『増殖する俳句歳時記』検索: 秋の雨
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秋雨の新居はじめて電話鳴る
皆吉 司
新居へのはじめての電話だというのだから、まだ部屋がきちんと片付いていない状態である。とりあえずは外部との連絡のために、電話機のジャックだけはつないでおいた。電話機は、まだ所を得ず畳の上だ。外はあいにくの雨だから、戸外のあれこれは、今日はできない。室内で荷物を整理しているうちに、電話機は衣類の下に埋もれてしまったりする。そこへ電話のベルが鳴る。番号を知らせてあるのは、親戚や友人の数人だ。誰だろう。たいてい見当はついているのだが……。さりげないタッチで、引っ越し時の一場面をリアルにとらえているところは、さすがに皆吉爽雨の実孫だ。作者と面識はないけれど、また作者がどう思おうと、血は争えないと私は思う。たとえば、短歌における佐佐木幸綱(祖父は佐佐木信綱)の如し。『ヴェニスの靴』所収。(清水哲男)
雨だれの棒の如しや秋の雨
高野素十
秋は意外に雨の多い季節。この雨は本降り。雨だれもショパンのそれのように優雅ではない。しかし、なぜか心は落ち着く。あたりいちめんに、沛然たる雨音と雨の匂い。だんだん、陶然とした心持ちにすらなってくるのである。(清水哲男)
男の傘借りて秋雨音重し
殿村菟絲子
秋の天気は変わりやすいので、こういうことも起きる。この場合、実際に重いのは男用の傘なのだが、こまかい秋雨の音まで重く感じられるというところが面白い。とりあえず助かったという思いと、重い傘の鬱陶しさとの心理的な交錯。この傘を返しにいくときが、また重いのである。あした晴れるか。(清水哲男)
山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨
京極杞陽
同じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
中村汀女
句
籾摺り
は1935年(昭和十年)、東京大森での作。昔の台所は田舎ではもちろん、瓦斯(ガス)が来ているような都会のモダンな家でも、総じて北側など暗い場所にあった。ましてや、外は秋の雨だから、陰気な雰囲気である。「秋雨の瓦斯」とは、コックをひねると出てくる瓦斯の、普段よりもいっそう暗く湿ったような感じを言っているのだろう。タイミングを計って燐寸(マッチ)を擦ると、炎が瓦斯に燃え移るというよりも、句のように「瓦斯が飛びつ」いてくるというのが実感だ。着火したら、手早く燐寸を遠ざけねばならない。慣れているはずの主婦といえどもが、緊張する一瞬である。当時は恵まれた環境にあった主婦のビビッドな感覚を伝えた掲句も、もはや郷愁を呼ぶ台所俳句の一つになってしまった。自動点火のガス器具しか知らない世代には、よくわからないかもしれない。瓦斯といえば、最近読んだ宇多喜代子『わたしの歳事ノート』(富士見書房・2002)に、明治期(三十七年)の句が引用されていた。「瓦斯竃料理書もある厨哉」。新聞の懸賞に入選した俳句だそうだが、手放しの自慢ぶりが、いまとなっては可笑しくも哀しい。時代は変わった。台所も……。画像はTOKYO GASのHPより。句は『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)などに所載。(清水哲男)
秋霖や右利き社会に諾へり
大塚千光史
季
マウス
語は「秋霖(しゅうりん)」で、秋雨よりも寂しい語感を含む。さて、作者は左利きだ。古来、洋の東西や人種の差異を問わず、左利きの人は一割くらいいるそうだ。最近は左利きの人をよく見かけるようになったけれど、これは子供の頃に親が強制して右利きに直さなくなったからで、左利き人口が特に増えてきたわけではないらしい。一割しかいないのだから、当然のように、この世は「右利き社会」になっている。鋏だとかドアのノブ、あるいは駅の自動改札口など、多くのものが右利き用にできている。パソコンのキーボードにしても、両手を使うから右も左も関係ないように見えて、実はある。右側にしかないenter(もしくはreturn)キーの位置だ。このキーは、何かを決定するときに押す。決定は、利き手で下したいのが人情だろう。したがって、わざわざ右側に配置してあるというわけだ。万事がこのようだから、左利きの人は物理的心理的に不満を感じながらも、右利き社会に「諾(うべな)」つて、つまり服従して暮らすほかはないわけだ。句はそんな我が身を慨嘆しているが、具体的なきっかけがあっての嘆きのはずだと、いろいろと考えてみた。雨と左利きとの関係で、考えられる道具としては傘が浮かんでくる。はじめは傘を持ちながらノブを回すようなときの不便さかとも思ったが、これは右利きにしても不便なので、根拠としては薄弱だろう。で、思いついたのが、傘をたたんで建物に入るときのことだった。たいていの人は、傘を巻くか、きちんと巻かないまでもボタンくらいは止めるだろう。やってみるとわかるように、左手で巻くのはとても難しい。雨のたびにこの不便さを感じさせられるのだから、右手社会に服従させられていると恨んで当然である。写真は、アメリカの通販カタログで見つけた左利き用のマウス。全体として左側に傾斜している。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)
