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松尾芭蕉の俳諧思考法 ―発句の革新過程と宋代文学―

2018.01.26 06:24

http://wportfolio.wzu.edu.tw/ezfiles/0/1000/academic/51/academic_78524_8194294_71534.pdf 【松尾芭蕉の俳諧思考法―発句の革新過程と宋代文学―】黄佳慧  より

1.はじめに―研究の背景と目的―

松尾芭蕉の作品は漢詩との関係が深いとつとに指摘されている。当時の俳諧は、古典を重視する「貞門俳諧」と、通俗を重視する「談林俳諧」に分かれていたものの、どちらも行き詰まってしており、俳諧における新鮮さ・面白さが失われつつあった。そのことに気づいた芭蕉は、和歌や俳書には見出すことが出来なかった俳諧の「新しみ」を、貞門俳諧以来、俳人達の必須の教養である漢詩に求め、その新しい要素を見出そうとしていた。

芭蕉に影響を与えた漢詩について、これまでの研究では主に唐代文学を中心に論じられてきた。それは芭蕉自身がよく杜甫や李白に言及し、唐代文学を引用する回数が最も多いためで、当然の結果であるとも言える。しかしながら、引用頻度が唐代文学に次ぐ宋代文学が芭蕉に与えた刺激を無視することはできない。しかのみならず、宋代文人が黄庭堅や蘇軾を評価して与えた「黄奇蘇新」という言葉を、芭蕉は二度も引用しており、宋詩における「新しみ」を認めている様子が窺える。このことから、芭蕉は宋代文学を引用する際、その文学の「新しみ」を意識して取り入れた可能性があると推測される。

そこで、本研究では、芭蕉の発句と宋代文学との関係に着目し、芭蕉が俳諧を革新する過程において、宋代文学がその発句の中で果たした役割を明らかにする。そして、芭蕉が宋代文学から取り入れた要素と技法とを解明することによって、俳諧を創作する際の思考法を提示し、宋代文学と「新しみ」との関連した側面を見出す。

なお、資料の引用に際して、現在通行の字体を用い、適宜、濁点・句読点を補った。読み下し文および括弧・傍線などの記号は筆者による。また、漢詩における合字は開き、漢文訓読の返り点のうち、原本の誤植・誤刻と考えられるものは括弧( )を付して読み下し文に改めた。

2.俳諧革新期における芭蕉と宋代文学

天和~貞享年間(1681-1688)は、俳諧において漢詩文調が流行した時期であった。それは延宝期(1673-1681)に繁栄した談林調が行き詰まり、俳壇が競って新奇の風を求めていたためである1

松尾芭蕉の俳諧思考法

。芭蕉がその時、停滞する俳諧の現象を打破し、「天和調」2という漢詩文調的な俳諧を追求していることから、漢詩文による「新風」を模索している様子を窺い知ることができる。

このことに関して、櫻井武次郎氏は「漢詩文調句の流行と芭蕉」3において、漢詩文を俳諧に取り入れることは俳諧の定型破壊の運動であり、芭蕉はこの風潮の中で、いくつもの秀句を詠んできたと説明している。一方、塚越義幸氏は「芭蕉俳諧と中国文学-蕉風樹立期を中心に-」4において、芭蕉がこの時期に漢詩文の要素、特に唐代文学を活かしながら詠んできた俳諧を紹介し、芭蕉が求めた「新しみ」は「幽玄」であることを見出し、漢詩文は俳諧の基盤を確立するのに重要な役割を果たしたのではないかと指摘した。

このように、漢詩文が芭蕉の俳諧の革新過程において果した役割の重要さは、言うまでもないところである。また、塚越氏前掲論文では、主に唐代文学を中心に検討しているため、宋代文学に言及していないが、芭蕉自身の唐代文学と宋代文学に対する記述を分析すると、唐代と宋代との漢詩文が俳諧に与えた影響がそれぞれ違っていることから、宋代文学が果たした役割を否定できないと考える。そこで、芭蕉が漢詩文から引用した俳文を調査し、唐代文学と宋代文学に対する芭蕉の認識の相違点を、次のように整理しておきたい5。

芭蕉の唐代文学の引用例を見ていくと、唐代文学に対する認識については、まず唐代文人の清貧を楽しむ生き方や姿勢に共感していることが挙げられる。

1 天和二年(1682)3 月 20 日付木因宛の芭蕉書簡によると、「土筆をしぞ、是猶妙、御作意

次第改る様ニ被レ覚珍重、兎角日々月々ニ改る心無レ之候而ハ、聞人もあぐミ作者も泥付事ニ御座候ヘバ、随分御心ヲ被レ留、人々御いさめ可レ被レ成候」という。本文は芭蕉全図譜刊行会編集『芭蕉全図譜(図版編)』岩波書店、1993 年、252 頁の松尾芭蕉真跡に拠った。 2

「天和調」は「漢詩文調」、「虚栗調」とも言う。宗因風の俳諧が延宝中期(1673-81)以降、種々の混乱や定型破壊に陥っていくうちに現れた表現の一傾向。漢詩文の詩句が一句のうちのほとんどを占め、また一句全体が漢語のみによって表現されるなど、視覚的にも異様な趣を現出した。天和期(1681-84)には俳諧革新運動の主流ともなり、貞享期(1684-88)にはほぼ終息した。(以上は井本農一、尾形仂、島津忠夫、大岡信合編、『俳文学大辞典』(角川書店、1995 年)より抜粋、上野洋三執筆) 3

