朝顔に我は飯食う男哉
https://sukimodern.exblog.jp/29077170/ 【朝顔に我は飯食う男哉】 より
草の戸に我は蓼食う蛍哉 朝顔に我は飯食う男哉
この二つの句は、宝井其角 23歳の時の処女撰集『虚栗(みなしぐり)』に載っているものです。
其角は芭蕉の弟子でありながら毀誉褒貶の多い人で、「草の戸に…」の句は酒食を求めて遊里で遊ぶ其角自身を表現しており、それに対して、芭蕉が「朝顔に…」の句で其角の放縦な態度に忠告の意図をこめたというのが通説です。
しかしながら、開高健は『最後の晩餐』の中で、この芭蕉の句については、「歌を歌としない彼の詩法を告げて、キラキラと鋭敏な其角の奇骨を衒気としてたしなめているのだけれど」として、
「あまりの凡句なのでちょっと吹きだしたくなる。歌を歌としないのは結構だけれど、それをいうのに 《あさがほに我は食(めし)くふをとこ哉》 とは語るに落ちたといいたい月並みではないか。月並みもまたときによっては至難の作法なのだゾといいたくてこんな凡句を詠んだのかどうか。俳聖のお考えがよくわからない。素直、無飾、直下が俳句の真髄なんだゾと弟子をいましめたいばかりにわざと凡凡の凡という方法をとったのかとも思うが、それにしてもちとひどすぎる。~(略)~ 読むままに評価を下すとすれば私としては一も二もなく弟子に点を入れたいところである。」といってます。
芭蕉の句は、「私は朝早く起きて朝顔の花を眺めるような普通の生活をして、蓼など食わずにちゃんとご飯を頂いていますよ」というように解釈されていますが、はたしてそうなのだろうか…?
よく私たちが目にする江戸の風俗というと、広重や北斎などの浮世絵のイメージですが、これは江戸後期から幕末の時代で、TVドラマなどの時代劇で江戸時代が舞台の場合は、ほとんどが幕末の風俗になっていて、例えば「忠臣蔵」のように元禄時代にもかかわらず、着物や髪型などの風俗は江戸末期という場合が多いようで、専門家にいわせると見るに堪えないらしい…
今の季節、朝顔を咲かせている家は多いわけですが、それは江戸時代の文化・文政期(1804年-1830年)と嘉永・安政期(1848年-1860年)の2度の朝顔ブームからなのだとか…
朝顔は、奈良時代末期に遣唐使が中国からその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされ、それからは長い間、薬用植物として扱われていたようです。
ちなみに、古く万葉集などで詠まれている「朝顔」は、今日の朝顔ではなく、キキョウあるいはムクゲの花のようです…
そしてその後、朝顔といえば、千利休と豊臣秀吉との逸話「一輪の朝顔」が有名ですね。
この逸話の解釈はいろいろとあるだろうけれど、天下人の秀吉が見たいといって利休の家までわざわざ足をはこんだというわけだから、当時の朝顔の花がいかに珍しいものであったのかということが推測されます。
さらに時代は下って、朝顔の句といえば、加賀千代女の「朝顔やつるべ取られてもらい水」が有名です。
この句は千代女の代表句といわれてますが、千代女がこの句を詠んだ時代、江戸の中期頃では朝顔はまだ一般的ではなく、表具師のような特殊な家だったからこそ、朝顔が植えられていたのだと思われます。
もともと中国では「牽牛子(けんごし)」と呼ばれていた朝顔は、七夕の頃に咲くことから、織姫を指し、転じて朝顔の花は「朝顔姫」と呼ばれるようになり、花が咲いた朝顔は「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされていました。
千代女の優しさが表れていると解釈されている句ですが、高貴で縁起の良い「朝顔姫」に釣瓶を取られてしまったということですから、もらい水するしかないわけですね・・・
後年の朝顔の大ブームは、千代女のこの句が引き金になったような気もします…
だからこそ、正岡子規は「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」とこの句を嫌ったのかもしれません。
朝顔に我は飯食う男哉_e0390949_16052054.jpg
さて、『虚栗』が刊行された1683(天和3)年は、「桃青」にかわって初めて「芭蕉」号が使われた年でもあります。
それまでの日本橋から深川に移した住いが「芭蕉庵」で、後に『おくのほそ道』で「草の戸も住替る代ぞひなの家」と詠まれますが、其角のこの「草の戸に…」の句を下敷きにしているのではないかと思うのですが…?
