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Okinawa 沖縄 #2 Day 74 (30/01/21) 旧高嶺村 (6) Maezato Hamlet 真栄里集落 (2)

2021.01.31 03:26

旧高嶺村 真栄里集落 (まえざと、メーザトゥ)


旧高嶺村 真栄里集落

1月26日に真栄里集落は訪れたのだが、遭難した犬の飼い主探しにに陣をとられ、時間切れで見学できなかった文化財が数々あるので、残りの文化財を今日は巡る。この集落へは先日と同じ道を十て行くので、犬がいたところも通る。最悪のことになっていなければと心配だったのだが、今日はその場所には犬はもういなかった。自力で家に帰ったのか、飼い主が探して連れ帰ったのか、少しほっとした。


真栄里集落文化財訪問ログ (1/26と今日の1/30を合わせたもの)


真栄里 (メーザトゥ) グスク (先中城 サチナカグスク)

真栄里集落の西の端、かつてクール―村があった場所の標高20mほどの石灰岩の丘陵の上にグスクがあった。一般には真栄里 (メーザトゥ) グスクと呼ばれている。

第一尚氏尚泰久王の時代に、国替えで、護佐丸が読谷山間切から中城に移り、先の四代中城按司がこの地に移り真栄里グスクを築き居城としていたところだ。このことで、真栄里グスクのことを地元ではサチナカグスク (先中城) と呼んでいる。

真栄里と中城との関係は深く、1458年 (第一尚氏尚泰久王)、中城按司護佐丸が減ぼされた時、その三男盛親と乳母が、隣の村の国吉ヌ比屋に守られて、国吉のティラ (南禅廣寺) や先中城に隠れたと伝わる。盛親は乳母の実家の屋号 大栄にかくまわれ、先中城按司に武術を教わりながら成長したという。国吉ヌ比屋の妻と乳母は姉妹だったといわれ、乳母は、盛親の実母であったという説もある。後に、盛親は尚円王より、豊見城地頭に任命され、乳母は真栄里のヌル殿内の始祖になったという。

第二尚氏三代尚真王の時代に、地方にいる按司達の謀反を防ぐ為に各地の按司全てを首里へ強制的に移住させ、ここにいた先中城按司も真栄里グスクから首里へ移住した。この際に、このグスクは廃城になったと伝わっている。子孫の一部は中城 (なかぐすく) 村の泊 (とまり) という集落に移り住み、泊大屋 (とまりうふや) と呼ばれた。

グスクは老人福祉施設になっており、施設の奥にグスク跡が残っている。昨年もこの場所には来たのだが、入り口が分からず、結局、グスク内は見られなかった。今回は事前に調べ、老人福祉施設に見学許可をもらい中に入っていく。管理人からはハブが出るので注意するようにと言われた。去年は5匹もハブを捕獲したそうだ。気を付けることはハブを踏みつけないことと言われた。府見つめて驚かせなければ、通常は襲ってはこないとのこと。ある本で読んだのだが、沖縄のグスク調査が進まない一つの理由にこのハブがあるという。研究者はハブを恐れ現地での詳細調査に消極的だそうだ。

当時は野面積みの石垣により3つの郭で構成されていた。老人福祉施設の裏に入り口の石垣が残る城門を過ぎると、通路がある。この通路はムラや門中が祭祀を行う幾つかの拝所に通じている。グスク自体はそれほど大きくはなく、丘陵の西の端の狭い尾根に設けられている。まだ御願の時期が来ていないので草刈りがされていないと管理者の方は申し訳なさそうに言っていた。


[ウーアジシー]

真栄里グスクに入ってすぐ南側の崖の上に古墓がある。正面が東向きで周囲をセメントで固め、屋根の欄に瓦を被せた家型の古墓で、その右隣にも小さな墓があり、グスクの南の崖下にある山城腹と関連のある墓で、ヌルシンユーと呼ばれる。墓の手前にはそれぞれ香炉が置かれている。周辺にはアジシーと呼ぶ4‐5基の古墓があったというが、沖繩戦前に日本がこの場新を陣地として利用するということで、現在の場所に遺骨をまとめて祀るようになったという。ウーアジシーの南側にはミチムン (火の神) がある。ムラや門中が拝む他、綱引きでは西マールーが拝む。


[ターチュージョー]