松過ぎのまつさをな湾肋骨
原田 喬
大正十三年「ホトトギス」第一回同人に推された原田濱人(ひんじん)は、虚子の許可を得て「ホトトギス」に書いた主観重視の論「純客観写生に低徊する勿れ」を理由に虚子に破門される。「ホトトギス」の同期の飯田蛇笏、原石鼎ら主観派に対する見せしめとしてスケープゴートにされたのだ。早い話が虚子にハメられたのである。その七年前、まだ二人の関係が良好であった頃、虚子は、奈良で教鞭をとっていた濱人宅を尋ね、その時四歳だった濱人の子喬(たかし)を句に詠んでいる。「客を喜びて柱に登る子秋の雨」虚子の句集『五百句』所収のこの句に詠まれた喬は、失意の父とともに郷里浜松で暮す。父は地元で俳句結社「みづうみ」を興し、生涯その指導に当る。父死後、喬は父の跡を継がず加藤楸邨に師事する。喬は1999年没。喬もまた郷里浜松で生涯を終えている。「まつさをな湾」は遠州灘。肋骨(あばらぼね)は、そこに生活の根を置く自己の投影。それはまた父から受け継いだ血と骨格である。句柄はおおらかで素朴。「土に近くあれ」を自己の信条とした。『灘』(1989)所収。(今井聖)
山裏に大鬼遊ぶ稲光
小島 健
今年ほど雷が鳴り響く夏はなかったように思う。雷鳴は叱られているようでおそろしいが、夜空に落書きのように走る稲妻を眺めるのは嫌いではない。学生時代アルバイトからの帰り道、派手な稲妻が空を覆ったかと思った途端、街中が停電したことがあった。漆黒の闇のなか、眼を閉じても開いても、今しがた刻印されたの稲光りの残像だけがあらわれた。あれから私の雷好きは始まったように思う。掲句は、鬼がすべったり転んだりする拍子に稲光が起きているのだという。この愉快な見立ては、まるで大津絵と鳥獣戯画が一緒になったような賑やかさである。また、雷に稲妻、稲光と「稲」の文字が使用されているのは、稲の結実の時期に雷が多いことから、雷が稲を実らせると信じられていたことによる古代信仰からきているという。文字の由来を踏まえると、むくつけき大鬼がまるで気のいい仲人さんのごとく、天と地を取り持っているように見えてきて、ますます滑稽味を加えるのである。〈はじめよりふぐりは軽し秋の風〉〈秋雨や人を悼むに筆の文〉『蛍光』(2008)所収。(土肥あき子)
踏切の燈にあつまれる秋の雨
山口誓子
ああ寒いなと、秋が終わってしまうことを感じたのは、雨の日の夜でした。ついこないだまで暑くてしかたがなかったのに、もう冬になってしまうのかと、なんだか寂しい気持ちになります。突然の雨に傘の用意もなく、濡れながら帰宅を急いでいます。明日やるべき仕事のことなどを考えながら、踏切が開くのを待っています。顔をあげてみれば、踏切の光の中を、雨がしきりに降りつのっています。今日の句、「あつまれる」というのは、なるほどうまい表現です。うまい表現だということが、はっきりと前面に出ているのに、特段嫌味な感じがしないのは、そのうまさが中途半端ではないからなのでしょう。踏切が開いて足早に渡ってゆきます。自分が集まるべき、燈の下へ向かって。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)
芝居見る後侘びしや秋の雨
炭 太祇
作者は江戸時代の人ですから、ここでいう芝居は歌舞伎のことなのでしょう。芝居小屋の中では、夢見るように過ぎて行った華やかな時間が、外に出た瞬間に消えてしまったわけです。気分は急に現実にもどって、冷たい風が吹いているなと思って空を見上げれば、細い雨がそれなりの密度で降っています。この句が素敵なのは、芝居と現実の境目の線がくっきりと描かれているところです。日々の生活は地味なものだし、悩み事はいつだってあります。たまには芝居にうっとりして、あれやこれやのいやなことを忘れる時間がなければ、人生、やってられないよと、自分を慰めながら雨の道を歩き出すわけです。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)
薪在り灰在り鳥の渡るかな
永田耕衣
作者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)