ、ヒポクラテス学派が、安楽死を禁止することで、自分たちの独自性を出そうとしたのも、当時の状況に関わっている。古代ギリシャでは、他のほとんどの医師が、しばしば患者を死ぬにまかせていたし、慈悲殺を行うことすらあった。実際多くのギリシャの医師たちは、患者が苦痛なしに死ぬよう援助するという術に秀でていた。死にゆく患者をただ見守る、あるいは死ぬのを手助けしてもよいという当時の一般的な態度には、二つの理由があったように思われる。第一の理由は哲学的なものである。ギリシャ人たちは、人生にはいくつかの自然な限界があり、それを越えて人生を長引かせようとするのは愚かなことだと考えた。(自然な限界の概念はギリシャ文化、特に建築や演劇の至るところに見られる。限界を越えようとすることは傲慢(ヒユブリス)であり、神によりうち砕かれることになる。)第二の理由は実際的なものである。端的に言って、当時の医師たちはさほど多くの知識を持っていなかった。また、競争相手によって自分の無知があからさまにされることを恐れていた。その結果、末期の患者に対しては、その治療を試みるよりは安らかに死なせることが多かった。

 にもかかわらず、ヒポクラテスの誓いは、自己犠牲と人間の生命の尊重という古代の伝統を象徴的に示している。それはまた、医師の都合よりも患者の健康を重視するという態度も象徴的に示している。今日、あまりに多くの医師がお金に貧欲になり(おそらくそのような医師が一人いるだけであまりにも多くと言えるであろう)、患者と情事を行い、患者の秘密を漏らしていることを考えれば、この象徴的な誓いを続けるのは賢明なことであろう。

(pp137-138)

 一般の人たちの多くは、ジャック・キボーキアンを民衆にとっての英雄と見なしているが、ほとんどの医師、そして多くの医療倫理学者は彼を非難してきた。自分の行為に対する批判について尋ねられると、「洗脳を受けた倫理学者やものを考えない医師の言うことを気にかける必要はまったくない」(12)と彼は答える。また、ヒポクラテスの誓いを破ることも気にしてはいない。彼は、こういう古代の考えに従う医師を「偽善的な(ヒポクリティック)ばか者」と呼ぶのである。

(p151)

 要約すると、「死期間際の人への死の幇助」が道徳的には「殺人」と同じことだとの議論は誤解を生む。というのは、「殺人」という言葉が使われるのは、ほとんどつねに、死にたくない人、しかも死期間際の患者ではない人の生命を奪う場合だからである。別の反対論として、医師の伝統的な役割は特別なものであり、「ヒポクラテスの誓い」に示されているように、医師は殺人をおかしてはならない、というものあるが、これは、今まで検討してきたものとは異なる、間接的な議論であり、のちに検討する。

◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂通夫・長岡成夫訳『医療倫理2――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).

(pp173-174)

 もう一つは、サウジアラビアに関連した話題である。一九八五年、『ピッツバーグ・プレス』紙は、ピュリッツァー賞を受けた一連の記事のなかで、一部の裕福なサウジアラビア人が、アメリカ人の臓器を買っていることを報じた。この報道は、アメリカ国内に衝撃を巻き起こし、多くの人々が臓器提供について「アメリカ人優先」の政策を求めた。興味深いことに、かつて病院が医療を「本来の管轄対象」にだけ提供することを正当化できるとしていたニコラス・レッシャーが、この問題については、管轄対象でない人間を排除することは、ヒポクラテスの時代以来の医学の伝統に反することだと主張した。

 外国人が臓器を買うことができるのは、アメリカ人のレシピエントが一人も見つからない場合のみで、またその臓器がまもなく移植できる状態ではなくなってしまう時点になってからだということが発表されると、世論の興奮もどうにか収まった。しかしさまざまな委員会によっていくつかの調査が行われたのちに、臓器を他の国に輸出することは禁止された。ただし、問題の臓器が、他に使い道がないのなら つまり、その臓器をほしがっているアメリカ人候補者がいないことが確認できれば、外国人でもアメリカで移植を受けることが許されていた。しかしそれでも、トラブルが生じる可能性は依然として残されているように思われた。

(pp211-212)

 古代のギリシア人は一般に、精神障害の原因を、神々が怒って人々の精神を奪い去ることだと考えていた。しかし、ヒポクラテスや彼の弟子たちは、身体的な異常と同様に精神的な異常も自然の原因によると考えていた。プラトンは、狂気をつまるところ調和の崩れた状態、つまり精神の一つの部分だけが支配的になっている状態であると考えた(2)。古代ローマにおいてもまた、精神障害は神々のせいであると考えられていたが、何人かの医師、特にガレノスは、ヒポクラテスの自然主義的な考え方を支持していた。

 中世になると、この自然主義的な考え方はほとんど全面的に退けられた。精神異常の原因は悪魔がとりつくことだと考えられ、悪魔を退散させるために悪魔払いが雇われた。

(p290)

 アりストテレス以来、生物学の領域では、人間の生殖のどれくらいが固定した形相的なものによって決定されているのか、またどれくらいが未決定か、についての論争が戦わされてきた。アリストテレスは、人間の本質(形相因)は男性の精液のなかにだけあり、精液がほぼ受動的な素材(質料因)に働きかけて人間をつくると考えた(現在ではこれが誤りなのは明らかである)。胚の成長は、精液中に最初から存在する何かが展開することであるとの考えは、〈前成説〉と呼ばれる。この説は、アリストテレスがはじめて主張したものではなく、人間の発生について述べているそれ以前の書物にも見られる(たとえば、ヒポクラテス学派の著作において)(74)。中世において、前成説が主流の考え方となった。その当時には、受精の瞬間に人間がつくられ、胚の成長とは、「ホムンクルス」と呼ばれる微小人体が大きくなることだと考えられていた。この見方では、男性の射精により微小人体が女性の胎内に入り込むとされており、ダレンパティウスは、一六九九年、人の精子のなかにいくつかのホムンクルスを見たとさえ主張した(75)。

◆Frank, Arthur W 1991 At the Will of the Body: Reflections on Illness, Boston: Houghton Mifflin Company(=19960520, 井上哲彰 訳『からだの知恵に聴く――人間尊重の医療を求めて』日本教文社).

(p208)

 私には医療行為というものによってさんざん傷つけられ、心を踏みにじられてきた体験が多い。薬というものが本質的に毒と紙一重であるのと同様に、医療もまたそのような両側面―人を助けもするが、人を殺すこともある!(もちろん比喩である)―を合わせもっていることをもう一度認識する必要があるのではないか。そして、よき医者とはいかにあるべきかを説いた「ヒポクラテスの誓い」を医者はもう一度かみしめるべきときが来ているのではないか―。

◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).

(p17)

 古代の社会において,疾病には超自然的な解釈が付与され,「医学」は聖職者やシャーマンの領域であった。医学が,哲学や神学とは一線を画して独自の理論を持った独立した職業として出現したのは,古代ギリシャの時代であった。疾病の超自然的解釈と治療を受け容れることを拒んだ偉大なギリシャの医師であるヒポクラテスは,疾病の「自然」成因の理論をたて,入手可能なすべての医学的知識を体系化した。ヒポクラテスは独立した知識体系としての医学の発展の基礎を築いた。初期のキリスト教では病気を罪に対する戒めとして叙述し,新しい神学的な解釈と治療を打ち立てた。キリストとその弟子たちは,疾病の超自然的な成因と治癒を信じていたのである。この見解は中世において制度化され,教会の教義が医学の理論と実践を支配し,聖職者は医師となった。ヨーロッパにおいて起こったルネッサンスは,古代ギリシャの医学的知識への関心を再び呼び起こした。これによって疾病の自然的解釈,教会とは独立した職業としての医療の出現への流れが始まった(Cartwright, 1977) 。

 しかし,ヨーロッパ医学の発展は緩やかであった。ヒポクラテスによって開発された疾病の「四体液説」は,19世紀半ばまで医学の理論と実践において支配的であった。医学的診断は漠然とした印象に基づくものであり,しばしば正確ではなく,「発熱」とか「(体液の)異常流出」といった一般的な用語で患者の状態を描写していた。