通路を進むと北側への入り口がある。ちょうど先ほど見たウーアジシーの北東に位置に別の古墓がある。ターチュージョーと呼ばれ、墓は周囲をセメントで囲まれ、屋根の頂上部に赤瓦が載せてある。正面が西向きで2つある墓ロは、向かって右に仲門、左に大栄の祖先が祀られているといい、それぞれの墓口の前に香炉が置かれている。


[ナカントウン]

ターチュージョーの南西側に位置する平坦な広場にナカントウンがあるというが、なかなか見つからない、草むらから石が少し頭を出していた。周りの草をむしると、写真で見た拝所が現れた。ここがナカントウンだ。ウマチーには栄元、大栄、我朝、仲間、仲門、山城等の門中とムラが落ち合って祭祀を行う場所だそうだ。


[クボーウタキ]

更に道を進むと北端の崖上にクボーウタキがある。クバの御嶽または単にクバヨーともいわれ、「琉球國由来記」にある「城内之嶽コバウノ御イべ」と考えられている。琉球石灰岩を積んだ祠があり、香炉が2つ置かれている。向かって右端の香炉は今帰仁への遙拝のためのものだという。ムラや門中がウマチー等に拝む。


[遙拝所]

クボーウタキの奥にもう一つは拝所がある。お通し (ウトゥーシ、遙拝所) だ。竜宮神、ナジャー山と書かれている。解説書では、崖下にあるイビへの遙拝のための香炉と書かれていた。


[ウィーンカー] (未訪問)

真栄里グスクの西側崖下にウィーンカーがあると書かれていた。拝所がある丘陵上から下に下る階段がある。多分ここが井戸に通じるところなのだろう。階段を降りていくのだが、階段は腐食が進み手摺ははずれ、所々壊れている。途中で階段は倒木に塞がれてしまった。迂回して階段に戻り進むと給水パイプがある。この先に井戸があるのではと思い進むが、途中で階段は土砂や木々で完全に埋没し先に進めない。資料では湧口に石囲いがされ香炉もあると書かれているので御願はされているので、どこかにその道があるのだろう。丘陵の麓からの道があるのではとグスクを出た後、丘陵下におり探すが見つからなかった。戦前までは豆腐作りによく利用されたという。また、護佐丸の三男盛観が先中城に匿われた際、このカーに身を潜めたとの伝承も残る。



[イビ ]

内間原の西端、グスクの崖の下にイビと呼ばれる拝所がある。旧5月にはムラのハ一リー拝みや門中のヘンサーゴー拝みが行われる。綱引きでは西マールーが拝んでいる。また、琉球由来記にはヨナフシハマノ嶽と記載があるが、現在、ヨナヨシ原には御嶽はなく、この拝所からリューグ神を遙拝している。


アーマーガー

アミヤ原の真栄里グスクやロンドン社公園がある丘陸の北面下にアーマーガーと呼ばれる井戸がある。石岩層の下から湧き出しているカーで1963年 (昭和38年) に設置され、全世帯に飲料水を供給した真栄里簡易水道の水源で、水量豊富で古い時代から利用されたカーといわれている。井戸の前は浅い池になっている。池に降りる石造りの階段も残っている。かつては子供たちがここで水浴びをしていたのだろう。現在でも使用されているようで給水パイプがあり、井戸の側には何らかの管理小屋が建っている。


この井戸の周りや丘陵の北斜面には多くの古墓が残っている。真栄里では父系親族集団を腹 (ハラ) といい、腹を構成する下位集団をチュチョーデーといっている。墓を共行するいくつかの腹をまとめて門中と呼ぶ場合と、腹と門中を同義で呼んでいる場合がある。栄里に占くからある腹は18あり、各腹は東マール―か西マール―に属している。



上米次 (ウィーラミシ) 腹の墓

真栄里から糸満に子孫が広がっているこの上米次腹では上位集団を腹といい、それを構成する下位集団を門中といっている。


東門小 (アガンジョーグヮ) 門中墓、東仲間 (アガリナカマ) 門中墓

この二つの門中も真栄里ン18の古い門中。東門小 (アガンジョーグヮ) の本家が先ほど見た上米次 (ウィーラミシ) 腹


浦添腹門中墓

浦添腹は真栄里の門中リストにはない。


のう殿 (ヌールン) 門中墓、仲間門中墓

伝承ではのう殿 (ヌールン) 門中の始祖は王様と大栄ヌルとの間にできた子といわれている。仲間門中は中城按司護佐丸の三男盛観の子孫といわれている。ドンドンガマの伝説に登場する娘はこの仲間門中の娘であるとの伝承がある。

