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世にふるもさらに宗祇のやどりかな

2018.01.28 07:34

https://ameblo.jp/sakuramitih31/entry-12543973772.html 【世にふるもさらに宗祇のやどりかな】 より

世にふるもさらに宗祇のやどりかな  芭蕉(よにふるも さらにそうぎの やどりかな)

詞書・・手づから雨の侘笠(わびがさ)をはりて。

意味・・数日こうして渋笠を張りながら、旅の詩人宗祇を思うのも、いささか古人にあやかるところあって面白いが、しかしさらに考えてみれば、この人生そのものが、「宗祇のやどり」に他ならないのではなかろうか。

    宗祇の句、「世にふるも更に時雨のやどりかな」とさらに

    二条院讃岐の歌、「世に経るは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」

     を念頭に詠んだ句です。(意味は下記参照)    

 注・・世にふるも=この世に生きながらえる。

  手づから=自分の手で。 侘笠(わびがさ)=侘び人にふさわしい笠。

  宗祇のやどり=時雨の晴れるのを待つ間の侘しい宿りのこと。

作者・・芭蕉=1644~1694。松尾芭蕉。「野ざらし紀行」

     「奥の細道」「笈の小文」。

出典・・笈日記。

宗祇の句です。

世にふるも 更に時雨の やどりかな 宗祇(よにふるも さらにしぐれの やどりかな)

意味・・時雨降る(信濃路で)一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか。

冷たい雨が降ったり止んだりするように、人生も良かったり悪かったりするという無常観を詠んでいます。

 注・・ふる=「降る」と「経る」を掛ける。さらに=さらに言えば。時雨=初冬のにわか雨。人生の無常や冬の始まりの侘しさを感じさせる。

二条院讃岐歌です。

世に経るは 苦しきものを 槙の屋に やすくも過ぐる初時  二条院讃岐

意味・・世を生きながらえていくことは辛く苦しいものなのに、槙の屋に降る初時雨はいとも軽々しく降り過ぎていくことだ。 辛さや苦しみ、悲しみを十分味わったので、「やすく過ぐる」ように、これからは容易に世を 過ごす事が出来たら良いのに、という気持を詠んでいます。なお、二条院は平家との戦いで父と子を亡くしています。

 注・・世に経る=この世に生きながらえる。槙の屋=槙の板で葺(ふ)いた家。やすく過ぐる=なんの苦しみもなくさらさらと降り過ぎる。

作者・・二条院讃岐=にじょういんのさぬき。1141~1217。後鳥羽院の中宮に仕えた。

出典・・新古今和歌集・590。


https://www.myoshinji.or.jp/about_zen/zen 【禅とは】 より

禅とは心の別名です。

ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。

私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。

世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。

この「ほとけ」の心の働きには「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。自分とは違う相手を許し認め、自分とひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の空の価値観に立つおおらかな心のことです。

自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。

禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。


https://www.kenninji.jp/zen/ 【禅の教え】

最小限、最低限のもので生活していくというのが私たちのやり方ですね。

贅沢というものは煩悩、妄想であって、それを外すというのが私たちの大きな目標です。眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。寝て一畳、起きて半畳といいますから。

修行道場の禅堂では、みなの生活するところは本当に畳一枚が自分の場所として与えられ、就寝も食事も座禅もそこで行います。持ち物は体にくっつけられるものだけ。余分なものは持たない。それでじゅうぶん、生活できるんです。我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。

 簡素に生きる。これがいちばんの贅沢だと思います。なかなかできないかもしれませんが、やってみると一番の贅沢だということがわかると思います。満足の上限をおさえれば、心穏やかでいられます。

  寒い時に寒くなる。当り前のことです。でも、暖房を入れたら、少しでは満足できない。暑い時にも中途半端な涼しさでは満足できない。いっそのこと暑いときには暑い生活をしてしまえばいいんです。庭に水をうつ。