『連句文芸の流れ』和泉書院、1989 年 2 月、85-93 頁。 4

『國學院中國学会報』38 号、1992 年 10 月。 5 近世初期において、漢詩に唐代や宋代との区別を付けているかどうかという疑問に関して、芭蕉の親友、山口素堂は、『誰袖集』の序文(正徳元年(1711))において、「古詩におけるも梅あり、書にも鹽梅の臣などといへるも、みな花にあらず。漸盛唐にいたりて李社をはじめ、諸家の詩に見えたり。猶好文の名もあるをや。宋にいたりて東坡が風水洞の梅を、美少年の媒となし、林和講が狐山の梅を妻とせしも、又をかしからずや。」(本文は大野洒竹『素堂鬼貫全集』博文館、1899 年、23 頁に拠った)と述べており、当時はすでに漢詩を唐詩・宋詩に類別していたことが分かる。

6 貞享三~四年(1685-1686)の作品と推定される。本文は成美編著、『随斎諧話』文政二年

(1819)刊、富山県立図書館(中島文庫)の蔵本に拠り、解釈は杉浦正一郎・宮本三郎・荻

野清校注『芭蕉文集』岩波書店、1959 年、45-146 頁を参照した。

16 日本語日本文學 第四十二輯

例えば、貞享年間(1684-1688)の俳文「四山瓢」6「中にも飯顆山はんくわざんは老杜のすめる地にて、李白がたはぶれの句あり。素翁7りはく(李白)にかはりて、我貧をきよくせむとす」から、そのような認識を捉えることが出来る。飯顆山はんくわざんに住み、痩せてしまった杜甫に対して、李白は杜甫が詩作をするために痩せたと諧謔的に詠んだという故事がある。芭蕉も痩せているため、素翁は李白の方法を模倣し、芭蕉の「貧」を風雅のための清貧としたことを詠み、芭蕉は俳文で素翁の解釈に賛同した8。

また、芭蕉は、唐代文学を含めた中国の故事や古典を、俳諧に取り入れるべき重要な素材として活かすべきだと提唱している。天和三年(1683)に著した『虚栗』の跋文9では「白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす」と書き付けて、白楽天の漢詩を日本の言葉にして、初心者が学ぶべき俳諧への導きとすると述べている。

さらに、唐代詩人の文芸の道を一途に志す精神を芭蕉は評価している。

「幻住庵記げんぢゅうあんのき」10に「楽天は五臓の神をやぶり、老杜は痩たり」とあるように、白楽天は、詩作のために五臓が破れるほど苦しみ、杜甫もまた詩のために痩せ果てたという、唐代文人が詩作のために必死的で徹底した精神を、芭蕉は共鳴して引用している。

このように、芭蕉の認識した唐代文学のありかたは多様であるが、いずれも唐代文人が詩に歌う「思想と感情」(以下、「詩想」と総称)を重視し、その詩作に対する思考法や感受性を学び、俳諧で活用しようとする傾向が見られる。このような傾向は『虚栗』跋文11における「李杜り とが心酒しんしゅを嘗ナメて、寒山かんざんが法粥ほふしゅくを啜スヽる」という一文からはっきりと知られる。この文中にて、芭蕉が「虚栗」で味わいが四つあるといい、そのうち二つが、李白と杜甫の精神を味わいとることと、唐代の詩僧―寒山の禅味を探りとることであると述べている。このことから、唐代文人の詩想を認識した上で、積極的にこれを俳諧に取り入れようとしている姿勢が看取できよう。

7 山口素堂、和歌・漢詩・俳諧作者。寛永十九年~享保元年(1642-1716)、75 歳。本名、山口信章。天和の漢詩文調から貞享の蕉風成立期に素堂が芭蕉に与えた影響は大きかった。(以上は前掲『俳文学大辞典』より抜粋、井上敏幸執筆)

8 あるいは、元禄年間の「深川八貧」という俳文では、「老杜の貧交の句にならひて、管鮑の

まじはり忘るゝ事なかれ」と述べているが、これは、杜甫の「貧交行」の詩句「君見ズヤ管

鮑貧時ノ交」を引用し、このたび集った俳人も「貧」を接点にして、貧しい時も交わりを変

えないという唐代文人の考え方を踏まえたものである。(「深川八貧」は元禄元年(1688)

作、伝「路通真蹟」所収。本文と解釈は井本農一・堀信夫・村松友次校注『日本古典文学全

集 41 松尾芭蕉集』岩波書店、1972 年、466-467 頁に拠った)

 9 本文は其角編『虚栗』(天和三年(1683)刊)、京都大学文学部(潁原文庫)の蔵本に拠り、解釈は前掲『芭蕉文集』134-135 頁に拠った。

10 元禄三年(1690)作。本文は凡兆・去来編『猿蓑』元禄四年(1691)刊、京都大学文学部

(潁原文庫)の蔵本に拠り、解釈は前掲『日本古典文学全集 41 松尾芭蕉集』500-504 頁に拠

った。

11 本文は前掲『虚栗』に拠り、解釈は前掲『芭蕉文集』134-135 頁を参照した。

一方、宋代文学についても唐代文学と同じく、宋代詩人の詩想を俳諧に取り入れていた。たとえば、貞享三年~四年(1686-1687)に成った俳文「笠の記」12において、「彼西行の侘笠

わびがさか、坡翁雪天はをうせつてんの笠か。いでや宮城野みやぎのの露見にゆかん、呉天ごてんの雪に杖を拽ひかん。あられに急ぎ、時雨しぐれを待まちて、そゞろにめでて殊に 興

きょうず。」という。傍線を付した「坡翁雪天はをうせつてんの笠」とは、蘇軾が雪中に笠をかぶるという、西行のわびの様相と類比して表現したものである。また、延宝九(1681)13作「芭蕉野分して盥に雨をきく夜哉」の前書に「老杜茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたび此句を侘て屋漏の句作る。其世の雨をばせを葉にききて、独寝の草の戸」14とあるように、唐代と宋代の文人(老杜と坡翁)に共通する「わび」の詩想を偲びながら、発句を詠んだと書き留めている。