この他にも多くの古墓が点在している。


斜面には洞窟もいくつかある。自然壕ではなく人工的に堀った壕と思われる。壕の内側の面には掘った跡が残っている。沖縄戦での住民の避難壕だったのだろうか?それとも日本軍が掘った壕なのだろうか。沖縄戦ではこの地は6月12日に糸満を制圧した米軍が国吉を目指して進んできた地帯で、6月17日にはこの真栄里一帯は米軍に占領されていた。



チングスク

真栄里グスクがある丘陵を東に進み真栄里集落を抜けたところ北側の小字のウテル原の雑木林の中のチングスクはある。

城塞としてのグスクではない様だ。このグスクの情報を探すが、非常に少ない。図書館でも探したが、見つからない。城塞としてのグスクではないだろう。グスク内には相当な数の拝所があった。各拝所への道は整備されている。コンクリートで道を固めているところもあれば、昔に造ったのだろうが、石垣で道端を固めている所もある。現在でもこれ程までに綺麗に整備されていることから、現在でも集落の拝所として大切にされているのだろう。

グスクへの階段を北側から登ると途中にチン按司の墓と伝わる拝所がある。綱引きでは東マールーが拝んでいるそうだ。真栄里集落の保才 (フモー) 腹はこのチン按司の子孫といわれている。保才 (フモー) 腹の本家は絶えてしまっているので東ン門が本家を継いでいる。

見つけただけでも20ヶ所以上の古墓にあった。道から外れたところにも墓があったので、実際にはもっと多いと思われる。村の拝所としてのグスクであろう。


メーデーガ-

ウテル原のチングスクの北のサトウキビ畑の中、集落から字国吉へ通ずる市道真栄里国吉線脇に井戸跡ある。石灰岩から染み出す湧き水を利用したカーで、脇を半円形に石積みし、上方に香炉を設置している。伝承では、カーの下方で仲門の祖先が焼き物を焼いたという。綱引きのときには東マールーが拝んでいる。


これで真栄里集落付近の文化財見学は終わり、今度は集落から離れた二つの場所にある文化財を探しに行く。



クグシクユー

字真栄里の南にある小字 長増原の南側にはクグシクユーと呼ばれる真栄里集落の嶽元 (タキムトゥ) の栄元腹の古墓があると資料には載っていた。地図はなく、生コン工場の近くの雑木林の中との情報のみ。これを頼りに探す、生コン工場は簡単に見つかった。雑木林を探すが、周りはほとんどが雑木林だ。拝所なので入り口らしきものをさがす。雑木林の中に空間らしきものがあるので、中に入っていくと、見つかった。(随分と拝所探しの腕が上がったと自画自賛する) この墓はクグシクユーまたはクグシクと呼ばれており、綱引きのときに東マールーが拝んでいる。


潟井 (カータガ-)

字 真栄里の西の海岸沿いにある小字の兼久原 (カニクバル) に一つ井戸がある。カニクとは海岸之砂地の事で、この井戸がある西側はかつての海岸線だった。

畑地の中に、カータガーまたはスーガータガーと呼ばれる湧泉があり、現在でも農業用水に利用されている。カータガーに隣接して川田原貝塚が発見されており、昔は人が住んでいたことがうかがえる。カータガーから南側一帯の農地を、メーガータ (前潟) と呼ばれていることからカータガ-とは潟井と書くのだろう。



沖縄の春の訪れは本土よりも早く一月下旬から二月上旬で、まさにもうすぐ春が来る。所々で桜が開花し始めている。今日は晴天で綺麗な桜が真栄里集落で咲いていた。例年は沖縄各地で桜祭りが尾の時期にい行われるのだが、今年はどうなるのだろう。沖縄では新型コロナ感染が再燃しており、県独自の緊急事態制限が発出されている。桜祭りは中止になっても、桜は咲いているので、桜を見に行くことは問題はないだろう。そういえばいママで訪問したところで、桜の綺麗な場所として八重瀬岳があった。次回の訪問はこの八重瀬岳経由で行ってみよう。


参考文献