それで涼が得られたんですからね。


http://www.kyoto-hanazono-h.ed.jp/others/zen/zen01.html 【禅とは】 より

「直指人心 見性成仏」

端的に言えば「自己をみつめろ」ということ。自分自身の心がどのようなものか、明確につかめたとき、安らかな人生、幸せで充実した人生を送ることができる。本校の教育の「禅」において軸となるのが「坐禅」。姿勢を調え、呼吸を調えることによって心が調う。心が調うとは、自分自身の執着を捨て去り、何ものにもとらわれない“ゼロ”の状態になること。坐禅で得るものは無く、捨て去ることを徹底する。見えてくるものは、けがれのない「本当の自分」。純真無垢そのもの。その輝かしい心は、誰もが本来生まれながらに備わっているもの。その心をつかみ、磨くことが「禅」の追求。言い換えれば、自己の探求「己事(こじ)究明(きゅうめい)」のこと。

グローバルスキルとしてのZEN

武田信玄、織田信長、豊臣秀吉などの戦国武将、Apple社創設者として有名なスティーヴ・ジョブズ氏、京セラ創設者稲盛和夫氏をはじめ、世界のキーパーソンたちが「禅」の教えに共鳴し、自身のビジネスや生き方に取り入れている事実が明るみになり、今、グローバルスキルとしての「禅」に関する関心が世界規模で高まっている。急激に変化する世界を生きるためには個の強さが必要。その強さとは、何ものにもとらわれない確固たる自分を磨くことで得られる。どのような時代、どのような環境に置かれようとも、柔軟に変化し自分自身を輝かせる強さを身につけることが、グローバルスキルとしてのZEN。

「禅」 -グローバルな時代を生き抜くために

「禅」は、座禅から始まる

本校の教育の基本である「禅」において軸となるのが「座禅」です。座を調え、呼吸を調えることによって、心が調います。心が調うとは、偏見やこだわりを捨て、何にもとらわれないフラットな状態になること。知識を蓄積する授業が”足し算の学び“ならば、座禅は引き算の学びなのです。

“本当の自分”が見える

座禅によって偏見やこだわりを削り落とすことを、「洗心」といいます。洗心すると見えてくるのが、”本当の自分”です。何にもとらわれず、まわりの言葉や行動などに惑わされることもない”確固たる自分”を見つめ、自分を知る。それが、人として成長していくための第一歩となります。

他者を認める姿勢が育つ

本当の自分を知り、他者とは違うありのままの自分を受け入れます。すると、自分とは違う他者も認めることができるようになります。確固たる自分を持ち、他者を受け入れるという感覚を養うことができれば、たとえば全く異なる環境で育った異文化圏の人たちのことも受け入れることができます。

強い自分を確立する

周囲に惑わされない確固たる自分は、決して頑固ではありません。臨機応変に自分をコントロールして、水や雲のようにさまざまな姿に変わることができます。異文化圏でも確固たる自分を大切にしながら、なおかつ、その地の文化に溶け込める。そんな柔軟さこそが、国際化社会であらゆる困難を乗り越える”強さ“の源になるのです。


http://ryuun-ji.or.jp/blog/?cat=14 【盤珪さんと不生禅】 より

盤珪永琢(一六二二~一六九三)は、現在の兵庫県姫路市網干区に生まれ、十七歳で出家し、命がけの厳しい修行に身を投じられ、ついに禅の悟りをひらかれました。そしてその生涯をかけて禅の教化活動に邁進されたのです。盤珪禅師はそれまで禅宗で用いられていた中国の言葉である漢語を使わず、誰もが理解できる平易な日本語を用い、自らの口から出た言葉で判りやすく、面と向かって、誰から誰に至るまで法を説かれました。中国から伝来した禅が、盤珪禅師によってはじめて日本オリジナルの禅として再誕され、当時行き詰まり状態であった日本臨済宗に新しい息吹が生まれたのです。

盤珪禅師の説かれた禅の内容は、自身の次の言葉に集約されています。

「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ」

私たちが親から産み付けられたものは、「仏心」ただ一つ。他のものは何一つとしない。たとえば、鏡は前にある物を映そうと思わなくても、そのまま物を映します。その前の物が取り除かれれば、もちろん何も鏡には映りません。盤珪禅師は、この鏡のような心こそ「仏心」であるというのです。

また、盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し「そんなものは一切不要である」と言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして後から生まれるものでも、死んだらなくなってしまうものでもない、つまり「不生」のものだからです。自分自身の中に生まれながらにある「不生の仏心」で暮らすことができれば、私たちは道を誤ることなく心安らかに人生を歩んでいける。この禅風こそ「不生禅」なのです。

禅は苦行ではない。無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。「不生禅」には宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。