しかしながら、芭蕉は唐代文学と異なる特徴を宋代文学に見出している。

その特徴とは、宋代文学は「新奇」という要素を持つことである。たとえば、貞享四年(1687)に『笈の小文』(宝永六年(1708)刊)において、「黄奇蘇新のたぐひにあらずバ云事なかれ」15と、黄山谷と蘇東坡の詩に見られるような珍しさと新しさがなければ、そもそも今のように改めて紀行文を書くまでもないことだと述べた。「黄奇蘇新」16とは、「蘇東坡の新しさと黄山谷の奇抜さ」という意味である。芭蕉は『笈の小文』において、宋代文人の作品の特徴に着目し、創作における新奇さの重要性を指摘している。

しかのみならず、芭蕉は「黄奇蘇新」という特徴に特に関心を持ったのであろうか、同じく貞享四年(1687)に「『蓑虫ノ説』跋」において「草の戸さしこめて、ものゝ侘しき折しも、偶簑蟲の一句をいふ、我友素翁、はなはだ哀がりて、詩を題し文をつらぬ。其詩や錦をぬひ物にし、其文や玉をまろばすがごとし。つらつらみれバ、離騒のたくみ有にゝたり。又、蘇新黄奇あり」17と、「黄奇蘇新」の語順が転倒されたが、再度この表現を引用しており、素堂が著した「蓑虫ノ説」を「黄奇蘇新」の性質を持つものとして賞賛した。

先行研究においては、芭蕉が唐代文学ではなく、宋代文学に「新奇」さを見出していた理由について、宋詩一般の性質として表現の新奇さがあり18、芭蕉は談林風から蕉風への過渡期において、その表現上における新奇さに対して関心を寄せたのではないかと推測されてきた19。一方、これまで芭蕉と「黄奇蘇新」との関係についての論考は少なく20、「黄奇蘇新」と芭蕉の俳諧理念「新しみ」との関連性を論じたものは見出すことが出来ない。

しかし、上記の唐宋別の引用傾向を比較すれば分かるように、芭蕉が認識した唐代と宋代の文学のあり方がそもそも異なっているため、芭蕉が俳諧を革新する道を拓くこととなる天和年間(1681-1684)から、唐代と宋代との文学が果たした役割も違っているはずである。すなわち、宋代文学は「新奇さ」を持っていることを芭蕉が確かに把握していることから、宋代文学が俳諧の革新過程で機能した概念を無視することはできない。以下、芭蕉が宋代文学を取り入れた発句から、革新的な要素を見出し、また芭蕉の引用・解釈した宋代文学により、俳諧を革新する思考法を検証する。

3.宋代文学を引用・解釈した発句からみる俳諧革新過程

芭蕉が引用し、独自に解釈して、言葉に新たな意味を付した発句がいくつかある。その引用傾向から、次のような三種の思考法を帰納することができる。

3.1 詩想の摂取

芭蕉は、俳文だけでなく、発句においても宋代文人の詩想を踏まえている。

12 本文は岱阿・松宇撰『思亭』(宝暦六年(1756)刊)、富山県立図書館(志田文庫)の蔵

本に拠った。

13 1681 年 11 月 9 日、天和に改元。 

14 本文は井本農一、堀信夫校注『芭蕉集(古典俳文学大系第 5 巻)』集英社、1970 年、35 頁に拠った。

15 本文は富山県立図書館(中島文庫)の蔵本に拠った。 

16 芭蕉がここで用いた「黄奇蘇新」について、先行研究は詩法書『詩人屑説』の「蘇子瞻ハ以レ新ヲ、黄魯直ハ以レ奇ヲ(蘇子瞻ハ新ヲ以ツテシ、黄魯直ハ奇ヲ以ツテシ)」に拠ったと指摘している。井本農一、村松友次、久富哲雄、堀切実『新編日本古典文学全集 (71) 松尾芭蕉集(2)』(小学館、1997 年)209 頁を参照。なお、『詩人玉屑』の本文は寛永 16 年(1639)和刻本(長澤規矩也編の『和刻本漢籍随筆集十七』汲古書院、1990 年)に拠った。また、岡部長章は「芭蕉の作品と策彦詩文との交渉について―特に「蘇新黄奇」を中心として」(『言語と文芸』第 45 號、1962 年)において、「黄奇蘇新」の出典が五山文学に拠った可能性をも指摘する。

17 貞享四年(1687)作。本文は前掲『芭蕉全図譜(図版編)』114-115 頁による。「蘇新黄奇」は「黄奇蘇新」に同じ。

18 吉川幸次郎『宋詩概説』岩波書店、2006 年。 19 服部金弥「「蘇新黄奇」に関連して―芭蕉の一側面」『名古屋大学国語国文学』第 14 號、1964 年、89-90 頁。 20 筆者が調べた限りでは以下の四篇しかない。①前掲論文、岡部長章「芭蕉の作品と策彦詩文との交渉について―特に「蘇新黄奇」を中心として」。②前掲論文、服部金弥「「蘇新黄奇」に関連して―芭蕉の一側面」。③岡部長章「芭蕉における蘇新・黄奇の実際について―鹿島の月見と汐越の松との重層表現を中心に」『季刊文学・語学』第 61 號、1971 年。④滝澤精一郎「黄奇蘇新―芭蕉と宋朝禅―」『國學院大學栃木短期大學紀要』第 19 號、1984 年。

まずは延宝八年(1680)に詠んだ「雪の朝独リ干鮭を噛得タリ」21という発句である。この句の前書は「富 家 喰ハクラヒキ二肌 肉にくヲ一、丈夫 喫ハキツス二菜サイ根ヲ一、予 乏ハ とぼし」は、(宋)汪革の「人常ニ菜根ヲ咬ミ得レバ即チ百事做なス可シ」を踏まえると指摘されている22。この一節に基づき、雪の寒さの中、ひとりで堅い干鮭を噛み、孤独と貧乏に耐える趣意を、発句で描き出しているのである。これは宋代詩人の詩想を摂取して表現した一句と考えられる。