(pp22-23)

 なぜ医師が堕胎反対運動の旗手となり,堕胎が逸脱で違法であるとの定義をするのに直接的に関わったのであろうか。彼らがその大義を道徳的な「正義」に求めたのは疑いない。しかし,社会史家ジェイムズ・モールは,医師の堕胎反対運動に関する二つのより微妙で重要な理由を示している(Mohr, 1978)。すなわち,第一は急激な出生率の低下に対して医師の間だけでなく,政治家の間においてでも懸念が高まってきていたことだ。(略)

 堕胎反対運動を起こした医師たちをけしかけた,第二の,そしてより直接的な理由は,今まさに生まれようとしている専門職化を助け,正規の医師の独占支配を作り上げるためであった。前述したように,正規の医師たちは科学的で倫理的な医学を推進し,彼らがいかさま医師と呼ぶものたちと戦うために,アメリカ医師会を1847年に創立した。しかしながら,医師を標榜するための資格法はなく,多くの者が「医師」(たとえば,ホメオパシー医師,薬草医師,折衷主義医師)の称号を名乗っていた。正規の医師たちは,自分たちの規範としてヒポクラテスの誓いと倫理綱領を採用した。とりわけ,このヒポクラテスの誓いでは堕胎を禁じていた。正規の医師たちは堕胎を日常業務として行っていなかったが,他のセクトの医療者は日常的に堕胎を行い,金もうけのために行っていた者もいた。かくして,正規のアメリカ医師会の医師たちにとっては,堕胎を制限することにより,他の医療者に対する自分たちの専門職的支配を確実にすることができたのだ。これらの運動において,正規の医師たちは文化的および専門職的支配という社会的な目標を,道徳的および医学的な言葉に移し変えたのである。彼らは,堕胎の危険性と不道徳性を,政治家に納得させるように長いこと,また懸命にロビー活動を行った。妊娠期間のいかなる時であっても堕胎を違法とする法案が可決された後,正規の医師は倫理綱領を設け,彼らの競争相手に対して制裁を加える地位を得ることができた。このことは競争相手の市場を制限し,正規の医師たちが医業の独占支配を達成する大きな一歩となった。

(pp75-76)

 医療モデルの起源――古代ギリシャとローマ

 西洋の思考において,観念や概念の多くの起源は古代ギリシャにさかのぼることができる。おそらくわれわれの議論で最も重要なのは,ギリシャ人が合理的な自然観と人間観を最初に導入したことである。この観点はそれまでの文化で支配的であった宗教的な世界観と鮮明な対照をなしており,原初的な「科学」と自然医学の発展を促した。ローマ人はギリシャの知を複製して拡張し,さらにそれを未来の文明のために保存した。

 ほとんどの歴史学者は,近代医学はギリシャ時代に始まったと考えている。ヒポクラテス(460-377BC)は「医学の父」と呼ばれ,臨床での詳細な観察を続けた医学哲学の先人の思索を集大成した。彼は自然因を基礎として,すべての疾病を一貫して説明しようと試みた最初の人である。合理的知識と自然による説明を方法的懐疑とともに一貫して維持することは,科学的態度の萌芽であり,ヒポクラテス医学の伝統の基礎を形作っている。

 ギリシャ人は狂気に対して二通りの説明を用いた。一つは,狂気は神が取り憑いたり,黄泉の国の霊が乗り移ったために起こるとする世界観的・超自然的説明で,ギリシャの一般の人々によって信じられていた。神話上の神は日常生活の一部と考えられていたために,現実感があった。もう一つは,文献に記録が残るものとしては最初の医学的な説明である自然医学的説明で,狂気を自然に原因がある疾病として定義するものであり,上流階級の一部でのみ採用されていた。

 ギリシャ医学ではその早期から,狂気を疾病としてあるいは身体的な疾病と同じ病因による疾病の症状として考え,超自然的な説明を排除していた(Rosen, 1968:76)。狂気の原因は,すべての病いを説明するのに用いられた一般的な疾病理論,すなわち体液理論によって説明されていた。体液理論(humoral theory)は,ヒポクラテスの時代から17世紀に入るまで影響力を持っていた理論で,生理学的な説明としては子供だましのような単純なものである。この理論では四つの体液――血液,粘液,黒胆汁,黄胆汁――の存在を仮定している。これらは全身に流れており,それらの割合や均衡が健康にとって重要な意味を持つとされた。四体液は,身体の体質に影響を与え,その相対的な割合によって人の健康や気質を決定する。人の気質と心の状態は,これらの体液の均衡によって決定された。狂気はこの体液均衡の崩壊,通常はその過剰によるものとみなされていた。たとえば,メランコリア,あるいはうつ病は肝臓で生じる黒胆汁の過剰のために起こり,脾臓から脳への黄胆汁の突然の異常流出は不安をもたらし,「怒りっぽい」気質となる。狂気を描写するためにヒポクラテスが用いた名前は,現在でも身近なものである。すなわち,てんかん,マニア(異常な興奮),メランコリア(うつ病),そしてパラノイアである(Zilboorg, 1941:47:邦訳『医学的心理学』神谷美恵子訳,みすず書房,1958)。確かにメンタル・ヘルスに関するこの考え方の片鱗は,人が「きげんが悪い」(bad humor)というときに用いられる言葉の中に保持されている。

(p79)

 神学的制度や理論は支配的であったが,狂気の医学的概念は,栄えていたとはいえないまでも,この時代に存在していたのだ。9世紀までには,サレルノの医学校ではヒポクラテス学派を他の伝統的な医学とともに発展させ,多数の精神障害類型を特定していた。

(p214)

 アヘンは古代ギリシャの医師によって医薬品として使用された。ギリシャの博物学者であり哲学者でもあるテオフラストスは,ケシ属の植物の分泌液の使用にはっきりとふれた最古の記録を記載した(Szasz, 1974:171)。ヒポクラテスはアヘンに通じ,その使用に対して警鐘を鳴らした。しかし,最後の古代ギリシャ最高の医師であるガレノスはアヘンを万能薬とみなした。

◆Singer, Peter 1993 Practical Ethics, 2nd Edition, Cambridge Univ. Press(=19991025, 山内友三郎・塚崎智監訳『実践の倫理 新版』昭和堂.

(pp210-211)

 第六章で中絶に関する私の見解への反論を検討したとき、中絶のみならず乳児殺しについても論じた。そのため、〈ひとたび中絶が認められれば、次に控えているのは安楽死ではないか〉という人命の神聖性の信奉者たちの懸念はますます強まったことだろう―彼らにとって、安楽死はまちがいなく悪である。彼らが指摘するとおり、紀元前5世紀に医師たちが「ヒポクラテスの誓い」を立てて、「頼まれても致死薬を与えず、そのような助言さえしない」と神に誓ったとき以来、安楽死は医師たちによって拒否されてきた。さらに彼らの論じるところでは、ナチスの根絶計画は、ひとたび我々が国家に罪のない人間を殺す権限を与えれば、いかなる事態が生じるかということについての近年の恐るべき実例なのである。

 第六章で示した根拠にもとづいて中絶を認めれば、一定の状況のもとでは胎児以外の人間を殺すことも認められるという主張が説得力を持つことを私は否定しない。しかし、本章で明らかにするつもりであるが、このような主張は恐怖の対象とみなされるべきではないし、ナチスとのアナロジーを用いることは完全に誤解のもとである。むしろ反対に、いったん〈人命の神聖性〉に関する教説を捨てされば―第四章で見たとおり、この教説は検討しはじめればすぐにも覆ってしまうものであるが―、人間を殺すことを断固として認めないほうがむしろ恐ろしい場合があるのである。

◆Singer, Peter 1994 Rethinking Life & Death, The Text Publishing Company, Melbourne(=19980225, 樫則章 訳『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』昭和堂).

