シンガポール歴史散歩@Emerald Hill
シンガポールの繁華街オーチャードの脇をゆる~く登っていく小路がエメラルドヒル。
かつては裕福なプラナカンコミュニティの多くのメンバーが住んでいた場所で、今は保護地域になっている。
スタンフォード ラッフルズの時代以前、エメラルドヒルは熱帯雨林で完全に覆われていると考えられていたけれど、そんな事はない!1800年代初頭には多くの中国人移民がコショウ農園で土地を占領していたそう。
なので、ウィリアム カップページが1837年、合法的に土地を所有した時、そこはすでに不毛な大地になっていたとか。
※ウィリアム カップページは、1840年代にポストマスター将軍の代理になるために立ち上がった郵便事務員。
現在の地図を見るとエメラルドヒル近くにCuppage Plaza、Cuppage Terrace、Cuppage Roadと彼の名前が付いた場所が見られる。
小路の入口付近はバーやカフェになっているけれど、歩き進めて行くと、素敵なお宅があるのです。
1845年にはナツメグ農園の恒久的な助成金を確保し、カップページ自身は1850年代初頭にエメラルドヒルに移り住み、1872年に亡くなるまでこの地域に住んでいたと言う。
彼の死後、農園は娘たちに委ねられ、1890年に彼の義理の息子の一人、弁護士のエドウィン コークに売却された。
コークは、ナツメグ農園の周りに家を建てたりしたけれど、あえなく倒産。
1891年にトーマス E ローウェルに売却され、その後シーブーンカンとシーブーンキアットの元へ。
20世紀の変わり目には、13.2ヘクタールの土地とカップページが建てたエリンとシダと呼ばれるコテージは多くのテラスハウスに、コークが建てたクレア グローブはシンガポール女子学校へと全て取り壊され、新たな家々が建ち並ぶことになった。
エメラルドヒルの家の建設業者は、主にプラナカンや海峡生まれの中国人だったそうで、112軒のうち少なくとも59軒が建てられたそう。
この地域の最初の家は1902年に建てられ、1918年までに住宅の33%が建設されたと言う。
並ぶ家の多くは中国のバロック建築(シノバロック)を特徴としている。
白塗りのファサードとエメラルドグリーンの磁器の屋根は伝統的なテオチュウ(潮州)スタイルのゲート。
ゲートの先もとてもユニーク。
この通りで最も広い間口とツバメの尾の様な屋根が目を引く立派な家はもともと1903年にWee Teck Mohによって設計された家。
シンガポールの有名な建築家だそうで、マウントフェイバーにあるGolden Bell Mansionを始め、沢山のショップハウスを手掛けたそうだ。
Golden Bell Mansion始め今度彼の作品巡りもしてみたいなぁ~と思う。
※1920年中ごろに撮られた写真↑、当時はさぞかしゴージャスな家だったのでしょうね!
通りは奥に進んでいくと、オーチャード通りの喧騒がウソの様に静かなのにはびっくりする。
こんな所で丁寧に淹れた中国茶なんぞを飲んで見たい。
真っ青な家も美しい!Neil通りのババハウスも真っ青だったよな~。まだ見ぬペナン島のブルーメゾンもこんな青をしていたし、プラナカンは青が好きなのかしら?
静かな住宅街なので、住民の方に配慮して写真を撮らないといけないけれど、美しい家ばかりで歩がなかなか進まないのよね!
あまりじーっと見ていたら変質者と思われて通報されたら大変・・・・・
お部屋貸します!なんてサインも出ている。典型的なテラスハウスに一度住んでみたいなぁ~
エメラルドヒルは入口のバーがぐらいにしか行った事がなかったけれど、今回奥まで歩いて行って、とても楽しかった!
セピア色した写真はこちらから拝借。