また、貞享三年(1686)の「よくみれば薺花さく垣ねかな」23と貞享四年(1687)の「花に遊ぶ虻なくなひそ友すゞめ」24という二句も、同じく詩想を汲み取った発句である。この二句ともに程明道の詩「偶成」における「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」25を踏まえることが指摘されている。この詩句は、第一節に取り上げた俳文「蓑虫ノ説跋」26(貞享四年(1687))においても、「静かにみれば物皆自得す」というように引用されることから、芭蕉がこの漢詩を読んだことは確かであり、この二句はそれを踏まえるという指摘には整合性がある。

そこで、芭蕉が程明道の詩「偶成」における詩想を摂取する方法を検討すると、まず「よくみれば」句は、「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」の「静観」を直訳したものかと推測される27。また、「花にあそぶ」句の、「物皆自得」という句題は「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」に拠ったと考えられるため、ここで詠んだ発句もその「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」の詩想を踏まえたものと推定される。つまり、「よくみれば薺花さく垣ねかな」と、「花にあそぶ虻なくなひそ友雀」という二句は、「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」という詩想に従って、自然を観察した結果を表現したものである。ここで、芭蕉は宋代詩人が用いた表現をそのまま発句に取り入れただけでなく、さらに「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」という詩想を実行して詠んだのではないかと推測される。その上、芭蕉が「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」という詩句を三回も引用したことは、この詩想を重視する姿勢を示している。

一方、元禄七年(1694)に詠んだ「此秋は何で年よる雲に鳥」28も同じく詩想を取り入れた一例である。この句は石河積翠が『芭蕉句選年考』(1789-1801年)において、蘇東坡の漢詩「南来去リテレ此コ ヽヲ幾バク 時キカ歸ラン、倦鳥孤雲豈ニ有ランレ期キ(南来此を去りて幾ばく時が帰らん、倦鳥孤雲豈期有らん)」

21 前掲『東日記』に拠った。 

22 本文は井本農一、堀信夫校注『松尾芭蕉集①発句篇』集英社、1970 年、73 頁に拠った。 23 本文は其角編『続虚栗』貞享四年(1687)刊、松宇文庫の蔵本に拠った。

 24 本文は不卜編『続の原』元禄元年(1688)自序、松宇文庫の蔵本に拠った。 

25 本文は(宋)謝枋得撰、(明)陳生高注、(日本)熊谷立閑首書の『鼎鐫註釋解意懸鏡千

家詩二卷』延寶八年(1680)跋、東大総合図書館の蔵本に拠った。

 26 本文は「蓑虫説」跋により、前掲『芭蕉全図譜(図版編)』、114-115 頁所収。

 27 前掲『松尾芭蕉集①発句篇』143 頁。

 28 支考編『笈日記』元禄八年(1965)刊所収。本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』500 頁に拠った。

29を踏まえたと指摘した30。この発句は蘇軾の漢詩中の「倦鳥孤雲」を踏まえたことから、「此秋は何で年よる雲に鳥」は宋代文学における「倦鳥孤雲」という寂寥感を表現した詩想を、俳諧に取り入れたと考える。

このように、本節では、宋代文人の詩想を発句に取り入れるという手法は、芭蕉の発句を革新する一つの思考法であると提示した。

3.2 宋代文人の人徳を取り入れた挨拶句

発句とは「自吟」のものだけではなく、賛美や謝意を表す「挨拶句」として、相手に贈るという機能も持っている。芭蕉は、亭主に挨拶句を贈る時、しばしば宋代文人の人徳を下敷きにしている。

まずは、貞享二年(1685)に詠んだ、前書付きの発句を挙げる。

京にのぼりて三井秋風31が鳴滝の山家をとふ。 

梅林

むめ白しきのふや鶴をぬすまれし32前書にあるように、芭蕉が三井秋風の山荘を訪問し、その梅の林の下で詠んだ一句である。

この発句における「梅」と「鶴」は宋代の隠遁詩人・林和靖の姿を偲びながら詠まれたことが近世期からすでに指摘されており33、現代の注釈書もそれを踏襲している34。芭蕉は、この発句において、三井秋風のことを、白梅を愛し、高潔な人徳が慕われた林和靖に喩えた。無論、秋風宅には鶴が見えないため、芭蕉は俳諧の諧謔性を生かして、「昨日鶴が盗まれたのだろうか」と、洒落した口調で予想外な発展を表現した。

また、同じく林和靖と関連する、元禄二年(1689)の発句がある。

斜嶺亭

戸を開けばにしに山有、いぶきといふ。花にもよらず、雪にもよらず、只29 詩題「七年九月、自リ二廣陵一召シテ還テ、復タ館ス二于浴室ノ東堂ニ一。八年六月、乞コツテ二會稽ヲ

一、將ニレ出ニ、汶公乞フレ詩ヲ、乃チ復タ用フ二前韻ヲ一三首」による。本文は(宋)蘇軾撰、(宋)王十朋輯、(宋)劉辰翁批點、『增刊校正王状元集註分類東坡先生詩 25 卷 首 1 卷』明暦二年(1656)刊、日本国立国会図書館蔵本に拠った。 

30 出典の検討について、本論の「付録」における【資料一】を参照されたい。 

31 三井秋風、俳諧師、正保三年~享保二年(1646-1717)、72 歳。本名、三井俊寅。養父より江戸店二軒、千貫目の資産を譲られるが、鳴滝に別墅花林園を構えて遊興・風流三昧の生活を送り、財を失う。俳諧は梅盛門で、俳風は談林の中でも異風を誇る。(以上は前掲『俳文学大辞典』より抜粋、宇城由文執筆)

32 芭蕉自筆(鯉屋伝来)『野さらし紀行』(貞享二~三年(1685-1686)成)所収。本文は『天理図書館 善本叢書和書之部第十巻 芭蕉紀行文集』(八木書店、1972 年)に拠った。