(pp116-117)

 刑法における中絶もこれとよく似た経過をたどっている。イングランドの伝統的コモン・ローと、コモン・ローの伝統に従っている他の国では、胎児が動き、生きているとわかった後でなければ中絶は犯罪とされなかった。一九世紀になると、これが法律によって変更された。受胎以降のどの段階でも中絶を犯罪とする法律が、最初にイングランドで、ついでアメリカで定められた。この新たな法律が制定されたことにはいくつかの理由がある。アメリカでは、一流の医学校を卒業した「資格のある」医師たちがこの法律の制定を強く支持していた。当時、彼らは自分たちと、多種多様な「無資格の」施術者たちとを区別しようとしていたからである。「無資格の」施術者とは、正規の医学教育を受けず、それとは異なった教育を受けて、あらゆる種類の病気の治療にあたっていた人たちのことである。資格のある医師のきわだった特微の一つは、彼らが「ヒポクラテスの誓い」を立てることだった。「ヒポクラテスの誓い」は医療の倫理的基礎を与えるものとみなされていたが、この誓いを立てるとき、医師は妊娠中絶をおこなわないことを誓った。それと同時に、資格のある医師は、競争相手である無資格の施術者よりも科学的にすぐれた教育を受けていたので、胎動初感が人間の成長過程において何も特別な瞬間ではないことを理解していた。したがって彼らにとっては、「成長しつつある生命が保護されるべき時点は胎動初感である」と定めていた当時の法律は非論理的で非科学的だったのである。

(p118)

 中絶の合法化に対する国民の支持がまったくなかった以上、中絶撲滅運動が完全な成功を収めたことは驚くにはあたらない。二〇世紀に入る頃にはアメリカの全州で、妊娠のいかなる時期の中絶をも禁止する法律が制定されていた。これは、その後五〇年以上にわたって続いた中絶に関する合意の時代の到来を告げるものだった。売春禁止法によって売春がなくなったわけではないのと同様に、この法律によって中絶がなくなったわけではない。しかし、ジェームズ・モーアがアメリカの中絶に関する古典的な歴史的解説のなかで述べているように、「一九五〇年には、アメリカの世論は中絶を社会的に憎むべきものとみなしていた。そして、中絶の再合法化を適切な国家的実践としてあえて公然と要求する者はアメリカ社会にはほとんど誰もいなくなっていた(4)」。国際的なレベルでは、一九四八年、「ヒポクラテスの誓い」を現代化するためにジュネーヴで世界医師会が開かれたとき、「誓い」の新版〔=ジュネーヴ宣言〕に「私は受胎の瞬間から人命を最大に尊重します」という一文が盛り込まれた(5)。

(pp167-168)

 胚や胎児にかかわる問題、乳児にかかわる問題、脳がまったく機能していないか、脳幹しか機能していない患者にかかわる問題――これらの問題はすべて「人間」という概念の境界線上にいるような人間にかかわる問題である。そのため、これらの問題に関する論争は「人間であるとはどういうことか」という問題に変わってしまうことが非常に多い。ところがこれとは対照的に、「医師が、意識のある自律的な患者を――その患者からの要請があれば――を殺してもよいか」という問いは、伝統的な「ヒポクラテスの倫理」の中核をなすとしばしばみなされてきたものにたいする真っ向からの挑戦である。たしかに、殺してほしいと患者自身が繰り返し依頼しているという事実がある場合、患者の家族と医師と裁判官は、自ら意思決定できない患者について「生命の質がとても低いので、生き続けないほうがよいのではないか」という決定を迫られることはない。結局のところ、その生命は患者のものである。それなら、患者に十分な情報にもとづいた判断をくだす能力があるかぎり、患者の生命が生きるに値するかどうかについて、誰が患者よりもよく決定できるというのだろうか。患者には、死ぬための手助けを求める権利があるのではないだろうか。また、医師が進んでその手助けをしようとしているなら、法がその邪魔をするべき理由があるだろうか。それでも、患者が死ぬための手助けを求め、医師がそれに応えて患者に致死薬を注射すれば、そこで現におこなわれていることをごまかすことはできない。医師の意図は、トニー・ブランドの場合と同様、明確である。しかし、明らかにこの場合の医師の意図は殺すことであり、死ぬにまかせることではない。したがってこれが、伝統的倫理が生き残りをかけて必死に戦っているもう一つの領域なのである。政治的には、「生命の神聖性」の倫理に対する最も激しい戦いが現在繰り広げられているのはこの領域である。これから述べる実例によって、変革への圧力がどのようにして高まりつつあるか、その一端がわかるだろう。

(p182)

 ポストマ事件のあと、王立オランダ医師会が自発的安楽死に対する従来の態度について再検討した。一九七三年、まだどこの医師会も「医師は患者の死を助けてはならない」というヒポクラテスの伝統を無条件に支持していたときに、オランダ王立医師会は自発的安楽死への扉をほんのわずかに開いた。医師会は、自発的安楽死は違法のままにしておくべきだとしながらも、次のような提案をした。すなわち、医師が患者のおかれた状況をくまなく考慮したうえで、不治の病におかされ死に瀕した患者の生命を短縮した場合には、裁判所は医師の行為を正当化しうるような義務の葛藤があったかどうかを判断するべきではないか、という提案である。

◆佐藤純一, 19950425, 「医学」黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』世界思想社.

(p22)

 特定病因論とは近代医学の中心的な病気の原因の考え方(病因論)で、簡単に言ってしまえば、「特定の病気には特定の原因があるという考え方」である。近代医学の病気観に馴れ親しんでいるわれわれにとって、「あたりまえ」の考え方に聞こえるかもしれないが、このような病気観を取らない医学・医療もおおく見られ、近代医学はこの考え方を採用し、特異的に推し進めてきたと言える。病気の概念の研究である疾病論の観点から言えば、この特定病因論の構造は、二つの論理に分けて考えることができる。第一に「病気という実体が存在する」という、いわゆる「存在論的疾病観」である。近代医学は、そしてわれわれの多くは、「がん」とか「肺結核」とか、病気を一つの「単位」や「種」のような実体的カテゴリーとして考え、病人はその実体としての病気の宿主やキャリアー(担体)と考える。診断・治療の対象は、病人でなく病気ということになる。この存在論的疾病観に対して、病気の実体的存在を否定し、病気とは、体内の流れや要因の間の、または肉体と精神の間の、または人間と環境の間の、調和(バランス)の破綻と捉える病気観も存在する。これは生理学的疾病論とも呼ばれ、ヒポクラテス学派の体液理論や、中国医学の「気」の理論が、これにあたるとされており、この理論からは、存在して診断・治療の対象となるのは病人それ自身であり、病気は存在しないことになる。

◆栗岡幹英, 1995, 「現代医療と生活世界」『人文論集』45(2):53-85.

(pp58-59)

 患者の医療に対する信頼は、現代医学のこれまでの歴史においては、医師の倫理性と医療の有効性の二つの条件のもとで確保されてきた。第一に、近代において医師は確固とした職業倫理をもつ典型的な専門職だと考えられてきた。この職業倫理の中心は、患者の利益に奉仕することであった。ヒポクラテスによる「医の誓い」や日本における「医は仁術」という言葉などに示されるように、医者は患者への奉仕という観点から人間的に信頼しうることを求められ、かつ認められてきたのである。第二に、個別の医師に対してはともかく、現代医療の有効性については、多くの人びとが基本的に信頼を寄せてきた。現代医療の苦手とする慢性疾患などについて民間療法に頼る傾向はあるものの、この社会の大部分の成員にとって現代医療が罹患した場合の主要な選択肢であることは確かであろう。医師は、この現代医療にかかわる専門家として信頼されているのである。しかし、この二つの意味での信頼は、最近では揺らいでいるのではないか(8)。この事情は、近年の医療過誤訴訟の増加という事態と脳死・臓器移植問題に対する世論の対応によって、ある程度裏づけられるように思われる。

◆宮坂道夫, 199809, 「新潟大学医学部における生命倫理教育の取り組み--わが国における医の倫理教育の拡充に向けて」『生命倫理』8(1):75-80.