私が其角に興味を持ったのは、10年位前ですが、その時に痛感したのは、芭蕉に比べて其角に関する本がとても少なく、また其角の句も一般的にはほとんど知られていないということです。
市井の人事を詠み、人情の機微を詠んで、「伊達な洒落風」である其角の句の中では、この「草の戸に…」の句は其角らしくないことに私は注目しました。つまり、其角は新たな芭蕉の門出に際して、いわゆる蕉風と呼ばれる「閑寂」の世界で自らの放蕩を風流に表現したというわけです。
そして問題の「朝顔に…」の句ですが、これは千代女の時代より更にさかのぼるわけですから、朝顔はもっと珍しかったはずです。
『虚栗』には其角の「朝顔は仙洞様を命かな」という句も載っていて、仙洞様とは仙洞御所のことで、そのような貴人の家に咲いているとても貴重な花だったということがわかります。
当時、朝顔の花を眺めながらご飯を食べるというのは、決して普通の庶民の生活ではないわけで、この句は「(侘びた草の戸で)俺は(高貴な)朝顔の花を眺めながらご飯を食べている粋な男なんだぜ…」という感じの、むしろ其角が詠みそうな「伊達な洒落風」な句といえます。
なんとなく其角の「夕涼みよくぞ男に生まれけり」を連想させます。
また、この当時すでに点者生活をやめていた芭蕉は俳句で飯を食っているとはいえず、其角や嵐雪などの弟子たちの援助があって生活がなりたっていたわけですから、そういう状況をふまえて詠んでいるともいえます。
つまり、「草の戸に…」の句は、其角があえて蕉風に詠んだもので、それを受けて芭蕉は《角が蓼虫の句に和す》と前置きして「朝顔に…」の句を編者である其角風に詠んだのだと思います。
和みますね…(^-^)
モダンな朝顔の意匠の奈良茶碗は幕末頃の古伊万里だと思われますが、骨董病になりたての頃に、奈良の骨董屋さんで手に入れたものです。
奈良茶飯を盛るのに用いた奈良茶碗は普通の茶碗よりもひと回り小さくて、普段はあまり使うことはありません・・・
http://shuuto.jugem.jp/?eid=2437 【松尾芭蕉のこの一句】 より
松尾芭蕉の一句にこんなのがある。
朝顔に我は飯食う男かな
普通の文に直せば、わたしは朝顔をながめながら飯を食う男です。という単純な内容である。これが俳句というなら、紫陽花に我は飯食う男かな 橘に我は飯食う男かななどと、なんでもできてしまうようであるが、俳句というのはそういうものでもない。
この朝顔の句は、芭蕉の弟子である其角が草の戸に我は蓼食くふ蛍かなという洒落た句を作ったのに対して、芭蕉が応じたものなのである。
才能をひけらかすような其角の句に対して、平凡な男をストレートに描いて見せたという
ことだろうか。
俳句は歌仙という伝統の下に生まれているから、相手とのコミュニケーションを前提にしている部分がある。
蓼蛍に対して、飯男で応じたという点が大事なのである。
平凡で地味な男の姿を平凡にストレートに詠んで見せたのであろう。
テレビを見ながら食事をするのが当たり前になった現代では、この朝顔を見て食事をする生活のほうがお洒落に見えるかもしれないが。
https://yeahscars.com/kuhi/asagaoni-2/ 【朝顔に我は飯食う男哉】 より
あさがおに われはめしくう おとこかな
朝顔に我は飯食う男哉松尾芭蕉、1682年(天和2年)の句。虚栗(1683年 其角編)に、「和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)」の前書きで載る。つまり、宝井其角の「草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」に対応した句である。
これは、風毛の「あさがほに箒うちしく男哉」の評に寄せて、去来抄(1702年?去来編)にも取り上げられている。
自由奔放な性格で、酒飲みとしても知られる其角が、自らを夜に活動する蛍のような、心強くも儚いものとしたのに対し、芭蕉が暗に警告したものだとされる。
大意は、「私は規律ある暮らしの中にあり、朝顔の咲いているうちに食事を済ませてしまう男です」というようなもの。