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Baby教室シオ

偉人『マリー・アントワネット』

2021.01.29 00:00

オーストリアより14歳で輿入れしたフランス王妃マリー・アントワネット。彼女が現代に生きていたと仮定すると適職は保育士、もしフランス革命が起きず良き王妃として評価されていたなら国の子供のために尽力していたであろう。なぜなら他国に先駆けオーストリア全土に小学校をいち早く作った母マリア・テレジアの娘であるから。そんな理由で・・・と思われるかもしれないが、そう考えたのには理由がある。

彼女が子供好きだったエピソードは数多く残っている。自らの子供に対しても宮殿内で他の子供を見掛けても彼女は必ず優しく抱きしめたという。なぜ宮殿内で見知らぬ子供がいるかといえば、彼女の暮らすベルサイユ宮殿での私生活も、彼女の出産でさえも公開されていたからだ。彼女が宮殿を抜け出し遊びに走るのも無理はない。

話を戻そう。その子供達を時折居室に招きたとえ物を壊したり、ベッドのシーツを破ても叱ることはなかったという。また群集の中に子供を見掛けるとその子の名前を聞かせに人をやり、使用人が亡くなるとその子供達を養女にし、子供がいるという理由だけで女官として採用したエピソードも残っている。

長年子宝に恵まれず子供を授かってからの彼女は母性愛に目覚め、目に余る遊びは減った。そして彼女が望んだのは侍従や乳母・教育係に子供を任せるのではなく、王妃自ら娘マリー・テレーズを育てようと一日中寄り添い育てた。娘テレーズのわがままを心配し、貧しい子供達を招きおもちゃを放さない娘に対し手渡すようにと促した記録も残っている。

お分かりだろうか。アントワネットは母となる前から幼きものに対する眼差しは温かく、子を産んでからはより一層子供の幸せについて考えていたのである。

彼女は16人兄弟の15番目末娘。兄弟とは年も離れ兄の子供達の世話をすることや共に遊ぶことが好きであった。既に純真無垢な子供達を受入れる素養が備わっていたといえる。

彼女の美貌は母譲りであったが、性格的ものは父譲りで物事に拘らず自ら楽しみを生み出す自由で活発な人物であった。時に自由すぎて教育係は手を焼くことも多かったが、基本的に素直で愛嬌のある茶目っ気たっぷりで天真爛漫その言葉通りの皇女であった。

あらゆる教育を施される兄たちとは違い、政略結婚で他国に嫁ぐために重視される従順さや礼儀作法、当時の宮廷の公用語であるイタリア語にフランス語、教養を示す音楽や踊りの教育を受けた。明朗快活で善良的で親切であった彼女に転機が訪れる。それは父の死、彼女は9歳であった。

父の死後、母マリア・テレジアの悲しみは深く常に喪服身に纏い、子供達は母が笑顔を無くし墓前で祈り続ける姿を目にしていた。そんな母の打ちひしがれる姿に心配こそしたが、国政を行う母と距離ができ徐々に近寄りがたくなっていったという。アントワネットもこれまで以上に母との距離や両親不在の寂しさを感じたに違いない。その心の寂しさを埋め甘えていたのが優しい教育係の伯爵夫人の存在だった。しかし時を同じくしてアントワネットの不勉強さから大変厳しい教育係に変更されたのだ。

自由で何事も強制されるのが嫌で勉強も強いられるのが苦痛、好きなことは好むがそうでないことには興味を示さず、とにかく飽きっぽく何事も長続きしない。的確な受け答えができず判断さえもできないことに教育係も母も解決の糸口を見つけようと必死だった。その様子は母子の往復書簡からも容易に分かる。母マリア・テレジアが強く諭し続け望んだ状況を判断し、的確な行動が取れるようになったのは38歳の幽閉されてからだ。なんと長い年月がかかったであろう。

彼女の人生を紐解くと人生を良い方向へ転換させるターニングポイントが幾つかある。時が経つごとにその状況は厳しくなるが専門的見解からすると、最も効果的修正ができたのは3歳まで、そして次の転換期は父を亡くした9歳、そして母となったときである。

9歳の子供にとり大好きな父を亡くし、母の側にも寄れず、心を開いていた教育係の伯爵夫人も離れその代わりに来た教育係の厳しさに触れたら幼い彼女が心を閉ざしてしまうのは分かりきった事だ。彼女が頑なになってしまったのは彼女を理解する人々が彼女のもとを離れたからであろう。単に自分を愛し理解してくれる愛情を欲していたに違いない。この頑なさはフランス宮廷内での自分の主張を譲らない態度を生んだのだと推測する。本来子供というものは大人が手を焼くほどの頑なさは持っていない。私の経験上大人が手を焼くほどのものを持つ場合はそれなりに家庭環境に問題がある場合が多い。人を信用できない状況に子を追い込むのは愛情不足の他にないと考える。このことはいくら時代が変化しても人間の根本的精神にとっては普遍的事実である。

