ZIPANG TOKIO 2020「神霊の宿る信仰と修行の山 出羽三山神社 月山神社 出羽神社 湯殿山神社 」
出羽三山神社
出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。明治以降神山となり羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は 大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。
羽黒派古修験道
修験道の概念
日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教。
月山神社本宮
月山は海抜1,984m、世界でも珍しい半円形のアスピーデ型火山で、頂上の「おむろ」に月山神社があり、月読命を祀る。約千年前につくられた延喜式神名帳にのる名神大社で古い時代から朝廷を始め庶民の信仰が篤く、山形市には南北朝時代の貞治7年の銘のある月山結集碑があり、一村百余人の登拝講中のあった事を伝えている。もと東北唯一の官幣大社で、国の殊遇を受けた。
神社は水を司る農業神として又航海漁澇の神として広く衆庶の信仰をあつめている。
月山八合目弥陀ヶ原】
羽黒より登山バスで約1時間、海抜1400m附近につらなる湿原である。
この湿原は高冷地の為枯草が腐る事なく、何万年となく積み重なり出来た、泥炭層の湿原で6月~7月頃は、一面のお花畑となる。小さな湖沼が散在し、あたかも神々の御田を見るようである。弥陀ヶ原中央には御田原神社がある。
修験道の思想と目的
修験道は現実をそのままを究極の真理とみる現実肯定主義である。そのあらわれとして、修験者の目的は即身成仏(そくしんじょうぶつ)することで、この身このまま現世において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間になることである。
*近年まで国宝羽黒山五重塔には、自然のままの衆生のあり方を示す三身の額が掲げられていた。
・法身(ほっしん)-真理そのもの
・報身(ほうじん)-悟りの結果得た身
・応身(おうじん)-衆生救済のために仮にあらわれた姿
修験道の語彙
・験-祈祷の結果としてのしるし(即身成仏したことの証)
・修-験を得るために努力精進し、霊験力や呪術力を身につけること。
・道-修行の方法を研究し、実践するための最高の手段と方法。
出羽三山における権現
羽黒山-・聖観世音菩薩(仏)・伊氐波神(産土神)・稲倉御魂命(穀物神)
月 山-・阿弥陀如来(仏)・月読神(農耕神)
湯殿山-・大日如来(仏)・大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神)
・少彦名命(医薬神)
古修験道と呼ぶ理由
開祖である能除仙は第32代崇峻天皇の皇子で、大峰修験や熊野修験が開祖と仰ぐ役行者(7・8世紀頃の呪術者)より時代が早く、身分も貴い方である。また修験道の最高の法儀である柴燈護摩は、わが開祖が役行者に授けたものであるという伝承から、羽黒山こそ修験道の根本であるとして「古修験道」と称している。
羽黒山大鳥居
南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉庄の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫にその職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡)に鳥居を建立させ羽黒山一の鳥居としたが、今はなく只鳥居町の名を残している。今の一の鳥居は鶴岡から羽黒橋を渡り、坦々たる庄内平野を横切って、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22.5mの両部の大鳥居がある。昭和4年山形市吉岡鉄太郎の奉納。
五重塔(国宝)
羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。
月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀る。本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
鏡池
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
霊祭殿大天井鎮魂絵
故・熊澤観明画伯染筆奉納
鎮魂絵「天女と神龍」が描かれており、天女に導かれた御霊が龍(昇り龍・降り龍)に守護されて昇天すること願う意味があるという。
湯殿山神社 ~神秘に息づく行の山~
御神体巡拝 三山が神仏習合であった時代、三山を抖擻(とそう)する修行を「三関三渡」といった。羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、湯殿山の大日如来(三関を超越した世界)の宝窟に安住し、即身成仏(生きたまま悟りを開く)の妙果を得るというものである。裸足になってご神体に登拝するのは、大日如来と一体になって感得することである。また湯殿山は神の世界ゆえ、古来より人工は許されず社殿を設けないのである。
御滝神社と滝の行
湯殿山神社の背後から90mの鉄の梯子を下りると、御滝神社の滝壺に出る。滝は梵字川の激流が湯殿山神社の御神体脇を急に落下して、巖を噛んで流れる。昔はこの滝を不動尊として拝したが、今は瀬織津姫神を拝する。この滝から神橋に至る間の両岸には13の末社が祀られ、この末社を巡拝することをお沢駆けと云う。真夏でも肌に突き刺すような雪解け水に滝の行をする行者が多い。
湯殿山神社本宮
湯殿山神社本宮では、参拝に際して現在でも履き物を脱ぎ、裸足になり、御祓いを受けてからでなければお詣りは許されない。俗世とは切り離された神域である。
月山から西に尾根づたいに下りること8km、月山の絶頂より流れ落ちる梵字川のほとり、幽邃な仙境に、悠久の太古より、滾々と霊厳とを御霊代として、大山祗神、大巳貴命(大国主神)、少彦名神の三神が鎮まります湯殿山神社(1,100m)がある。
湯殿山神社大鳥居
平成5年10月竣功
湧き出づる神湯の音
御 祭 神 大山祗命(おおやまづみのみこと)
大已貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
相殿神
秋葉山大神(あきばやまのおおかみ)
黄金山大神(こがねやまのおおかみ)
明治9年、初代山形県令三島通庸は、県庁舎の建設の地を山形市旅篭町の万日河原
と定め、出羽三山の奥の宮国幣小社湯殿山本宮の口之宮本導寺湯殿山神社より分霊
を勧請、旅篭町雁島に祀りました。
翌明治10年11月、県庁舎が完成開庁すると、周辺には師範学校、警察本部、郡役所、
銀行などが次々と建ち、雁島の湯殿山神社は県庁のみならず、山形中心部の鎮守と仰
がれるようになりました。
明治12年には県社に列せられ、明治25年旅篭町の秋葉山神社を合祀、さらに後年黄
金山神社を合祀してますます信仰を集めてきました。
明治44年山形市でおきた大火のために、焼失。本殿が仮拝殿とともに新たに完成した
のは大正4年、拝殿が完成したのは昭和11年のことでした。
昭和54年9月、山形市より新庁舎建築のため湯殿山神社移転の要請をうけ、翌11月
湯殿山移転建設委員会が発足。56年9月には地鎮祭が行われ、着工以来1年7ヶ月現
在地に新社殿、末社市神神社、神門、社務所参集殿の造営が完成しました。
今や県都山形市の鎮守として仰がれ、尊ばれています。
昭和12年頃 雁島の地の湯殿山神社
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
出羽三山神社 〒997-0292 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7 TEL.0235-62-2355 FAX.0235-62-2352