(p77)

 あらためて言うまでもなく、伝統的な医の倫理教育の原形は「ヒポクラテスの誓い」に求められ、今日「パターナリズム」として批判される性格のものであった。その教育はインフォーマルであり、正規のカリキュラムではなく、教員や臨床医の態度を観察し、模倣するという学習(apprenticeship)を通じて学ばれるものであったと言われる(7)。一方、1970年代以降、医学部・医科大学の正規カリキュラムに現れ、今日まで増え続けている医の倫理教育は、明らかにバイオエシックスの隆盛の影響を受けた現象であろう。しかしながら今日の医の倫理教育が欧米において反「パターナリズム」的であるというような単純な構図は必ずしも正しくはない。この点に関して明示的に論じる者は少なく、バイオエシックスと今日の医の倫理教育の関連性は、曖昧にされている観があるが、アメリカにおける医の倫理教育カリキュラムの登場と、その普及の歴史からは、この曖昧さが如実にうかがわれる。

◆市野川容孝, 19990331, 「優生思想の系譜」石川准・長瀬修編『障害学への招待―― 社会、文化、ディスアビリティ』明石書店.

(pp.x-x)

 古代ギリシアの医師ヒポクラテスは、プラトンとほぼ同時代の人物だが、彼の学派で確立されたとされる医療倫理は、二千年のときを隔てた今日においても高い評価をえている。世界医師会は、障害者の大量虐殺や強制収容所での人体実験といったナチスの医療犯罪が白日の下にさらされた一九四七年に、「ヒポクラテスの誓い」を医療倫理の原点として再確認しながら「ジュネーブ宣言」を採択した。

 そういう意味で「ヒポクラテスの誓い」は、優生思想がその極点にまで達したナチズムの対極に位置づくものなのだが、しかし、ヒポクラテスの説く医療倫理は、なるほど(右で定義したような意味での)積極的な優生政策から手を引く根拠にはなりえても、優生政策そのものから完全に自由であるわけではない。例えばヒポクラテスは次のように述べている。「医術とは何かについて私の考えている定義を述べよう。医術とはおよそ病人から病患を除去し、病患からその苦痛を減じることである、そして病患に征服されてしまった人に治療を施すことは、医術のおよばぬところと知って、これを企てることを断ることである」(『古い医術について』岩波文庫、八七頁)。つまり、不治であることが判明した患者を見捨てることこそ、医師のあるべき姿だとヒポクラテスは言っているのである。

 ヒポクラテスのこうした冷淡さは、しかし、その科学的思考の代償である。ヒポクラテスは、癲癇に関する、当時としてはありふれた呪術的思考、すなわち癲癇は目に見えない精霊が憑依した結果であるという考えを否定しながら、すべての病には人間が合理的に認識できる自然的原因があると説いた。そうした科学性ゆえに、ヒポクラテスは今日においても高い評価をえているのだが、まさにこの科学性が右の冷淡さを導き出している。つまり、ヒポクラテスにとって、治癒の見込みのないことが判明している患者に、にもかかわらずかかわりをもち続けることは、呪術師や祈祷師のふるまいと同様に非科学的で、詐欺まがいの行為として映ったのである。

 確かにヒポクラテスの医療倫理は、医師が患者を故意に死に至らしめること(今日で言う「積極的安楽死」)を禁じており、その意味でナチスがおこなったような障害者の抹殺に医師が関与することを禁じているが、しかし同時に、不治の病や障害をもつ人びとに医師がかかわりをもつこと自体を禁じているのであり、そうした人びとの生を積極的に支えていく方向には決して向かっていない。それどころか、ヒポクラテスの医療倫理は、「生まれついての病気持ちで不摂生な者は、本人にとっても他の人びとにとっても生きるに値しない人間であり、医療の技術とはそのような人びとのためにもあるべきではない」という先のプラトンの(消極的な)優生思想と完全に一致してしまうのである。

(pp.x-x)

 ドイツで断種法が制定された直後の一九三三年一〇月二六日に、ドイツの優生学者A・プレッツは、ある講演において、ヒトラー政権の下で優生政策が実践されるようになったことを「総統」に感謝しつつ、それはF・ゴルトンよりもはるか以前にJ・P・フランクが描いていた夢の実現に他ならないのだと述べている(Ploetz 1935)。フランクは、オーストリアの啓蒙専制君主ヨーゼフ二世の下で活躍した医師であり、彼が説く優生政策も、国家の利益を個人の自由に優先させる全体主義的な(あるいは古代ギリシア的な)色彩をもっていたことは事実である。しかし、彼の書物全体が、フランス革命を準備したルソーの影響の下に書かれているという点に十分、注意しよう。優生思想、優生政策の源は、往々にして「国家」に求められがちだけれども、優生思想=国家主義という理解はあまりに問題を単純化しすぎている。ルソーの場合がそうであるように、優生思想は「自然」という観点からも導き出されるのであり、フランクの優生政策も一面では「自然」に準拠した生活様式として提示されている。そのことは、「自然」に準拠したヒポクラテスの科学的思考が、消極的な優生政策と共犯関係を取り結んでいたことと無関係ではない。

(pp.x-x)

 「自然」の概念もまた、本人の望んでいないリハビリや手術といった過剰な介入を退けるうえで大いに役立つかもしれない。しかし、優生学もまたこの概念を活用したという事実、またヒポクラテスがこの概念に依拠しながら、不治の患者を見捨てることの正当性を説いたという事実を忘れるべきではない。「自然」の概念は、生命の尊厳という理念を容易に堀り崩すものでもある。生命の尊厳という言葉が、中絶反対論者(プロ・ライフ派)の偏狭さを連想させるのであれば、立岩真也にならって「他者の尊重」と言い換えてもよい(立岩、一九九七、四二四頁以下)。しかし、この「他者」なるものも、自然を超えた、すなわち形而上的な(metaphysical)な基礎づけなしには、容易に磨滅していってしまうのかもしれない。キリスト教は、そうした磨滅に抵抗する一つの試みだった。私たちの時代は、何を根拠に「他者」の尊厳を守り抜くことができるのだろうか。

◆進藤雄三, 19991030, 「医師」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社:42-59.

(pp47-49)

 ではこの「専門職」の特徴とはなにか。一九六〇年代までの伝統的解釈によれば、それは、①理論的知識に基づいた技能の使用、②こうした技能の教育と訓練、③試験によって保証された専門職の能力、④専門的一貫性を保証する行動基準、⑤公共のためのサービスの達成、⑥成員を組織化する専門職団体、である(N・アバークロンビー/S・ヒル/B・S・ターナー、丸山哲央監訳・編『新しい世紀の社会学中辞典』ミネルヴァ書房、一九九六年、二六一-二六二頁)。しかし、こうして列挙された専門職の特性は、かならずしもこの用語に込められた独特の意味を示すものではない。たとえば、国家資格試験に基づいた免許制度と職能団体を有する医療あるいは法律領域の複数の職種は、これらの基準を満たしているように見える。しかし、医師あるいは弁護士が専門職であるというのと同じ意味で、看護婦あるいは司法書士・弁理士が専門職であるという用語法は確立しているとはいえない。医療領域でいえば現在コメディカルと呼ばれている医療関連職種は、かつては「準専門職」(semi-profession)あるいはパラメディカルと呼ばれてきた。こうした事態が示しているのは、専門職という用語が職業分類上の中立的なカテゴリーではなく、社会的威信あるいは評価と密接に関連しているカテゴリーであるという点である。

 近代専門職が高い社会的威信とならんで「地位専門職」から引き継いだもう一つの要素は、ノブレス・オブリージに遡る特別の責任感情である。医師の場合、ヒポクラテスの誓詞がその象徴的表現にあたる。市場において自己利益の獲得をめざす一般の職業とは異なり、専門職にはクライエントと呼ばれる他者の利益を優先させるという規範が要請されると考えられてきた。「医は仁術」という表現はこの点を示している。なぜ専門職に他の職業に求められる以上の倫理的要請がなされるのだろうか。専門職の扱う問題は、生命・財産・信仰など人々の人生において決定的意味を持つものであり、しかもそれを持ち込むクライエントはすでにその段階において自力で解決する能力を喪失していると想定される。この状況において問題解決に関する知識・技術において卓越した資源を持つ専門職が、自己利益の追求を最優先したらどうなるであろうか。専門職とクライエントとの間にはこうした「二重の従属性」あるいは構造的不均衡が存在するのであり(棚瀬孝雄『現代社会と弁護士』日本評論社、一九八七年)、この落差を利用した搾取を抑制するメカニズムが倫理性の強調となっているのである。