 33 たとえば、葛飾素丸は『芭蕉翁發句解 説叢大全』(安永二年(1773)刊)において、こ

の発句は林和靖を譬えて詠んでいるという。それ以後の研究者はその指摘を踏襲している。

34 出典の検討について、本論の「付録」における【資料二】を参照されたい。

これ孤山の徳あり

其まゝよ月もたのまじいぶき山35(季題は「月」で秋)前書から分かるように、この発句は「斜嶺」36という俳人に対する挨拶であり、「いぶき山」は「孤山の徳」という性質を持つと説明されている。これまでの研究は「孤山」とは「隠士・林和靖」が住んでいる山を指し、宋代文人を下敷きにして詠んだ発句であると指摘している37。その出典は『聯珠詩格』38に収録された「孤山」という漢詩に拠ったと考える39。「孤山」という詩題について、『聯珠詩格』の詩注を参照すると、「孤山ハ林和靖先生カ所ソレ居ル也」とあり、ここで「孤山」を林和靖が住居としたことが説明されている。また、「先生本 ト是レ逃ルレ名ヲ者ノ、卻テ為ニレ梅花ノ引二得タリ名ヲ一」とあるように、林和靖は、この世から逃れ、名誉を避けて求めない隠者であるはずだったが、梅によってかえって有名になったという「徳」を持つ文人である。芭蕉も、斜嶺が住む「いぶき山」にも上記のような「孤山の徳」があると記した。換言すると、古注40でもすでに解説されるように、斜嶺の住む「いぶき山」を、かつて林和靖が住んだとされる「孤山」に見立て、斜嶺も林和靖のような人徳を持つ文人だと芭蕉は賞賛したのである。

このように、芭蕉は宋代文人、特に林和靖の人徳を評価するだけでなく、発句に取り入れ、宋代文人にしか見られない特性によって挨拶の句としており、

ここから、芭蕉が俳諧を革新する一つの思考法を見出すことができる。

3.3 修辞法の活用

芭蕉が「黄奇蘇新」をたびたび引用することからもわかるように、蘇軾の詩句における新しさを肯定し、蘇軾の修辞法を模倣して直接的に俳諧に取り入れて、発句を詠んでいた。

35 本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』310-311 頁に拠った。 

36 斜嶺、俳諧作者、承応二年~元禄十五年(1653-1702)、50 歳。本名、高岡三郎兵衛、美濃国大垣藩士。元禄二年(1689)、『おくのほそ道』の旅後の芭蕉を自亭に迎え、同四年(1691)芭蕉の帰途にも歌仙を巻いた。(以上は前掲『俳文学大辞典』より抜粋、北村朋典執筆)芭蕉の帰途にも歌仙を巻いた。(以上は前掲『俳文学大辞典』より抜粋、北村朋典執筆)

37 例えば、月院杜何丸は『芭蕉翁句解大成』(文政十年(1827)刊)において、「孤山は林

和靖が居る所の山なり。是梅の長者なれば、月雪花によらずさはらぬ思ひありと也」と指摘

している。それ以後の研究者がこの解釈を踏襲している。

38(宋)于済撰、蔡正孫補、約 13 世紀前後成。本文は(朝鮮)徐居正増注(1420-89)『聯珠詩格』正保三年(1646)和刻本、日本東京大学総合図書館蔵書に拠った。 

39 出典の検討については、本論の「付録」における【資料三】を参照されたい。

 40 近世期の古注について、例えば、次のような解釈が見られる。

詩格』正保三年(1646)和刻本、日本東京大学総合図書館蔵書に拠った。 39 出典の検討については、本論の「付録」における【資料三】を参照されたい。 40 近世期の古注について、例えば、次のような解釈が見られる。

‧「愚考、孤山は林和靖が居る所の山なり。是梅の長者なれば、月雪花によらずさはらぬ思ひ

ありと也。」(月院杜何丸、『芭蕉翁句解大成』、文政十年(1827)刊)

‧「瓢緑曰、孤山は林和靖の居つた山であるが、此処では雪月花の三いづれにもよらざる孤独

の山と取り、前書と相俟って始めて句となるので、多少主人公たる斜嶺の気質を伊吹山の高

きに比し、其品格を称揚した意もあるやうに思はれる」(角田竹冷外十余氏、『芭蕉句集講

義』、博文館、1911 年)

たとえば、延宝八年(1680)の「石枯れて水しぼめるや冬もなし」41(季題は「冬」)という発句がある。傍線部は蘇軾の漢詩文-「後赤壁賦」「山高ク月小ニ、水落チ石出ツ」42を踏まえることが指摘されている43。芭蕉が捉えた「水落チ石出ツ」の意味は、発句の表現から分かるように、「水が枯れて、石がしぼむ」であることが分かる。しかし、芭蕉は単にその表現を借りただけではなく、「錯綜転倒」という修辞法を通し、「石枯れて水しぼめる」と創作したものと推測されている44。当時は、「水枯れて」45という表現が普通であり、

「石枯れて」と「水しぼめる」という表現は芭蕉以前に見出せないため、この表現は斬新な修辞法であったと言える。

次に、元禄六年(1693)に詠んだ「郭公声横たふや水の上」46(季題は「郭公」で冬)という発句を取り上げる。元禄六年(1693)4 月 29 日、芭蕉は宮崎荊口に送った書簡において、この発句を書き留め、「「水光天に接し、白露江に横たはる」の字、「横」句眼なるべし」と述べた。「水光天に接し、白露江に横たはる」は『古文真宝後集』所収の蘇軾「前赤壁賦」の「白露(リ)横リレ江ニ、水光 接マシハルレ天ニ(白露江に横り、水光天に接る)」47を引用しており、芭蕉は特に「横」という字を詩の「句眼」と理解し、「白露江に横たはり」の意を込めて発句を詠んだことが分かる。「横たふ」という表現は、漢詩、和歌、俳諧において、次のように、雁の姿と呼応して詠まれている。

