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さいたま自死遺族の集い*星のしずく

福寿草のこころ

2021.01.28 01:21

大切に育ててきた我が子を、ある日突然、自死で喪う。


(子供に限らず、自死に限らずとも)

人生におけるかけがえのない愛する人を突然喪う。


取り返しのつかない事態。


こんな恐ろしく悲しい耐えられない事が起き、それでもこの世で踏ん張る理由ってなんでしょう。



いつか彼方へ逝き着くのは必然なのだから、早まるべからず?


ゆっくりでもいいけど早くてもいいじゃん。


いやいや、亡き人にお土産話もたくさん持って逝くためにも、急ぐな急ぐな?



時に襲ってくる虚しさに、何もかも投げ出したくなっても踏ん張るのはなぜでしょう。


亡き大切な人に心配かけないよう、安らかでいてほしいから?

(個人的にはこの思いも強いかも… でも)



晴れ渡る空に墜ちていきそうな心を、風に煽られ我にかえり、また踏ん張る私の体。


踏ん張って生きる理由。

自らは死ねない、死なない、自分の中の最大の理由って?




あれ?(^_^;)………


苦しみもがいて余裕もなくやっと生き延びてきた故なのか、あらためて考えたことのない理由でした。

(事後暫くは、娘の『さよならの理由』に意識が向いていましたし)


“生きて居られた”のは間違いなく、その後出会った方々の中に、居場所を見つけられたことも大きいのですが。



自ら死なないで踏ん張る最大の理由は?


私の場合は、

こんなに苦しいことを知ったからには、もう二度と周囲の大切な人には味わわせたくないから』です。


その上で、亡き娘への想いや供養も継続していく、というのが目標になっていることに気づきました。


けれども、生きづらさを感じることの多い人生になったのは確かです。

そういう経験のない人たちよりは、かなりの工夫が要るんじゃないでしょうか。

知らず知らずに自分も工夫しながら生きているのにも気づきました。


多くの自死遺族さん方のブログを読んでいても、リアでお会いした方々のお話を聴いても、やはり様々な工夫を凝らしながら生き繋いでいるんですね。

当人が気づいていない場合もありますが。


自分の気持ちや考えを、こうしてブログや日記に書き出してみることも工夫の一つでしょう。

書くという行為も、どこかへ出向いて語るという行為も、もうその時点で一歩も二歩も踏み出している(or身を起こしている)状態だとも思います。


文章にするのは記録として残るし、後で読み返して自分のことを客観視できますね。

会話のできる遺族会等では、共感できることできないことを知ることで、やはり相手のことも自分のことも客観視できるようになったり。


📷2020年2月、埼玉県宝登山で顔を出していた福寿草。

コロナ禍突入直前の去年この時期。


亡き娘繋がり散策班チームKの遠足は、工夫に広がりを持てた憩いのひととき。

花言葉は『幸福』『祝福』『幸せを招く』『永久の幸福』の他、『回想』『思い出』『悲しき思い出』というのもあるようです。


📷カラオケ中の亡き娘。

従姉妹たちと2016年最後の夏休み帰省中の一枚です。


私の大好きな、彼女の豪快な笑顔。

娘コーナーに置かれた、紙芝居風アルバム兼写真たては、季節ごと気分ごとに入れ替えています。

これも遺影とはいえ、かしこまった写真よりグッとコーナーも賑やかになって、私の心を和ませてくれます。

(そうだ…この子は自死だったけれど、笑える思い出の方がトータルで多かったぞ!と思い出されたり)

これも私なりの、踏ん張るための小さな工夫の一つなのかな。


書物や映画、自然風景から何かを感じ取ったり、音楽、絵画、モノづくり等に昇華していたり、メッセージと感じる事やモノで気持ちにメリハリをつけたり、人それぞに様々。

長い年月踏ん張っているサバイバーの皆様の生活には、ご自身の想いを生かした工夫を凝らしている場面が多々あるなぁと、見聞きしていて本当に思いますし、私自身の励みにもなります。

星のしずく*管理人




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