 医師は弁護士とならんで専門職中の専門職として、高い職業威信と高い倫理性を象徴する職業とみなされるだけでなく、抗生物質の発見とその臨床的応用によって急性伝染病を目に見える形で駆逐することを通して、その「専門」的知識に近代科学(=医学的細菌学)の威光を付け加えた。しかし、先端医療革命の進展と福祉国家の転換が指摘されはじめた一九七〇年代以降、専門職に対する社会的理解と意識に大きな変化が見られるようになる。

 専門職に対する批判的視点はかならずしも近年にのみ特有というわけではない。そもそもヒポクラテスの誓詞自体が、そうした規範を破る現実を意識して書かれた点を強調すれば、医師批判は古代まで遡るといいうるし、近代以降に限っても「専門職」の本家ともいうべきイギリスの生んだ皮肉家のバーナード・ショーは専門職のあり方に「公衆に対する陰謀」を嗅ぎとっていたし、日本でも「算術医」批判の事例には事欠かない(進藤、前掲書、一三六頁、黒田浩一郎「赤ひげ」佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、一九九八年、九一-九二頁)。ここで重要な論点は、専門職の構成員である個人の行動レベルに対する評価と集団としての専門職に対する評価の区別である。規範に対する逸脱は時代を超えて普遍的に存在する。ここで問題にしているのは集団としての近代専門職に対する社会意識の変化である。

◆市野川容孝, 19991030, 「医療倫理」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社:160-184.

(pp176-177)

 ヒポクラテスの誓いからの離反

 新薬や新しい治療法の開発は、患者に害をもたらしてはならないと説くヒポクラテスの誓いからは逸脱する行為を要求する。

 人間の天然痘と牛痘の間の交差免疫を確認するため、E・ジェンナーは、牛痘にかかった人間の膿を別の人間に移植し、その人間に後で天然痘患者の膿を移植しても異常が見られないかという実験をおこなった。ジェンナーは、こう書いている。「感染の過程をより正確に観察するために、私は八歳になる一人の健康な少年を選び、牛痘を接種した」(E. Jenner, An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae, London, 1798, p.32)。この「健康な」少年は、実験によって牛痘、あるいは天然痘にかかるおそれがあったのだが、ジェンナーは医学の発展と人類全体の福祉のために、あえてその危険をおかしたのである。

 一八六五年にフランスの医師クロード・ベルナールは、医学実験の必要性を認めつつも、それをヒポクラテスの誓いの枠内に止めよと説いた。「内科及び外科における道徳の原理は、たとえその結果が如何に科学にとって有益であろうと、即ち他人の健康のために有益であろうと、その人にとっては害にのみなるような実験を、決して人間において実行しないということである」(三浦岱栄訳『実験医学序説』岩波文庫、一九七〇年、一六七-一六八頁)。しかし、この倫理原則は、細菌学の隆盛とともに徐々に崩されていく。感染と免疫のメカニズムを解明し、有効な治療法を開発するためには、かつてのジェンナーと同様、被験者を健康人にまで広げて、人体実験をより大規模に実施することが必要となったからである。らい病菌の発見者として有名なノルウェーのG・H・ハンセンは、被験者の同意なしにらい病菌を入院患者に移植したとして一八八○年に有罪判決を受けているが、こうした違反はほんの一例にすぎない。

◆市野川容孝, 20000121, 『身体/生命』 (思考のフロンティア)岩波書店.

(pp39-43)

  ヒポクラテスの誓い

 「医療倫理」と聞いて、多くの人々がまず思い出すのは「ヒポクラテスの誓い」だろう。この「誓い」がヒポクラテス自身の手になるものかどうかについては、今日、大いに疑問とされているが、ヒポクラテス、もしくはその後継者たちが提示した医師の倫理、とりわけそこで明示された、患者に不利益をもたらしてはならないとの原則は、それが2,000年以上も前のものであるとはいえ、現代にも受け継がれている。周知のように、世界医師会のジュネーブ宣言(1948年)は、当時、明らかとなったナチスの医療犯罪(人体実験、安楽死計画など)に直面しつつ、この「誓い」をあらためて医療倫理の基盤にすえた。

 ヒポクラテスの誓いは、生命尊重主義をその根幹に据えている。しかし、これは当時のギリシアでは「反-時代的」とも言うべき特異な主張だった。たとえば「誓い」は、今日で言う積極的安楽死を禁じているが(=致死薬は誰に頼まれても決して投与しない」)、これは当時のギリシアの習慣から大きく外れるものだった。「ギリシア人の多くは、治癒不能な身体的苦痛や、大きな精神的苦痛ゆえに、ある人にとって生きることが耐えがたいものとなったとき、その人が自ら命を絶つのは非難すべきことだとは思っておらず、むしろ名誉あることだと思っていた。死を決意した者に、死に必要な毒を与える医師も、したがって何かタブーを犯しているとは思われなかった。しかし、この風習に対して、ヒポクラテス学派はそれに連なることを拒んだのである」(H.M.Koelbing, Arzt und Patient in der Autiken Welt.1977年, 112-113頁)。

 しかし他方で、「誓い」に見られる生命尊重主義を過大評価するならば、それは大きな誤りである。というのも、ヒポクラテス自身は別の場所で、こう述べているからである。「医術とは何かについて、わたしの考えている定義を述べよう。医術とはおよそ病人から病患を除去し、病患からその苦痛を減じることである、そして病患に征服されてしまった人に治療を施すことは、医術のおよばぬところと知って、これを企てることを断わることである」(『古い医術について』岩波文庫、87頁)。

 つまり、医術が医術であるためには、不治の病人、死が間近な病人を見捨てろと言っているのである。「誓い」はなるほど積極的安楽死を禁じているが、しかし、それは今日で言う消極的な安楽死(=延命処置の中止)を認めている、いや医師の義務としていると言うべきなのである。

 不治の病人を見捨てよ、というヒポクラテスのこの姿勢が、上に見たパーシヴァルやフーフェラントの説く医療倫理の対極にあることは明らかだろう、ヒポクラテスに忠実なのは、先の箇所でパーシヴァルが批判しているウィリアム・テンプルの方なのだ。啓蒙主義の医療倫理の新しさは、したがって、ヒポクラテスの地平を乗り越えた点にこそあるのである。

  physicianの誕生

 しかし、患者に対するヒポクラテスのこの冷淡さは一体どこから来るのか。

 てんかんは、かつて「神聖病」と呼ばれていた。その発作が、精霊などの憑依によって生じると考えられていたからである。この「神聖病」について、しかしヒポクラテスは彼自身の手によるかどうか疑問の残るテクストにおいてではあるが次のように言う。「私の考えでは〔神聖病は〕他の諸々の病気以上に神業によるのでもなく神聖であるのでもなく、自然的原因をもっている〔(××××× 自然と、そして原因をもつ〕のである」(同前38頁、傍点引用者)。

 したがって、この病を精霊の憑依と見なしたり、これを呪術や祈祷によって治そうという(当時としてはありふれた)試みは、全くの誤りである。いや、ヒポクラテスによれば、そうした考えやふるまいにひたっている者自身が、実は「神業」なるものを否定しているのである。「私の考えるところでは、この仕方〔=呪術や祈禧〕でこれらの病患を癒そうと企てる人々は、これらの病気を神聖とも神業によるとも思ってはいないのである。なぜならこれらの病気はこのような祓い清めや治療によって除去されるからには、これと類似した他の仕掛によって、人間を襲わせることもできるはずではないか。したがってもはやその原因は神業ではなくて人間業ということになるのである。・・・・・・この理屈によって神業は消滅するのである」(同前、40-41頁、傍点引用者)。