【漢詩】「 北 斗 星 前 横 旅 雁

ほくとうのほしのまへにりよがんをよこたふ

南楼月下擣寒衣

なんろうのつきのもとにかんいをうつ」48

【和歌】「初雁のこゑにやはるるあかつきの月によこたふ雲の一むら」49

41 前掲『東日記』所収。本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』74 頁に拠った。 

42 本文は『諸儒箋解古文真寳後集』、黄堅編、慶長十九年(1614)跋、早稲田大学「古典籍

データーベース」に拠った。

43 例えば、服部金弥氏が「「蘇新黄奇」に関連して―芭蕉の一側面」(前掲論文、87 頁)は

この発句は「後赤壁賦」に拠ると指摘した。それ以後の研究者がその指摘を踏襲している。

44 前掲『松尾芭蕉集①発句篇』、74 頁。 

45 和歌では「水枯れて」という表現が見当たらないが、俳諧における「水枯れて」という表現は次のように用いられてきている。

‧「暑くなる次第に浅き水かれて」(重徳編『俳諧塵塚』寛文十二年(1672)刊)

‧「けふぞ塩干腎水かれて油貝 乀斎」(編者不詳『誹諧東日記』延宝九年(1681)成)

‧「水かれて十四の点か二つ星 卜尺」(不卜編『江戸広小路』延宝六年(1678)自序)

 46 元禄六年(1693)4 月 29 日の「宮崎荊口宛書簡」によった。本文は富山奏『新潮日本古典集成 芭蕉文集』新潮社、1978 年、229 頁に拠った。 

47 本文は前掲『魁本大字諸儒箋解古文眞寶後集 10 卷』に拠った。なお、「露(リ)」について、慶長十四年(1609)京都室町本屋新七木活字印本(日本国立国会図書館蔵本)を確認したところ、「露(リ)」の隣に「リ」という訓読が施されていない。筆者は誤植と推定し、リを( )に入れて、読み下し文において反映しないこととした。

48 劉元淑、『和漢朗詠集』上・秋に所収。本文は菅野禮行『和漢朗詠集』小学館、1995 年、

185 頁に拠った。

 49 中院通村(1588-1653)家集『後十輪院内府集』、出版年不詳、856 首。

俳諧】「阿蘭陀おらんだの文字か横たふ旅の雁(西山西翁)」50「横たふ」に呼応する主体は、上記の用例から分かるように、漢詩では「白露」や「旅の雁」であり、和歌では「月」であり、俳諧では「文字」や「旅の雁」であるなど、すべて具体的なイメージと結びついてきた。その中にあって芭蕉が「声」という抽象的な五感に対してこの言葉を使用したのは、斬新な感覚による表現を遂げたと言える。

そして、天和二年(1682)に詠んだ「夜着ハ重し呉天に雪を見るあらん」51(季題は「雪」で冬)という発句にも、同じ引用傾向が見られる。傍線部は『詩人玉屑』「笠重シ呉天ノ雪、靴香楚地ノ花(笠ハ重シ呉天ノ雪、靴ハ香し楚地ノ花)」52を踏まえたことが指摘されている53。「呉天」とは、元々中国南部、呉の地方の空をいうが、上記の詩句以降、異郷の空や遠く離れた土地の意として用いるようになった。漢語はそもそも和歌では用いられないので用例がないのだが、芭蕉が「呉天」を俳諧に取り入れるまでは、俳諧の言葉として成立していなかった。芭蕉自身は先ほど取り上げた俳文「笠の記」の「呉天ごてんの雪に杖を拽

ひかん」で「呉天」を用いただけでなく、紀行文『おくのほそ道』54にまで使用しており、この言葉を多用したことが知られる。そこでは、「遠い山間地方」という意味で使われているため55、芭蕉は単なる引用にとどまらず、言葉に新しい意味を付与していることが分かる。


50 松江重頼(1602-1680)『時勢粧』、出版年不詳。 

51 前掲『虚栗』に拠った。 

52 本文は前掲『詩人玉屑』和刻本に拠った。 

53 例えば、一筆坊鷗沙は『蕉翁句解 過去種』(安永五年(1777)稿)において、この発句は釈・恵崇の詩に拠ったと指摘したが、岩田九郎はさらに『諸注評釈芭蕉俳句大成』(明治書院,1966 年)において、『詩人玉屑』に収録した漢詩に拠ったという。それ以後の研究者は、この指摘を踏襲している。

54 原文は「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の

恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をか

け、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。」(本文は素龍筆芭蕉所持本『おくのほそ道』元

禄七年(1694)成(鈴木知太郎・伊坂裕司『校注おくのほそ道』笠間書院、1972 年)に拠っ

た)

55 前掲『松尾芭蕉集①発句篇』90 頁。 

56『奥の細道』に所収、松尾芭蕉著、元禄七年(1694)刊。本文は前掲『おくのほそ道』に拠った。

57 前掲『聯珠詩格』に拠った。

また、元禄二年(1689)の「象潟や雨に西施がねぶの花」56(季題は「ねぶの花」で夏)とあるように、蘇軾の修辞法を活用して詠んだ発句もある。この句は『聯珠詩格』に収録される蘇軾の「西湖」詩-「水光瀲灔トシテ晴テ偏ニ好シ、山色朦朧トシテ雨モ亦奇也、若シ把テ二西湖ヲ一比セハ二西子ニ一、淡糚濃抺兩ナカラ相宜カラン」57を踏まえて詠まれたものである58。西湖の風景を美人に譬えたという見立てについて、清朝における宋代文学研究者も指摘するように、これは前代未聞という画期的な技法であると賛嘆されている59。芭蕉はこのような修辞法を俳諧で活用し、「象潟」の風景を西施の眠りの姿に見立て、これまで俳諧で見られなかった修辞法で表現を刷新した。

