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無門関について

2018.01.29 13:56

https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/mumonkan1.html  【無門関について】 より

「無門関」は中国宋代(南宋)臨済宗楊岐派の禅僧無門慧開(1183~1260)

によって著された公案集である。

彼は古今の禅者達の間に交わされた問答商量の中から48則を選び、評唱・頌を付けて公案集にした。

参禅修行者が目指す悟りやその悟境の指標になることを望んだ。

久松真一の「東洋的無」や西田哲学の「絶対無」の原典としていまや世界的にも有名である。

1249年入宋した我が国の僧心地覚心(法灯国師、1207~1298)は大梅山に登って法常禅師(752~839)の塔を礼拝していた時、偶然友人の僧源心にめぐり会った。

源心から「当代第一の明師は無門慧開だ!」と聞いた心地覚心は杭州の霊洞山護国仁王寺に登って無門慧開(1183年-1260年)に相見した。

問答数番の後,」無門は心地覚心の見解を肯い、印可を与えたと伝えられる。

このようにして、無門慧開の法嗣となった心地覚心が、帰国に当たって挨拶に来た時、無門慧開は自賛の肖像画や自らの著書「無門関」を土産として与えた。

密教僧でもあった心地覚心は瑩山紹瑾(1268年 - 1325年)ら、多くの曹洞宗の僧らと交渉をもったため、その密教化に影響を与えたと考えられている。

無門関と碧巌録

日本で最もよく読まれる禅の本(公案集)に「無門関」のほかに「碧巌録(へきがんろく)」がある。

この二つの書物は禅においてのキリスト教の聖書のような役割をしている。

「碧巌録」は雪竇重顕(せっちょうじゅうけん、980~1052))と圜悟克勤(えんごこくごん、1063~1135)によって作られた。

雲門派の禅僧である雪竇重顕は「景徳伝灯録」などから、古来の禅者の言行録100種を抜き出し「雪竇頌古百則」を作った。

「雪竇頌古百則」は本則と頌から成る。

これに臨済派の熱血僧圜悟克勤が垂示、著語、評唱を付けたものである。

垂示とは序であるとともにまとめである。著語とは寸評である。

評唱とは批評である。

「碧巌録」は12世紀の初めに現在の形に成った。

「無門関」は1328年頃 臨済宗楊岐派の無門慧開(仏眼禅師、1183~1260)によって著された。

古来の禅者の言行から48則選び、評唱・頌を付けた公案集である。

図1に示したように、「無門関」は本則、評唱、頌から成り、

「碧巌録」に比べ文段構造が簡単になっている。


fig.1  

文段構造

図1 無門関の各則の文段構造

 

室町時代には日本の五山の禅僧達は「碧巌録」を禅の最も優れた教科書として愛読していたとのことである。

「無門関」は中世においてはそれほど注目されなかったようであるが、江戸期に脚光を浴びるようになり、現在においても盛んに提唱されている。

ここでは西村恵信訳注、岩波文庫「無門関」を主たるテキストにして合理的科学的立場から「無門関」の公案48則を分かり易く解説したい。 (略)

本則:

趙州(じょうしゅう)和尚、因(ちな)みに僧問う、

「狗子に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや?」

州云く、

「無」。

評唱:

無門曰く、「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透(とお)るべし。

妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。

祖関透らず、心路絶せずんば、

尽(ことごと)く是れ依草附木(えそうふぼく)の精霊(せいれい)ならん。

且(しば)らく道(い)え、如何(いかん)が是れ祖師の関。

只だ者(こ)の一箇の無字。乃(すなわ)ち宗門の一関なり。

遂に之を目(なず)けて禅宗無門関と曰う。

透得過する者は但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、

便(すなわ)ち歴代の祖師と手を把って共に行き、

眉毛(びもう)厮(あ)い結んで同一眼(どういつげん)に見、

同一(どういつ)耳(に)に聞く可し。豈(あ)に慶快(けいかい)ならざらんや。

透関を要する底(てい)有ること莫(な)しや。

三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、

通身に箇(こ)の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。

昼夜提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ、

有無(うむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。

箇の熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相い似て、

吐けども又吐け出さず。

従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)して、

久々に純熟して自然(じねん)に内外(ないげ)打成(だじょう)一片ならば、

唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。

驀然(まくねん)として打発(だはつ)せば、天を驚かし地を動ぜん。

関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得、

六道四生(ろくどうししょう)の中に向って遊戯三昧ならん。

且(しば)らく作麼生(そもさん)か提撕(ていぜい)せん。

平生(へいぜい)の気力を尽くして箇の無の字に挙せよ。

若し間断せずんば、好(はなは)だ法燭の一点すれば便ち著(つ)くに似ん。」

頌:

狗子(くす)仏性、全提(ぜんてい)正令(しょうれい)。

わずかに有無(うむ)に渉(わた)れば、喪身(そうしん)失命(しつみょう)せん。

注:

趙州和尚:趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)(778~897)唐代の大禅者。

南泉普願(748~834)の法嗣。趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン

仏性: 梵語Buddhataの漢訳。如来蔵・覚性ともいう。

仏としての本性、仏になる可能性のこと。

大乗仏教(中期大乗仏教)ではすべての人間および存在がこれを具えていると説く。

(大乗仏教:その3、如来蔵と仏性を参照)。

無: 趙州の答えにでてくる「無」は「有るとか無い」の無ではない。

また思想哲学上の無でもない。

「無門慧開和尚語録」で無門慧開自身が説いているように、

参禅中にこの無に「無無無無、無無無無。、無無無無、無無無無。」

と全身全霊で集中する。

このことで開発される一種の心的集中状態(無字三昧)を指す。

具体的には「無」に精神を集中し、「ムウー!」と力強く心で念じる。

公案への集中が進むと、腹式呼吸の呼気の時に「ムウー!」

と力強く息を吐き出すようになる。

息を吐き出しながら、「ムウー!」と低声が出るまでになる。

「ムウー!」、「ムウー!」

と平生の気力と体力を尽くして、続けることで無字三昧に入るのである。

このあたりは何回か接心会(集中的坐禅会)に参加して体験・体得するしかないだろう。

この無字三昧の状態から禅の悟境を開発し、

禅の第一関門を突破することを目指しているのである。

これより分かるように、この「無」は単なる思想や哲学の対象ではない

 参禅修行者にとって、坐禅中に湧き起こる雑念妄想や、従前の悪知悪覚を蕩尽し、

悟りの最初の関門を突破するための手段となっている。

(無門関と無字を参照 )。

祖師の関:祖師達が設けた禅の関門。

依草附木(えそうふぼく)の精霊(せいれい):仏教では死後中有の状態にいる時、

霊魂は草木に宿っていると信じられた。

藪や草木に住み着く精霊のようなつまらない存在という意味。

「臨済録」の示衆には「依草附葉(えそうふよう)野狐の精魅(せいみ)」と言う、

これと似た表現が見られる。

臨済録示衆10-7を参照。

眉毛厮(あ)い結ぶ:最も親しい関係になる。

三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう):「父母恩重経」に胎児は母胎中にいる時、

三百六十の骨節、八万四千の毛穴を生じると言われる。

ここでは身体全体を意味している。

提撕(ていぜい)する:提も撕も、ともに「ひっさげる」という意味。ひっさげる。

虚無の会:虚無の考え。

有無(うむ)の会(え):

万有世界の本体や霊魂は常住不滅だと見る考え方を「常見」、または「有の会」という。

一方、一切の現象は空だから、死後何も無いと見る考え方を「断見」という。

この「常見」と「断見」の二見を有無の会と言っていると考えられる。

現代語訳

本則:

ある僧が趙州和尚に尋ねた、

「犬(狗子)にも仏性が有りますか?」

趙州は云った、「無」。

評唱:

禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師達が設けた関門を透過しなければならない。

素晴らしい悟りを得るには一度徹底的に意識を無くすことが必要である。

祖師の関門も透らず、意識も絶滅できないような者は

すべて草木に憑り付く精霊のようなものである。

さて、それでは祖師の関門というものは一体どのようなものであるか。

ここに提示された一箇の「無」の字こそ、

まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つに他ならない。

そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。

この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるだけでなく、

同時に歴代の祖師達とも手をつないで行くことができ、

祖師達と眉毛どうしを結び合わせて、祖師と同じ眼で見たり、

同じ耳で聞いたりすることができるのだ。

なんと痛快なことではないか。どうしてこのような関門を透過しないでおられようか。

360の骨節と84、000の毛穴を総動員して、

全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。

昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。

しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。

あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、

吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、

時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、

自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。

これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、

ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。

ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、

驚天動地の働きが現われるだろう。

それは、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、

仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢いだ。

この生死の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中でも

遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになるだろう。

さて、諸君はどのようにしてこの無の字をひっ提げるか。

ともあれ持てる力を総動員して、この無の字と取り組んでみよ。

もし絶え間無く続けるならば、ある時、

小さな種火を近づけただけで仏法の灯火が一時にパッと燃え上がるだろう。

頌:

犬に仏性が有るかどうかと、仏陀の命令が丸出しされたのだ。

うっかり有無の話だと受け取れば、忽ち命を奪われるだろう。

解釈とコメント

 この公案は複雑な面も持っている。

「無門関」とほぼ同時期に成立した公案集に「従容録」という公案集がある。

「従容録」は曹洞宗の万松行秀禅師(1166~1246)が宏智正覚の「頌古百則」

を元に作った公案集で、臨済系の「碧厳録」と並ぶものである。

宏智正覚(天童正覚、1091~1157)は曹洞宗の有名な禅師であった。

そのためか、「従容録」は曹洞宗の人々によって重んじられ、

よく読まれる公案集として知られている。

「従容録」の著者である万松行秀禅師(1166~1246)は

無門関」の著者無門慧開(1183~1260)と殆ど同じ時代に生きた人である。 

「従容録」第18則「趙州狗子」は「無門関」第1則と殆ど同じである。

従容録第18則「趙州狗子」では、

僧趙州(じょうしゅう)に問う、

「狗子に還(かえ)って仏性有りやまた無しや?」。

州云く、

「有」。

という問答と、

僧趙州(じょうしゅう)に問う、

「狗子に還(かえ)って仏性有りやまた無しや?」。

州云く、

「無」。

という問答が同時に紹介されている。

「無門関」では「無」の答えの方が採用されている。

趙州に質問したこの僧は「涅槃経(大乗涅槃経)」に説かれた

「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」

の文句を充分知った上でこの問を発していることが分かる。

従って、僧の質問は「犬に仏性があるかどうか?」を質問しているのではなく、

「仏性とは何か?」

という質問をしていると考えることができる。

趙州はこの質問に対し「無」と答えている。

この趙州の「無」とは何かが第一則の主題でもあり「無門関」の主題ともいえるだろう。

趙州は同じ質問に対しある時は「有」とある時は「無」と答えている。

ある時は「有」、

ある時は「無」と答えるのは論理的矛盾ではないかと、読者は考えるだろう。

無門もこの矛盾に気が付いている。

実際彼は、「評唱」に於いて、

「この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。」

と言っていることからも分かる。 

この矛盾は禅の悟りの核心をなす「仏性」とは何かが分かれば解決される。

仏性とは何かという問題は

中国禅の実質的な大成者である馬祖道一禅師の禅が分かれば解決される。

以下に馬祖道一禅師の禅とその思想を見よう。

  basonozensisou

馬祖道一の禅思想

馬祖道一(709~788)は南嶽懐譲の弟子で、中国禅の黄金期を代表する禅者である。

門下は800余人、嗣法者は88人とも139人とも言われ、多彩で個性的な禅者を輩出した。

彼は現在日本に伝わる中国禅の実質的な創始者と言える。

馬祖道一の禅風は<作用即性>、<日用即妙用>、<即心(即仏>、<平常心是道>

などの名文句に表現される。

<作用即性>とは本性とその用(機能)は同じであるという意味である。

<日用即妙用>とは日常生活の中に仏法の妙用がそのまま現れているということを言う。

馬祖の弟子である在家の居士 ホウ蘊(ほううん、?~815)は

「神通ならびに妙用、水を運びまた柴をになう」。と詠っている。

その意味は

「水をくんで運んだり、柴を取って運ぶ運水搬柴(うんすいはんさい)」

という平凡な日常生活の動作の中に仏法の神通と妙なる働きが現れている。」ということである。

<即心即仏>について:

景徳伝燈録卷六には「馬祖、一日衆に謂って曰く、

「汝等諸人、各々自心これ仏なることを信ぜよ。この心即これ仏心なり。」

とある。

これより<即心即仏>とは

心=仏=仏心

とを言っていることが分かる。

馬祖は坐禅修行によって煩悩を離れた心こそが仏だと言っている。

この心は我々俗人の欲と煩悩にまみれた心を指しているのではない。

我々普通人は仏というと仏像など礼拝の対象になっている超越者としての仏を考える。

馬祖はそのような信仰対象の仏ではなく坐禅修行によって浄化された

自己の心こそ仏であると言っているのである。

従って、馬祖の言う<即心即仏>は

心=仏=仏心=坐禅修行によって浄化された心 ・・・(1)

という等式によって示すことができるだろう。

右辺の「坐禅修行によって浄化された心」とは

現代的に表現すれば坐禅修行によって健康になった脳だと考えることができる。

従って、(1)式は

心=仏=仏心=坐禅修行によって健康になった脳) ・・・(2)

と書き替えることができる。

(2)式は馬祖の言う<即心即仏>を表すとともに、

仏の定義式ともなっている。

(「仏とは何か?:新しい仏陀観」を参照)。

<平常心是道>について:

源律師という者が馬祖に尋ねた。

「和尚は道を修行するのにてだてを用いますか?」

馬祖「てだてを用いるよ。」

源律師「どういうてだてを用いるのですか?」

馬祖「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠る。」

この問答は、悟ったからと言って聖人として急に特別な生活になるのではない。

仏教を生活に生かして平常心で無事(平和)な生活を送ることが

仏道にもかなうと言っていると思われる。

我が国江戸時代の白隠慧鶴禅師(1685~1768)は

著書「遠羅天釜(おらてがま)」の中で

「日常生活の四儀(行住坐臥)がそのまま禅であり、禅がそのまま四儀(行住坐臥)である。」

と述べている。

以上のことから分かるように馬祖の禅は単純で分かり易い。

中国人の心情に訴える革新的・画期的な禅であったと言える。

馬祖道一は中国禅の黄金期を出現させた。

彼の門下は多く多彩で個性的な禅者を輩出し<洪州宗>の教祖となった人物である。

(馬祖道一の禅思想を参照)。

馬祖道一は現在日本に伝わる中国禅の実質的な確立者と言えるだろう。

馬祖道一の禅思想と体用思想

馬祖の禅思想は中国の思想史の観点から比較的簡単に理解できる。

中国において魏晋より南北朝時代(2世紀~6世紀)には諸学派の異説が乱れ、

論争が止めどもなく続いた。

湯用トウ(とうようとう)氏によれば彼等の論争の中心は

「体用(たいゆう)」の問題だとされている(湯用トウ(とうようとう)著「漢魏両晋南北朝仏教史」)。

ここで体とは本体、用(ゆう)は働きや作用を意味している。

玄学(老荘思想)と仏教は無を尊び有を賤しむ立場に立った。

玄学(老荘思想)では、無を本とし、有を末とした。

「体用」とは本末を意味している。

老荘思想では「無」は万物を生み出す第一原因とされる。

中国に仏教が受容される時「空」は老荘思想の「無」に対応するものとして理解された。

湯用トウ(とうようとう)氏によれば、

中国仏教において空思想の権威とされる僧(そう)肇(じょう)(384~414)の思想は

「体即用」の思想とみなすことができると言う。

「体即用」とは本体とその用(働き)は不即不離の関係にあることを言う。

華厳宗の圭峰宗密(780~841)によれば馬祖の洪州宗の教えでは

一切の言語・動作すべてが仏性の全体の作用であると考える。

さらに貧瞋痴や悪業などの煩悩も仏性の働きにほかならぬので、

そのままの相が悟りとなり、天然自然にして任運自在、

修すべき道もなく、断ずべき煩悩もないのが解脱であると説く。

これは体用思想である。これを図2で説明する。

(以下略)