 確かに「体液病理学」その他のヒポクラテスの学説は、西洋近代医学によって臆見として厳しく批判された。しかし、ヒポクラテスは「自然(physis)」という概念に依拠しながら、医学を呪術から脱却させたのであり、まさにその点が、ヒポクラテスが今日でも高く評価される所以である。ヒポクラテス自身はその語を用いていないけれども、彼によって医師はphysician、すなわち「自然」にしたがって病気と人間の身体を見る者となったのである。

 患者に対するあの冷淡さは、他ならぬヒポクラテスのこうした科学性から導き出される。「治療不能の病気に手をくだすのを拒むのは正当である」(同前、98頁)。なぜなら「われわれは身体にそなわる自然的手段によって征服することの可能な病気を扱うことを業とする者にはなり得ても、そうでない病気を扱う者にはなり得ない」からである(同前、92頁)。「神業」を消滅させることは、呪術や祈疇と結びついた似非医術(とヒポクラテスが考えるもの)の批判に止まらない。ヒポクラテスにとって、人間の「自然」からして回復が不可能であることがわかっている病人に対して、にもかかわらず、かかわりをもち続けることは、呪術や祈薦と同様に、非科学的で詐欺まがいの行為だったのである。

 整理しよう。ヒポクラテスの医学の科学性・そこから要請される、不治の患者を見捨てよという姿勢。そして最初に述べた、積極的安楽死の禁止という、当時としては反-時代的な訓戒、この三つから導き出されることは何か。それは、「自然」に依拠したヒポクラテスの医学は、人間の死に一切、手をふれようとしないということである。

  キリスト教

 カール・ロートシューは、ヒポクラテスの医学とキリスト教精神の違いについて、次のように述べている。「古典古代においては、不治の病人を引き受けないことが医者のしきたりであった。医者と患者の関係は、客観的で冷やかな、そして一定の距離をおいたものであった。患者に対する同情や憐れみは問題にならなかったのである。しかし、キリスト教の医者の場合は全く違う。彼はキリスト教的な慈悲をもって隣人としての患者に接する。その際、患者が治る見込みがあるかどうか、また貧しいのか富裕なのかといったことは原則として問題にならなかった」(K. Rothschuh, Konzepte der Medizin in Vergangenheit und Gegenwart. 1978年、54頁)。

 不治であること、死が間近であることを理由に患者を見捨てることは、キリスト教精神によってはもはや容認されない。こうした転換の中から、多分に宗教的な色彩をもつ「ホスピタル」が中世ヨーロッパに生まれてくるわけだが、しかし、その際、重要なのは、このホスピタルは今日、私たちが考えている意味での「病院」ではないということだ、そこに収容された人々の共通点は、病気であることではなく、労働による自活ができない、あるいはそれを望まないこと、また彼らをケアする近親者がいないことだった。だから、このホスピタルに身寄りのない老人や孤児、あるいは貧民にまざって、病人がいたとしても、それは彼らが病んでいたからというよりも、彼らが何らかの理由で、家族によるケアを受けられなかったからに他ならない。つまり、ホスピタルは、病人を治療する「医学」の場というよりも、隣人愛を実践する「宗教」の場だったのである。

 それと同じように、「キリスト教の医者」というロートシューの表現で力点が置かれるべきは、言葉の前半である。つまり、不治の患者とその患者の死を見放さないのは「医者」というよりも、「キリスト者」なのである。

(pp47-48)

 死の瞬間をとりまくあらゆる宗教的儀礼が、死の厳密に医学的な管理、すなわち死の医療化を妨げている。フランクにとって、そうした諸儀礼は「死にゆく者の虐待」に等しい。「一体なぜ、今まさに死のうとしているときに、この上ない苦しみに耐えながら道徳のお説教をきかなければならないのか!」(同前、662頁)。

 フランクが望んでいるのは、先の15世紀の絵画に描かれた、あの臨終の場面の構図を逆転させることである。すなわち、まず宗教が死にゆく者を取り囲み、その円環の外側に医師(医学)を位置づけるのではなく、この円環を破壊して、医師(医学)が死にゆく者に最も近接できるようにすること。医療化とは、従来、他の社会領域(宗教、家族、法など)に属するとされていた事象が、医学の管轄下に置かれていくことを言うが、フランクは、まさに死の医療化を望んでいるのである。

 啓蒙主義は、あるアポリアを解消したと言えるだろう。「自然(physis)」に依拠したヒポクラテスの医学は、まさにそうであるがゆえに、死を医学の外部に放置した。その逆に、キリスト教はその放置された死を引き受けはしたが、それは「形而上学(meta-physics)」の次元にとどまり、死を「自然」の中に位置づけながら考察することはできなかった。啓蒙主義の医学は、この二律背反に終止符を打とうとしたのである。

 フーコーは、こう述べている。「〔古来より医学にとって〕問題はただ生命を回復させるということでしかありえなかった。死は医師の背後にとどまり、その大いなる暗い脅威のもとでは、医師の知識も技倆も消滅するのであった。死は単に生と病に対する危険であるばかりでなく、それらに問いかける知識に対する危険でもあった」(『臨床医学の誕生』みすず書房、201頁)。ヒポクラテスの伝統とは、まさにそういうものだった。しかし、ビシャーこの夭折した鬼才については後述する--以降、死はむしろ医学的思考の中心に据えられ、人々はそこから病と生を考えるようになる、とフーコーは言う。以上において私たちは、医療倫理の変容に焦点をあてながら、この逆転をフーコーとは別の角度から見てきたのである。

◆市野川容孝, 20001130, 「医療という装置――W・グリージンガーの精神医学」栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉 編『装置:壊し築く』(越境する知・4)東京大学出版会:129-163.

(pp138-140)

 しかしながら、精神機能の座は脳にあり、ゆえに精神疾患は脳の疾患であるという主張は、当時としても、まだ仮説の域を出ていない。グリージンガー自身、脊髄-感覚-運動の反射とは異なり、脳-表象、欲動の方は、まだ実証的に確かめられていないことを認めている(ibid.,S.44)。また、脳の解剖所見も、精神疾患=脳疾患と断言するのに十分な根拠を与えていない。一九世紀半ばに精神病と見なされた人たちの二割から三割が、梅毒による進行麻痺と言われており、この進行麻痺は確かに脳に器質的な変化をもたらす。だから、いくつかのケースで脳の病変が確認できたのは事実だろう。しかし、グリージンガー自身、先の箇所で述べているように、脳の病変が確認できたのは「多くの」場合であって「すべて」ではない。そういう意味で、グリージンガーは、まだ憶測で物を言っているのである。

 しかし、そういう不確かさを抱えているものの、ここで問うてみたいのは、「精神疾患は脳の疾患である」と想定することの意味であり、また、それが何を導くかということである。それを、ヒポクラテスにまで遡って考えてみよう(*2)。ヒポクラテスは、「神聖病について」と題する論考で、こう述べている。「この同じもの[=脳(引用者)]が、われわれを狂わせたり、錯乱させたり、あるいはわれわれに恐怖やおそれをもたらし、あるいは・・・・・・不眠、失態、漠とした不安、放心、しきたりに反する行動をもたらすのである。われわれが被るこれらのことすべては脳から来るのである」(Hippocrates,1923,pp.174-75)。ヒポクラテスの「脳」に関する知見は、現代医学のそれとも、グリージンガーの時代のそれとも全く異なるが、精神疾患と脳を結びつけている点では同じである。

 しかし、「神聖病」に関するこのテクストが高く評価される第一の理由は、実はそこにはない。そうではなく、医療を呪術から切り離し、医学の基盤に、近代医学にも通じる科学的思考法をすえた点が、最も注目されてきたのである。