さらに、宋代文人の修辞法を活用する例には、天和四年(1684)に詠まれた「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」60という発句がある。この発句は主に唐代の詩人-杜牧の「早行」詩を踏まえることがすでに指摘されてきたが、そこで用いられた「寝覚」と「茶」という連想関係は、宋代文学においても多く使われているとも指摘されている61ことから、ここで用いた技法は宋代文学に由来する可能性が否定できない。

このように、芭蕉はそのまま漢詩を引用するだけではなく、宋代文人が発想した修辞法をも俳諧で活用している。その上、さらに言葉の用法を転じることで、新しい表現・意味を作り出した。このような手法は、芭蕉が俳諧を革新するための一つの思考法であると言えよう。

4.芭蕉の「新しみ」と宋代文学の詩想

これまで検討してきたように、芭蕉が宋代文学を取り入れた方法は三種類ある。ここでは宋代文学を引用した発句と唐代文学にもとづく発句とを比較することにより、俳諧を革新するプロセスにおいて、芭蕉の「新しみ」と共通する概念を洗い出してみる。

まず、詩想を発句に取り入れる手法については、これまで述べてきたように、芭蕉は宋代文学に限らず、唐代文学を引用する際にも用いている。延宝九年(1681)に詠んだ「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」62という発句は、前書に、「老杜茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたび此句を侘て屋漏をくろうの句作る」とあるように、杜甫と蘇軾などが雨中の感慨という唐代・宋代双方の文学の詩想を踏まえて作り上げたものであった。

58「芭蕉が西施を連想したのは、いうまでもなく『聯珠詩格』二所収の蘇東坡の詩句によるものであり、(後略)」と、尾形仂が『おくのほそ道評釈』(角川書店、2001 年、328 頁)において、『聯珠詩格』より蘇軾の漢詩を引用したと指摘した。

59(清)王文誥が曰く、「此是名篇,可為前無古人,後無來者。(これ(筆者按:蘇軾詩「飲湖上初晴後雨」)は)名篇なり。前に古人は無く、後に来る者も無いとなすべし。)」という。上記は(宋)蘇軾著、(清)王文誥輯注、孔凡禮點校、『蘇軾詩集』「卷 9」、中華書局、1987 年、430 頁に拠り、筆者が日本語訳。

60 前掲『野さらし紀行』に拠った。

 61 前掲『松尾芭蕉集①発句篇』、102 頁によると、「「寝覚-茶」の連想は宋代の漢詩に多く、俳諧でも『毛吹草』で付合とされている」という。

62『武蔵野』所収、千春編、天和二年(1682)刊。本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』79 頁に拠った。

次に、宋代文人の人徳を取り入れ、挨拶句とするものについて、芭蕉は唐代文人の人徳を取り入れて詠んだ発句もあった。例えば、「(前書に「貞享五ぢやうきやう戊辰ぼしん七月廿日 於竹葉軒 長ちやう虹こう興こう行ぎやう」)粟稗にとぼしくもあらず草の庵いほ」63と

いう発句は、杜甫の「南隣」詩「錦里先生烏角巾、園收テニ芋粟ヲ一未ダ二全ク貧カラ一」64を踏まえ、亭主の 長ちやう虹こうを「錦里先生」(中国四川省錦里における隠遁の主人)に擬して贈った挨拶句である。

最後に、修辞法の活用について、芭蕉は、唐代文人の表現だけではなく、その技法までも取り入れて発句を詠んでいる。例えば、表現を取り入れた発句としては、杜甫「白帝城最楼」の「藜ヲ杖イテ世ヲ嘆ズルハ誰ガ子ゾ」を踏まえた「髭ひげ風ヲ吹て暮ぼ秋しう歎たんズルハ誰ガ子ゾ(濁二ママ)」65や、白居易の「琵琶行」を踏まえた「琵琶行びはかうの夜や三味線の音 霰あられ」66などがある。そして、その技法を用いた発句には、「鐘撞きて花の香消ゆる」を「錯綜転倒」した「鐘消きえて花の香かは撞ツク夕ゆふべ哉」67や、「風髭ひげヲ吹て」を倒置し、先ほど取り上げた「髭ひげ風ヲ吹て暮ぼ秋しう歎たんズルハ誰ガ子ゾ(濁二ママ)」などがある。後記の二句とも杜甫「秋興詩八首」の「香稲啄ミ余ス鸚鵡ノ粒、碧梧棲ミ老ユ鳳凰ノ枝」という「倒裝句法」を活用して詠んだものであると、すでに指摘されている68。

上記のように、その思考法のみを検討すると、芭蕉は宋代文学に限らず、唐代文学も同じ手法で俳諧に取り入れて、斬新な発句を詠もうとしている。しかし、宋代文学独自の概念に着目すると、「黄奇蘇新」を芭蕉がしばしば引用したように、宋代文学が新しい要素を持っていることを、芭蕉は確かに認識していたと考えられる。特に「蘇新」とあるように、芭蕉は蘇軾の文学における新しさを認めており、「3.3 修辞法の活用」で検討してきた通り、蘇軾が用いた修辞法を積極的に俳諧に取り入れようとする姿勢がうかがえる。これは、蘇軾の詩作の引用回数からも明らかである。

63 貞享五年(1688)に詠まれた句。本文は暁台編『秋の日』安永元年(1772)刊、松宇文庫の蔵本に拠った。

64 (明)邵寶撰、(日本)鵜飼信之等句讀『杜少陵先生詩分類集註 』巻 22、明暦二年(1656)跋刊本(長澤規矩也『和刻本漢詩集成 第四輯』汲古書院、昭和五十(1975)年に収録したもの)を参照した。

