Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

粋なカエサル

「ヒトラーとは何者か?」9 第一次世界大戦(1)戦争勃発

2021.01.25 22:53

 第一次世界大戦勃発の直接の原因は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺事件だが、その背景にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「3B政策」があった。皇帝は、ロシアの圧力のもとに悩むオスマン帝国を説得してイスタンブール(かつてのビザンティン帝国の首都ビザンティウム)から小アジアを東南に横断してバグダード、また更にはペルシャ湾に近いバスラまでの鉄道敷設権すら獲得していたのである。これがいわゆる帝都ベルリンとビザンティウムそしてバグダードを結ぶ「3B政策」だった。この計画を実現するためには、まずバルカン半島のスラブ勢力を一掃する必要がある。

 1908年10月、ドイツ帝国のバックアップを受けていたオーストリア=ハンガリー帝国は、当時オスマン帝国領下にあった南スラブ民族の州ボスニア・ヘルツェゴビナを行政権所有を理由に強引に帝国に合併した。そのため怒ったスラブ民族の国セルビアは大セルビア主義のもとにスラブ系の州ボスニア・ヘルツェゴビナを奪還し、自分たちの国に合併しようとする。しかし、頼みとするロシア帝国は、ドイツに対抗してセルビアを強力に支援する力を持ち合わせていなかった。当時ロシアは、日露戦争(1904年~05年)に敗れた後であり、また国内における革命勃発後の不安定な政情の中にあったからである。

 こうしたバルカン半島における汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立は、いずれ戦争を引き起こすであろうことは十分予想できることであった。その導火線となったのが1914年6月28日、スラブ系ボスニア州の首都サラエボで起こったオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子が、妃ソフィーとともにセルビアの青年に狙撃され、死亡するという事件だった。この事件が、スラブ民族のゲルマン国家に対する挑戦と受け取られたのは当然。これを契機に汎ゲルマン主義者と軍部の強硬な大戦意識は極度に高まる。三国同盟の盟主、ドイツ帝国政府から後押しを約束されたウィーン政府は、皇太子の暗殺から4週間後、セルビア政府に最後通牒を突きつけると、その5日後の7月28日には対セルビア戦に突入する。

 これを機に、日露戦争の敗北から立ち直っていたロシアは、セルビア支援の軍事行動を起こした。それに対し、ドイツは8月1日付でロシアに宣戦布告するとともに、モロッコ進出をめぐるタンジール港事件で厳しい対立関係にあったフランスに対しても、その2日後の8月3日には対戦を決行する。露仏同盟(1894年)がかねてより成立していたことにより、ドイツは当然両面作戦を覚悟して戦争に突入した。これに乗じてイギリス、ベルギー、日本などはロシア、フランス、イギリス側について対ドイツ、オーストリアに宣戦を布告し、トルコやブルガリアは、ドイツ、オーストリア側に立って対ロシア、フランス、イギリス戦に突入。名実ともに第一次世界大戦の勃発であった。

 この大戦開始の報が全ドイツ各地に報道された時、いかにドイツ国民が愛国意識に燃えて興奮し、大いなる戦闘意欲でこの方に耳を傾けたことか。ミュンヘンでは、サラエボでの暗殺事件の方が届いた時、直ちに市民の間に怒りと興奮の嵐が巻き起こった。バイエルンは血統的にもオーストリア人に近いため、一段と同胞意識が強かったからである。1914年7月25日土曜日、オーストリア政府がセルビアとの国交を断絶すると、ミュンヘンではそれを支持する市民の歓声があちこちで上がった。都心にある居酒屋、ビアホール、カフェなどは人々であふれ、翌朝のあさまで国民意識を高揚する愛国の歌が演奏され、合唱が高らかに響き、戦闘意識が謳歌されたのである。続いて市内ではオーストリア=ハンガリー帝国の強硬政策を支持する市民の大行進さえ催された。

 アドルフはどう受け止めたか。オーストリアの兵役義務からあれほど逃げまわり、半年ほど前にいやいやながら官憲に出頭して兵役検査を受け、やっとその義務から解放され胸をなでおろしていたアドルフは、第一次大戦勃発とともに、突如として参戦従軍を決意する。

オーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテク

サラエボ事件 イタリアの新聞「ドメニカ・デル・コリエレ」挿絵

サラエボ事件で逮捕直後のガヴリロ・プリンツィプ ボスニア出身のボスニア系セルビア人の民族主義者

「プリンツィプ像」 ベオグラード  2015年6月28日建造 

 この像を贈呈されたセルビア大統領ニコリッチは「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表

ドイツ3B政策とイギリス3C政策

1913年 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

1908年のオーストリアによるボスニア併合宣言を読むサラエボの住民 1908年10月

旧ユーゴスラビア 行政区分厨

1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ 緑:三国協商 茶色:三国同盟