 この「神聖病」なるものは、てんかんを指すと現在、解釈されているが、この病気、とりわけその発作の原因を、精霊その他の超自然的力の憑依と解し、これを祈疇や祓いによって治そうとすることは、当時のギリシアではありふれたことだった。だが、ヒポクラテスは、そうした思考様式を破壊したのである。「私の考えでは、この仕方[=祈禧や祓い(引用者)]によって、これらの病気を治そうとする人びとは、それらを神聖だとも神的だとも考えることはできないのである。なぜなら、こうした祓いや処置によって、これらの病気が取り除けるなら、同じような仕方で人びとを発病させられない理由など、どこにもないからである。もしそうなら、責を負うのは人間の所業なのであって、神的存在ではない。・・・・・・この理屈によって、神的存在の所業は消滅する」(ibid.,pp.144-45)。そして、ヒポクピユシスラテスは、すべての病は「自然」に原因をもつと述べる。「神聖病」と呼ばれるものは「私の考えでは、他の病気と同様に、神聖なものでも、神的なものでもなく、自然的原因をもっているのである」(ibid.,pp.138-39)。

 「神聖病」をめぐるヒポクラテスのこのテクストで述べられた二つのこと、すなわち精神疾患を脳という一器官に結びつけることと、それに向き合うべき医療を呪術から切り離すことは、不可分の関係にある。つまり、精神疾患を脳に結びつけることによって、それを呪術の園から解放することが、ここで可能になっているのである。無論、こういう医学のみを「医学」とするのは偏狭な見方であり、すでに文化人類学その他で常識となっているように、病に対する人間の向き合い方を、呪術的なものも含めて、すべて等しく「医療」と見なす方が妥当だろう。しかしながら、超自然的な力に寄りかかることなく、病める者の現存在に、真正面から向き合おうとするならば、精神疾患も含めて病を、その身体のどこかに根づかせる必要がある。脳への着目は、その一つの方法である。と同時に、呪術の園にひそむ暴力というものを忘れるべきではない。中世の「魔女」は、その当時、精神病者と見なされていなかった。つまり、精神病とは区別された別のカテゴリーで括られていたのだが、少なくとも今日の観点からして、精神病を患っていたと判断される少なからぬ人びとが「魔女」の烙印を押され、火炙りにされたことは事実である。なぜ、そんなことが正当化されたのか。それは、悪魔は人間の魂ではなく、その身体に入り込み、様々な幻覚を生み出すのであるから、その者の魂を穢れから守るためにも、その呪われた身体を丸ごと焼いてしまうのが正しかろう、と考えられたからである(フーコー、一九九七、一二八-二九頁)。身体の背後に、「魂」であれ、「悪魔」であれ、超自然的な力を想定することが、身体そのものの破壊と抹消につながったのである。

 たとえ仮説としてではあれ、精神疾患を脳の疾患という形で身体に根づかせることは、精神を病んでいるとされた者一人一人の身体を、あるいはその現存在を、それ自身の厚みにおいて把握する道筋を開く。ここで身体は、それ自身、透明で、その先に身体以外の何かが見通せるようなものであることをやめ、また、身体以外の何かの表象=代理(リプレゼンテーション)であることをやめる。このことは、グリージンガーがヴンダーリッヒらとともにおこなった、病の「実体論」批判とも深く関係しているだろう。つまり、病の「実体」が想定されることで、個々の病める身体が素通りされ、そして抽象的な思弁が開始されることをグリージンガーらは批判し、医学的な眼差しを、個々の身体の厚みに連れ戻そうとしたのである。

 第二に、精神疾患を脳の疾患と見なすことは、不可避的に、心身のあいだに密接な連関を設定する。

 医学史家のO・テムキンは、ヒポクラテスの医学について、すでにそれが心身の相互連関に注意深い眼差しを向ける「心身医学」であり、そこで精神と身体は「後にデカルトが想定したような深い亀裂によって、互いに分離されてはいなかった」と述べている(Temkin,1991,pp.13-14)。そして、同じことはグリージンガーの精神医学にも言えるのである。

(p161)

 (*2)正確を期するなら、ここに言う「ヒポクラテス」は集合的人格である。現存するそのテクストの少なからぬ部分が、ヒポクラテス自身によるものではなく、その学派に属した弟子たちその他によると推定されているからである。

◆Iversen, Leslie L. 2001 Drugs : a very short introduction(=20030605, 廣中直行・鍋島俊隆 訳『薬 (1冊でわかる)』岩波書店).

(p4)

 生薬の薬局方が体系化されたものは、ほかの文化圏にもあった。ギリシャではディオスコリデスが紀元後五五年に『マテリア・メディカ』を著したが、この書物はその後一六〇〇年もの間、絶対的な権威を保っていた。近代医学の父ヒポクラテスは、「合理的」で「科学的」な医薬の最初の学派をおこし、天然の医薬品を何百種類も用いた。古代ローマではプリニウスが『自然誌』(紀元後六〇年)を著したが、これは生薬などの天然医薬品の集大成としては、それまでで最大のものであった。

◆筏義人, 20020520, 『人工臓器物語――コンタクトレンズから人工心臓まで』裳華房.

(p185)

 ある調査結果によると、男性の勃起不能者は全体のほぼ一〇%だそうです。医学の始祖といわれる古代ギリシャのヒッポクラテスは、仕事上の悩みと女性の放縦さが男性の勃起不能を引き起こすと述べています。

◆廣野喜幸, 20021020, 「近代生物学・医学と科学革命」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:35-52.

(p49)

 一九世紀中葉以降、ザイツ圏の医学によって生物医学(biomedicine)され、基礎医学・臨床医学が出そろうことになる。コッホ(Robert Koch 一八四三‐一九一〇)やパストゥール(Louis Pasteur 一八二二‐一八九五)らによって微生物学が進展し、ある種の病気が病原菌に由来することが解明される。二〇世紀になると、抗生物質の生産が軌道に乗り、これらの病に対する強力な治療法を人類は手にすることができるようになった。ヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇頃‐前三七〇)ガレノス以来、人体を構成するいくつかの液体の挙動を人体理解モデルとする体液病理医学が長い命脈を保っていたが、これが消滅するのもこのころである。個体をいくつかの固形物の集まりとみなす素朴機械論的な固体病理医学が体液病理医学にとって変わるようになった。最後の体液病理医学の権威と言われるのはロキタンスキー(Carl von Rokitansky 一八〇四‐一八七八)であった。また、それに伴い、体液病理医学に基づく治療法である瀉血や下痢・吐瀉などによる治療(今日のわれわれからすると野蛮きわまりなく、かえって患者の病気を進めたのではないかとさえ思える治療)が急速にすたれるのもこのころであった。

◆小松真理子, 20021020, 「中世ルネサンスの医学と自然誌」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:121-165.

(pp129-130)

 さて、北アフリカから携えてきたアラビア医学書、即ちヨハンニティウス(=フナイン・イブン・イスハーク)(Johannitius=Hunayn ibn Ishaq八○八―八七三)『イサゴーゲー(=ガレノスのテグニー入門)』、ハリー・アッバース(Hally Abbas九三〇―九九四)『王の書』(コンスタンティヌスは当初『パンテグニー』として自身の名を冠した)、イブン・アル・ジャザール(Ibn al Jazzar 九二九―一〇〇九)『ウィアティクム』などを一一世紀末にラテン訳してサレルノに供給したのは、モンテ・カシーノ修道院入りしたコンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus一〇一五頃-一〇八七)だった。

 コンスタンティヌス・アフリカヌスはガレノスの医学書そのものはほとんど訳していない。ガレノスのテキストの供給は、かの巨人翻訳者クレモナのゲラルド(Gerardo de Cremona 一二四頃―一一八七)がトレードでアラビア語から多くを訳した。ピサのブルグンディオ(Burgundio of Pisa 一一一〇-一一九三)も同時代一二世紀にギリシア語からいくつか訳していた。クレモナのゲラルドが訳したテキストは、『テグニー(=小医術)』『体液混合』『分利』『分利の日』『治療法』『養生法』『単純医薬』『悪い体液混合』「諸元素』などである。ピサのブルグンディオが訳したテキストは、『体液混合』『治療法』『熱病の相違』『脈拍の相違』『身体内部(=侵された場所)』『養生法』『脈拍の原因』『脈拍』『諸学派』などである。『自然の諸能力』は通常匿名の訳者によるとされる(一写本のみブルグンディオに帰されている)。また『部分の有用性』は一四世紀前半にニッコロ・ダ・レッジョ(Niccolo da Reggio 一四世紀前半活躍)によって訳された。ヒポクラテスのテキストは、コンスタンティヌス・アフリカヌスが『箴言』『予後』『急性病の養生法』を、クレモナのゲラルドが『箴言』『諸元素』を、ピサのブルグンディオが『箴言』を訳した。アヴィセンナ(アラビア名イブン=スィーナー)(Avicenna=Ibn Sina 九八〇-一〇三七)の大著『医学典範』はクレモナのゲラルドが訳した。ゲラルドはラーゼス(アラビア名アッ=ラージー)(Rhazes=al-Razi 八六五-九二五)の『アルマンソールの書』やアルブカシス(アラビア名アブール=カーシム)(Albucasis=Abul Qasim 九三六―一〇一三)の『外科学』も訳している。