65 天和二年(1682)に詠まれた句。前掲『虚栗』に拠った。

 66 天和四年(1684)に詠まれた句。『後の旅』所収、如行編、元禄八年(1695)刊行。本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』110 頁に拠った。

 67 天和・貞享年間(1681-1688)に詠まれた句。『都曲』所収、言水編、元禄三年(1690)跋。本文は早稲田大学古典籍総合データーベース『都曲 上』に拠った。

68 芭蕉が「倒裝句法」によって詠んだ発句が、その他にも幾つがある。例えば「己が火を木々の蛍や花の宿」は「蛍が己が火を花として木々宿す」を倒裝したものであり、「三尺の山も嵐の木の葉哉」は「三尺の木の葉の山も嵐かな」を倒裝したものであった。上記の発句は元禄三年(1690)に詠まれたもので、『をのが光』(元禄五年(1692))に所収。本文は前掲『松尾芭蕉集①発句篇』343 頁、361 頁に拠った。

その上、芭蕉が求めた「新しみ」とは何か。それを具体的に説明したのは蕉門の高弟・服部土芳であり、その『赤冊子』(安永五年(1776)刊)において、芭蕉の求めた「新しみ」をさらに次のように解釈した。

新ミハ俳諧の花也。ふるきハ花なくて木立ものふりたる心地せらる。亡師常に願にやせ給ふも、新ミの匂ひ也。その端を見しれる人を悦て、我も人もせめられし所也。せめて流行せざれバ新ミなし。新ミハ常にせむるがゆへに、一歩自然にすゝむ地より顕るゝ也。名月に梺の霧や田のくもり、と云ふハ、姿不易なり。花かと見へて綿畠、とありしハ新ミ也。69傍線部によると、芭蕉は常に新しみを追求しているが、その方法として、新しみを絶えず真剣に追い求め、一歩ずつ自然に奥深く前進することにより、やがて新味が現れるようになったという。たとえば、「名月に花かと見へて綿畑」70の、「月の明るい光に照らし出された綿畑を見ると、あたかも月の花が降り落ちて白く咲いているのかと思われるばかりである」71というような自然の捉え方は、「新しみ」である。すなわち、芭蕉が「新しみ」を求めた方法とは自然に入り込む境地により、新しみが自ずから見えてくるようになるということである。

したがって、芭蕉が求めた「新しみ」の主意を追究すると、宋代文人が提起し、芭蕉が三度も踏まえた「万物 静カニ観ルニ皆ナ自得」という自然より物事を自ずと会得する詩想と共通している。そのため、「新しみ」という概念は宋代文学の影響を受けた可能性があり、さらにその思考法から芭蕉が蕉風俳諧を形成する過程において、宋代文学の機能した側面も看取されよう。

5.おわりに

これまで検討してきたように、芭蕉が漢詩を引用して表現する思考法は三種類に大別できる。この中で、芭蕉は単に表現を俳諧に取り入れるのみならず、「呉天」の例のように、新しい意味を付与することや、「横たふ」の例のように、主体を新しく見出すこと。あるいは「錯綜転倒」や「倒裝句法」という漢詩で用いる技法を活かすことなどがある。その引用する過程から見ても、革新的な思考法は多様かつ豊富である。

69 本文は安永五年(1776)に刊行した『三冊子』(中村俊定所蔵影印本、笠間書院、1969 年出版)に拠った。

70 本文は芭蕉著、沾圃等編集『続猿蓑』(元禄十一年(1698)刊)、麗沢大学図書館の蔵本

に拠った。

71 訳文は能勢朝次の『三冊子評釋』(名著刊行会、1970 年)、114 頁に拠った。

しかし、その引用・解釈した俳文や発句を比較すると、芭蕉が認識した唐代文学と宋代文学のあり方がそもそも違っており、それぞれ俳諧で果たした機能も異なった部分があると見出される。すなわち、芭蕉は宋代文学には、唐代文学には見られない「新しさ」があると意識していた。そして、芭蕉が俳諧を革新する時期において、宋代文学も唐代文学に劣らない重要な役割を果たしていた。特に「新しみ」という理念が宋代文学の「万物 静カニ観ルニ皆ナ

自得」という詩想に通じることから、「新しみ」という理念を形成し、俳諧を革新する過程

において、宋代文学からの影響が見逃せない。

以上のように、本論を通して芭蕉の俳諧思考法と「新しみ」を形成する際、宋代文学との関わりとその影響を受けた側面を提示した。

【付記】

本稿は、2013 年度台湾科技部研究費補助金「松尾芭蕉的俳諧思考法上篇:發句的革新過程與宋代文学」(課題番号:NSC 102-2410-H-110-086-)により、2014 年 6 月に行った現地調査で得られた資料に基づいて書かれたものです。

現地調査を行う前に、第四届日本研究年会「國際日本研究之可能性─人文‧社会‧國際關係─」(2013 年 11 月於台湾大学)にて、原題「芭蕉の発句における「新しみ」と宋代文学との関係について」をもって口頭発表を行いました。

席上、曾秋桂先生をはじめ、諸先生・諸先輩方からご指導を頂きました。その後、現地調査によって再考した内容は、大阪俳文学研究会の小林勇先生、富田志津子先生、森田雅也先生、藤田真一先生をはじめとする諸専門家や学者の方々からご教示を賜りました。また、本稿の執筆にあたっては、天野聡一先輩、鈴木重雄氏、河村瑛子氏、Van Steenpaal, Niels 氏にも貴重なコメントと助言をいただくことができました。記して感謝の意を表したく存じます。その上、査読の労を惜しまず貴重な指摘とコメントを下さったお二人の本誌査読者の方にも心から感謝を奉ります。言うまでもなく,本稿における不備はすべて筆者一人に帰するものですが、貴重な資料の閲覧、引用を許可してくださった関係諸機関の方々を含め、この紙面を借りて、あつくお礼を申し上げる次第でございます。