江戸の俳諧
http://history.hanaumikaidou.com/archives/8255 【江戸の俳諧】 より
<芭蕉と蕉風>
江戸時代前期に松尾芭蕉が確立した俳句の作風を蕉風と呼びます。芭蕉は、ことば遊びだった俳諧を人生詩に変えた詩人です。古典的な雅の世界と卑俗な現実世界のギャップから生まれる笑いや、人生を謳歌する享楽の表現だった俳諧を、17文字の短い文章のなかで日常の世界・現実の人生を表現する芸術に高めたといわれています。
芭蕉の作風はその当時から高い評価をうけ、門人たちの活動によって蕉風を慕う俳人の底辺をひろげていきました。江戸を中心とする都会派蕉門は芭蕉の門人たちから多くの俳系にわかれ、勢力を張り合いながらも、各俳系の俳人たちが房総へ遊歴してきています。
房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流をもちました。安房地方では兎門(杉風系)・葛飾派・雪門・伊勢派と呼ばれるさまざまな俳系の人々の影響を受けながら、地域のリーダーとなる俳人も数多く育っていきました。
地域のリーダーは連というグループをまとめ、句会を取り仕切り、句作の添削をおこなう宗匠として活動しました。地方の宗匠は文芸に親しむ機会の多い名主や医者・僧侶など、経済的にゆとりのある階層の人々が多くみられました。
<芭蕉句碑>
芭蕉を敬愛する俳人たちが江戸時代以来全国に建てた芭蕉の句碑は、2500基にも及ぶといわれています。芭蕉の供養と神格化された芭蕉の礼拝という意味があるもので、蕉風俳諧が浸透し地方の俳壇が活性化していく様子を知ることができる貴重な資料です。
この普及に一役買ったのが近江国大津の義仲寺で、宝暦11年(1761)以来、各地から芭蕉句碑建立の申告をうけ、諸国の芭蕉碑を紹介する『諸国翁墳(おきなづか)記』を増補しながら小刻みに刊行し続けていました。
安房地方で『諸国翁墳記』に記載されているのは2基だけですが、現在18基の芭蕉句碑が確認されています。個人や数人での建立もありますが、連などのグループによる建立が多くみられます。また地域の有力俳人の徳を偲んで、門人たちが句碑を建てることも行われました。
<蕉門十啓>
芭蕉を頂点に、芭蕉の優れた門人たちを孔子の十哲に見立てて「蕉門十哲」として描き、芭蕉とその一門を称揚することがおこなわれました。芭蕉の門人たちの後裔は全国に根を張り、俳諧がひろく行われるようになっていきます。下の図には頂点の芭蕉以下、其角・嵐雪・支考(東花坊)・許六・去来・丈草・野坡・越人・北枝・杉風が描かれています。
<俳人番付>
江戸時代にはさまざまなものにランクが付けられ、番付として公表されました。俳人の番付も文化文政期頃から各種出され、幅広い交流をもとうとする俳人たちの情報源になっていました。嘉永5年(1852)刊行の写真7では、西76枚目(5段目)に山下村の百羅漢苔年、隣に正木村の高梨文酬、東92枚目(5段目)に平館村の石井平雄、磯村の尾崎鳥周、6段目に金尾谷村の吉田文茂、大津村の平島梅居などの安房地域の宗匠が、全国の代表的な俳人たちと肩を並べています。安政年間の写真8では、東の4枚目どん尻に広場村の久保椿山がいますが、慶応元年(1865)頃の写真9では西の20枚目(2段目)、慶応2年の写真10では1段目の東8枚目へと評価を上げていくようすがわかります。
http://history.hanaumikaidou.com/archives/8263 【【2】俳句でコミュニケーション ―俳諧を楽しむ―】より
作った句は人に知らせたいもの、先生や友人から評価を聞きたいもの。そしてよりよい句を作れるように精進したいものです。そのために句会に参加したり、公の場に作品を公開するというのも楽しみ方です。多くの俳人と切磋琢磨するため旅に出たり、探勝の旅をするものまた楽しみ方のひとつでした。
<遊歴と風交>
修行のために諸国を遍歴して歩く雲水僧のように、江戸時代には諸国を行脚しながら各地の俳人と交流することが盛んに行なわれました。旅に明け暮れた芭蕉にならい、蕉風の俳諧はこの行脚によって地方に広がり、多くの人々に浸透していきました。
遍歴しながら地方の宗匠クラスの俳人を訪ねて句作を交わし、生活の糧を得ながら実力をつけていく俳人は行脚(あんぎゃ)とか雲水と呼ばれました。そして俳人同士の交流を「風交」と呼びます。
地方の俳人も伊勢参宮などの寺社参詣の機会に、名所を巡りながら句作をかさねたり、松島行などの芭蕉の足跡をたどる旅を盛んに行ないました。
<句会>
指導者である宗匠を中心に連と呼ばれるグループの仲間(連衆)が集る句会を月次(つきなみ)俳諧といい、定例的に行なうものがありました。また企画ものとして、宗匠などが催主となって句題を出し、一般から句を募集して宗匠が点をつけ結果を公開する、月次句合と呼ばれる興行も頻繁に開かれ、そのときにも運座という句会がもたれました。出句者の作品は清書された詠草本となって宗匠に点を付けられ、高点者には景品、最高点の者には採点された詠草本も褒美になりました。
宗匠は地域にもいましたが、江戸の有名宗匠に依頼する地域もありました。
<奉納俳諧>
神仏への祈願や供養のために社寺で句会を催し、額や行灯に作品を書いて奉納することも行なわれました。奉額・奉灯と呼ばれ、多くの人の目に触れることから、月次句合の興行として行なわれ、たくさんの句が応募されてきました。それらは撰者によって選ばれ、高点の秀句が掲載されることで、投句者の名誉欲をくすぐりました。
<俳句でコミュニケーション>
元旦に新年を祝って句を詠むことを歳旦といい、暮に詠んだ歳暮吟や春を詠んだ春興吟と合わせて春興帖が刊行されました。俳句で新年の挨拶をし、古稀などの賀寿や立机の祝いを述べ、追悼の意を伝えることも行なわれました。また江戸・東京から有名宗匠が来ると、指導を受ける機会もつくられました。
http://history.hanaumikaidou.com/archives/8276 【3】俳諧ネットワーク -安房の俳人たち-】より
<江戸の宗匠たち>
江戸には立机をして宗匠となり、作品に点をつけて謝礼(点料)を取り生活をする、業俳というプロの俳人が大勢いました。一門を経営するためには指導を乞う人々を大勢確保することが必要であり、行脚をしながら地方へその勢力をひろげていく宗匠たちもいました。
江戸の宗匠に師事した俳人は、地域のリーダーとして連を率いたり、後継者を育てる役割などを担いました。彼らは地域宗匠として安房地域各地で広範囲に月次句合などの撰者として活動することで、安房の地域を政治や経済だけでなく、文芸文化を通して地域のまとまりをつくりあげていきました。
(以下略)