(p132)

 中世五-一五世紀の一〇〇〇年の内、前期五-一一世紀はテキスト的には確かに暗黒時代と言えるかもしれない。六世紀の南イタリアで修道士によって僅かにギリシア語の医学文献がラテン訳されていたが、ヒポクラテスの『箴言』や『予後』、ガレノスの若干のもの、オレイバシオス(Oreivasios von Pergamon四世紀) その他のテキストが写本としてあるだけだった。ディオスコリデス(Dioscorides 四〇頃―九〇頃)の『薬物誌』も訳されたが、不正確な訳であった。プリニウス(Plinius 二三/四-七九)の、『自然誌』にも薬用植物誌がありもともとラテン語で書かれたこの書は中世を通じて流布した。

(pp135-139)

 一二世紀以降の医学の理論化の傾向は一二世紀のサレルノにも及び、一三世紀以降の大学の医学へとつながり、大学では哲学的な医師が養成される。古代ギリシアでは、概ね医学はテクネー(技術 ars)であった。ヒポクラテスも、医学は医術であり、養生法・薬剤学・外科学からなると考えていた。ガレノスは『テグニー』では医学は「健康と病気とその中間態についてのエピステーメー(知識 scientia)である」と微妙なことを言っているが、他の著作では概ね制作学つまり技術の範疇に入れていて、「健康をつくりだす術」と考えていた。アレクサンドリア学派で医学が哲学の仲間入りをし、アラビア医学がこれを受け継ぎ、ヨハンニティウス『イサゴーゲー』でも、アヴィセンナ『医学典範』でも医学には理論的部分と実践的部分があるとされた。ヨーロッパ初期中世は医は術であったのが、このような根拠も得て一二世紀末には学となる。

 その大学医学部教育におけるテキストとはどんなものであったか。中世の医学の背骨(クリステラー)と言われるアルティケラ Articella (医術小論集)がこれをよく教えてくれる。これは中世の医学教育の中核をなしたテキスト群のことで医学生必携本である。(この原型はアレクサンドリアの医学校にすでにあった)。一二世紀初め(表1)から一六世紀初めの印刷本(一五三四年で終焉する)まで徐々に内容が増えていく。当初はガレノスのテキストが徐々に増大していく過程であり、後半一五・一六世紀はヒポクラテスのテキストが増大していく過程と映じる。最後にはテキスト総数は三十余点となった。教授がヒポクラテスやガレノスやアヴィセンナのテキストを講読した。ボローニャ大学医学部の一四〇五年の時間割(表2)をご覧いただきたい。

 シッパーゲスは、中世の医学の体系は、理論的医学として①自然的なものについての学(生理学)、②反自然的なものについての学(病理学)、③非自然的なものについての学=保健学をもち、実践的医学として④非自然的なものについての術=養生法、⑤薬剤学、⑥外科学をもつ、と言っている。反自然的なものとは、自然に反するもの、つまり病気であり、非自然的なものとは、まったくの健康でも病気でもないその中間態のことである。非自然的なものには空気、食物/飲物、運動/安静、睡眠/覚醒、排泄/分泌、情念と六つある。これはヨハンニティウス『イサゴーゲー』を筆頭にするアルティケラの意図であるとして中世医学の性格とし、この保健学や養生法の広大な領域をもっていたことを賛美し、これを失った近現代医学をシッパーゲスは弾劾している(シッパーゲス[一九八八])。

 ヒポクラテス・ガレノス的な諸体液混合の不調和が不健康や病気をもたらすという体液病理学の考え方は近世にまで残り、全人的・環境医学的視点である。自然治癒力やホメオスタシス重視の思想でもある。保健学や養生法は予防医学にも通じるが近代医学が有効な治療法を獲得するにつれ軽視され、故障した機械を直すように病気の人体を治すことが医学の使命となり、シッパーゲスの言うように確かに近現代医学は養生法の広大な領域を失った。

(pp142-143)

 一四世紀半ば飢饉による社会危機があった所に、一四世紀半ばすぎのペスト禍が襲った。保健行政は隔離や検疫を行ったが、その検疫が流浪の民や外国人の排斥につながり、ユダヤ人迫害にもつながった。医学は総じて学的医学も民衆医療も現実には無力だったが、ことに大学の医学の面目はなかった。理論的には治療はまったく不可能ではなかったので患者の治療に当たり自身も落命した医師も多かった。ヒポクラテス以来の医の倫理は、死に至ることが分かっていればそう通告し、治せないものは引き受けないというものであったので、避難を勧めたり、自身が逃亡した医師も目立った。職責上逃亡が許されない市の医師でも逃亡した者がいた。ペスト流行の後、治療を放棄してはならないという医師の義務が明記され法的規制がされていく。正規の医師集団は自ら倫理性を高めエリート意識を持ち結束し、下級医療.職を排斥していく。一四世紀末の社会危機・混乱ゆえの群集心理は、鞭打ち苦行者の特異な現象を産んだ。群集心理は他罰的に犯罪行為に及ぶこともあった。ユダヤ人迫害の進行とともに魔女妄想も成長していく。

(pp152-153)

 発生理論の歴史、狭くは発生学史をひもとけば、われわれはそこに興味深い理論展開を見ることになる。近代一七・一八世紀には、科学史上有名な「前成説-後成説」論争がある。正確には前成説の特異な形態である「入れこ説」が一六七〇年代から一七五〇年頃まで支配的となり、その後また後成説が優勢となった。

 古代には「前成説「後成説」の論争があったわけではなく、別稿(小松[一九九三b]〉で述べたが、雌雄二種説(two seed theory)でかつパンゲネシス(pangenesis)の陣営(ヒポクラテス、ガレノス、及び古代原子論者たち)と、雄一種説(one seed theory)でかつ精液=形相説の陣営(アリストテレス)の対立があった。精液=形相説とは、私の造語だが、形相(形相はそのものをそのものたらしめる本質のことだが、今風に言えば遺伝情報に相当するとも考えられる)である男の精液と、質料である女の月経血が出会うことによって、無定形な月経血が精液の担う形相に導かれて(後成説的に)子が形成される。(従って能動的な産む力をもつのは男のみ)とするもので、言わば雄一種説となる。アリストテレスより後の時代に生まれたガレノスは、アリストテレスを批判して、精液は形相だけではなく、形相を含んだ質料であり、男女両性の精液の混合から子ができるとし、よって雌雄二種説であり、また精液は親の全身から出るとするパンゲネシスの立場をも伴っていた。ガレノスは卵巣の意義を強調したことで有名であり、今の私たちが卵巣と呼ぶものは「女の睾丸」であり、ここに精液を保有しており、女も精液(=性交のとき放出される体液)を放出する、とする。また女の月経血も、子の肉体を形成するときの栄養となるので必要だとした。この場合、アリストテレスだけが後成説なのではなく、ガレノスも、そしてヒポクラテスも後成説であると筆者には思われる。「前成説-後成説」の論争を古代にまで投影した結果、ニーダム(Joseph Needham 一九〇〇―一九九五)のようにヒポクラテスまで前成説論者にしてしまう解釈(Needham[1975])もあるが不適当に思われる。アリストテレスはパンゲネシスの論では前成説になると言って非難してもいるが。なお古代アトミストについてはテキストが乏しく、雌雄二種説でパンゲネシスであったことは判っていても、前成説なのか否かいまだに不明である。「一代限りの前成説」でありうるかもしれない。

(p161)