自由にのびのびと育ったハプスブルグ家から、堅苦しい儀式や慣習に縛られ生私活が公開されるフランスでの生活に必死に適応しようとした彼女の努力も書簡や側付きの女官の報告で分かるが、なんせ忍耐力もなければ元来の飽きっぽさや物事を放り出してしまう性格と宮殿内のあらゆることに疲れ、また妻に興味を示さない夫に耐えられず、そこへ思春期特有の難しさと若気の至りが重なりさぞ苦しかったであろうと推察できる。

そこへ王妃の地位を利用しようとする人々の出現。彼女は自ら置かれる状況の判断ができない稚拙さが立場を危くしたのも事実である。ではなぜ母テレジアは彼女をフランスに嫁がせたのか。もともとは別の姉が嫁ぐ予定であったが状況の変化でなっただけだ。母はアントワネットの不適正を分かってたが別のカードはなかった。だから娘の行動変化に望みを託した。しかし母が『宮廷内での人間関係のバランスを失うと取り返しがつかないことになる』だから注意せよといった所で彼女には何も届かなかった。

それはなぜか、もう私には答えが見えている。

マリー・アントワネットに限らず気質を組んで自由奔放に育てるという言葉には2種類の方向性の違いがある。

1つは、好き勝手わがまま放題に子供の気持ちのまま行動させること。

2つめは、子供の気質や意思を尊重し自由選択はさせるものの、必ず自由の中の制約を設けその中で行動させる方法だ。

マリー・アントワネットは前者を選択し育った。しかし幸い彼女は純真さがあり人に愛された経験があった。そして幼少期に人を攻撃するような行動はなく、逆に幼い者を慈しむ気持ちがあったことが幸いしたと考える。

今お預かりしている生徒さんの中にもものすごく天真爛漫で活発に動かれるお子さんがいるが、そのお母様は時に厳しく、ある程度の許容をなされ、レッスン前には玄関先で「先生の言うことをちゃんと聞いてね。信じているよ」と諭し挨拶をきちんとさせてから入ってこられる。毎回このやりとりは子にとってある程度の制約となり、親御さんの言葉を心に留めることに繋がってていると感じる。私もレッスン時に心掛けている事は、ある程度の制約を持たせ子自身に選択権と思考を促している。自ら考え行動する力が育たなければ周りが見えてこない。見えなければ状況判断ができない子に育ててしまう。自ら蒔いた種は自ら刈り取れるように育てることが必要なのだ。

彼女は母となりもともと持っていた母性本能がより強く目覚めが本領発揮される。しかし時既に遅しだったと彼女自身が悟り記した言葉がある。

「私は今死刑宣告を受けました。でも侮辱的な死ではありません。それは罪ある人が受けるものですから。しかし子供達を置いていくということが心底、心残りです。」

人間は不幸になってはじめて自分を知るという。その言葉通り彼女は気丈に振舞いながらも母テレジアの言葉を痛切に感じ取っていたのではないだろうか。マリー・アントワネット享年38歳。彼女はこの短命な人生を通し終焉のときに初めて自らの短絡的行動を振り返る事ができたと信じたい。人間は誰しも浅知恵で愚かである。行動や言動を悔やんでは反省をし脱兎の如く成長したいと望むが、実の所牛歩の歩みで成長していくものだ。時に歯痒さも感じるだろう。それでも前向きに捉えその努力の足跡を残し、それをさりげなく提示している者が人生を彩りよく歩んでいるように感じる。人生は根本的ものを心に留め、多面的方向から物事を見て、長期的に実践し結果を残せばいい。成長の大きな最高の波に乗る時期を逃したとしても何も焦る必要はない。できることから確実にこなすことの方が価値ある行動だと思う。また皆さんの周りには多くの先輩方がおられる。その経験値や知恵をを拝借すればいいのだと思う。私も大先輩の意見を昔話と思わず、何か得られるものはないかと日々同じ話を繰返す私のよき理解者に耳を傾ける訓練を受けているのだ。同じ話をされるのには理由があると思って考え方を変えればいい。ただ伴侶の話には苦痛が伴うのでまだまだな私である。


さて最後に一枚の私のお気に入り絵画をご覧頂くことにする。

『マリー・アントワネット』彼女のお抱え女流画家ルブランの作品だ。なぜ私が好きなのかというと、この頃のアントワネットは優雅さの中にシンプルな母の優しい表情が描き出されているから。ルブランはこの時期にアントワネットについて語っている。

とても優雅で子供を愛し純粋なお方。余りの肌の白さに影ができず描くことは苦労した。でもその肌の白く透き通る美しさは彼女の純粋な心のようで一片の曇りもなかったと。

陰謀渦巻く宮殿内で利用され翻弄された人生だった。しかし父母の愛情を受け育ちったの人の品位は生涯変わらず、斬首台に上がるとき足を踏んでしまった係りのものに対し「ごめんなさい。わざと踏んだわけではないの。」と言える強さに、母は決して罪人ではありません。恥じることはないのです。国のために天に召されるのですと語っているように思える。

人生の終焉の時にこそその人の真髄を見たように思う。

彼女から学ぶこと。どんな間違った行動を取ったとしても修正できることを心掛けること、その責任は自分で刈り取ること、そして時機を逸しないようにタイミングを見極めることの大切さを学ベルと思う。凛とした佇まいでいるために何ができるのかと今日も考えてみることにする。